第4話 1つのきっかけ【part2】

【山形をこよなく愛し、山形の人たちから敬愛された社長】

その後、Yさんはさらに出世をして社長になり、次々に新しい企画を発表し実行していった。次世代ディスプレー有機ELの量産化に世界で初めて成功した。これを私は米沢の工場で見学した。この製品の販売が成功し事業は飛躍的に伸び、上海に工場を建設し、それが成功し、続いて東南アジアの拠点としてタイに、ついで北米の拠点としてメキシコに工場を建て、いずれも成功した。またT社を本社から独立した形態にし、念願の株式上場も果たした。本職とは少し異なる企画も行なった。太陽が燦々と入る大きなサンルームを建て、水耕栽培を始めた。クラシックの音楽を流すと、植物の成長が早く、綺麗な花が咲き、大きな実を結ぶという実験(?)をしていた。その横に大きなオルゴール館を建て、年々新規に欧米の骨董の名品を集めていた。そして3、4名の綺麗な制服を着た社員がマイクを握って、そのオルゴールの作られた国、年代、音質、特徴などを専門的に分かりやすい標準語で説明した後、演奏をしてくれた。社員同士の会話は私も耳慣れている山形弁であったが……。

もっと驚いたのは女子バレーボール部を創設したことである。これはプロのバレーボール部のようで、私も名前を知っている有名なバレーボールの選手が4、5人いた。実業団の全国大会で優勝したこともある名門チームに成長した。

Y社長は山形県のT市の商工会議所の会頭を勤め、山形県の経済界のリーダーの1人となって活躍するようになっていた。そして、あんなに行きたがらなかった山形をこよなく愛し、山形の人々からも敬愛されるようになっていた。Yさんのことを「独自の発想力を持つ天才肌の経営者だった。そして周囲の人々への気配りも忘れない温かい人柄であった」と評する人もいる。その多忙な中を1度蔵王の樹氷の見学に同道してくれた。

私の山形高校時代は食料難で樹氷を見学しスキーをする元気はなかった。ゴンドラに乗って見る樹氷は素晴らしかった。

面白かったのは雪の上に首から上しか出ていない地蔵さんの顔の前に、賽銭箱が小さいスキーを履いていたことである。多分、朝、誰かが賽銭箱を引いて来て、夕方に片付けるのであろう。Y社長と私は目を見合わせながら、ニコニコしてうなずきあった。

【さくらんぼ狩りに招待される】

この頃から、私と妻はさくらんぼ狩りに招待していただくようになった。Y社長は多忙なので私と話す時間は、せいぜい1時間くらいだったが、その親切に私たちは感謝した。直接、木からもぎとって食べるさくらんぼの美味しいこと!美味しいこと! 1日か2日立ってから東京に送られてくるさくらんぼの味とは全く違う味であった。そのさくらんぼ狩りの招待は数年続いた。最初の日はさくらんぼ狩り、翌日はバスで最上川下り、出羽三山を祭る神社と木無垢というのか、塗料の全く塗ってない国宝の五重塔を見学した。翌年は蔵王の頂上のお釜を見学し、山形を楽しんだ。

翌年はT社の下請け工場のT専務に旧県庁や旧制山形高校の跡地などを案内してもらった。旧県庁は明治時代の庁舎に修復され、階段や廊下の彫刻、天井の浮き彫りの彫刻などヨーロッパの宮殿を見学するような感じであった。明治時代の山形県人の先見性と優れた力量に敬意を払った。その後、旧山形高校を見学した。現在は山形大学文理学部になっている。一巡してみると昔の面影はほとんどない。200mくらいに渡って築かれていた石垣がわずか10mくらい残っているに過ぎなかった。我々陸上競技部が誇りにしていた、石垣の上にテントが張られ、(昭和)天皇が陸上競技部員の100m競争を見学された展覧試合の石垣も、20mの高さにそびえていた20本のポプラの木もなくなっていた。(part1の写真参照)ただ、私の青春を見ていてくれていた懐かしい千歳山、遠くにある雁戸の山々はその日も私を見下ろしてくれていた。

『されど今はなし、数々のふるき日のわが思い出……』。

その時急にその一節が蘇ってきた。三好達治の詩だったろうか。私はしばし感慨にふけった。

【1つのきっかけ】

T社の下請け会社のT専務とも2、3度山形県の名所を案内していただくうちに親しくなった。ある日、「Y社長は先生に大変感謝しています」と言って、T専務はこんなことを話してくれた。

『Y社長に山形への転勤命令が出た時、先生に断っていただくつもりで診断書をもらいに行ったところ、先生に“北海道の患者さんはどうするんですか”というあの一言で目が覚めたそうです。そうしてY社長は山形に来て全力で働きました。そして彼の出したアイデアはほとんど成功しました。これはもちろん全社員の努力の賜物ですけれど……。もし新井先生のあの一言がなかったら、今の自分はありません。もし東京にあのまま残って居たら、せいぜい常務止まりで自分のアイデアは何一つ生かされなかっただろう、とY社長は言っておられます』

私の一言がもしY社長の成功の“1つのきっかけ”になったとしたら私にとって、これほど嬉しいことはない。そう思いながらT専務の話を聞いていた。