【恩師・榊原仟先生との出会い】
『心疾患のうちで、手術のできる疾患名を列記せよ。』
これは1953年、医学部の卒業試験に心電図の大家といわれた内科学教授の出題した“内科”の問題である。4つか5つの心疾患名を正確に書けば、80点以上とれたという時代であった。心臓外科という言葉はまだない時代のことである。
私は医学部4年生(現在の6年生)の夏から、ある外科病院に住み込みのアルバイトをしていた。外科が次第に面白くなり、将来、外科医を目指したいと思うようになっていた。
インターンも終わりに近づいたある日、東京慈恵医科大学附属病院の廊下で東京女子医科大学病院・榊原外科に勤務しているⅠ先輩に偶然お会いした。私が外科志望であることを知った先輩は「榊原外科にぜひ、入局しろ」と強く私を誘った。
病院見学という軽い気持ちで女子医大に行った。Ⅰ先輩について行くと、診察室と書かれた部屋に連れて行かれた。そこには口髭を蓄えた長身の先生が座っておられた。ちょうど、外来患者の診察が終わったところのようだった。Ⅰ先輩は直立不動の姿勢で「今年、入局する新井です」と私を紹介した。心の準備のできていなかった私は、少し慌てて“まだ入局は決めていません”と言おうかと思ったが、その場の雰囲気で「よろしくお願いします」と言ってしまった。これが私に心臓外科医としての進路を決めさせた榊原仟先生との決定的な出会いであった。
その翌年の1954年、私は女子医大榊原外科に入局した。その頃は、ボタロー氏管開存症の結紮術、ファロー四徴症のブラロック手術、僧帽弁狭窄症に対して左心耳を切開しそこから右示指を心房内に挿入し、指先で僧帽弁狭窄を切開する用指交連切開術などが行われていた。
【わが国心臓外科ことはじめ】
1951年5月、榊原仟先生はボタロー氏管開存症(PDA)の結紮手術に本邦で初めて成功する。患者が中華民国の要人の娘だったので、“心臓手術が結ぶ日華親善”と新聞は大きく報道した。1ヶ月後の同年6月、東京大学医学部附属病院・第2外科(福田外科)でPDAの結紮手術が成功する。東大第2外科の医局日誌にこの時の様子を示す“ゲロイシュ(雑音)の力”と題する4コママンガがある。
1)患者がストレチャーで病室から手術室に運ばれて来る。
2)手術室内では手術台の中央で木本誠二助教授(当時)が大きなハサミを持っている。助教授は「今日はPDAの結紮手術ではなく切断手術を行なう」と宣言する。この頃、結紮手術では再開通する症例があるので、米国では一歩進んだ切断手術が主流となっていた。そこで血管外科専攻の木本先生は切断手術に踏み切ろうとしていた。ところが、医局員達は体を震わせて「NO!」「NO!」「切断手術はNO!」とゲロイシュを入れる。
3)医局員のゲロイシュが余りに大きいので、木本先生も結紮手術に方向転換をする。そこで医局員は「YES!」「YES!」「結紮手術YES!」となる。
4)患者は結紮手術が成功して無事に病室に帰る。めでたし!めでたし!
当時の手術室内の空気を良く表したマンガである。
前述の4コママンガで描かれた木本先生のPDA手術は東大での第1例、本邦での第2例目である。木本先生は血管外科を専攻していたので、PDAの切断手術を計画されたのであろう。あるいは、1ヶ月前にPDAでは後輩の榊原に遅れをとっただけに、ここで結紮術より一歩進んだ切断手術により名誉挽回を計られたのではなかろうか。ところが、弟子達のあまりに強いゲロイシュにより方向転換を余儀なくされ結紮術を選ばれたのであろう。これはあくまで私の推論であるが、当時は特別なボタロー鉗子や血管鉗子は無かったので、この方向転換は先生の雅量を物語るとともに賢明な判断であったと思う。MSは前交連狭窄と後交連狭窄を含んでいる。前交連狭窄は比較的容易に指で切ることができるが、後交連狭窄の切開は難渋することが多い。“兄ちゃん、前の方が切れたよ”“よし、そこで止めておけ”という榊原兄弟の微笑ましい会話は第1例目としては適切な判断であった。前交連の切開だけでもかなりの効果が見込まれるからである。
【外科医の夢と3分30秒の壁】
この第1例が成功すると、日本の外科医(心臓外科医という言葉はまだ無かった)は「心臓の中を目で見ながら手術をしたい」という夢を膨らませていた。心臓の中を見ながら手術するには、心臓に入ってくる血液を止めねばならない。3分30秒以上血液を止めると、心臓や脳は回復しなくなる。“3分30秒の壁”といわれ、この壁を破るのは容易ではなく、内外の外科医が精力的な研究を続けていた。
1950年頃、アメリカのBigelowやSwanは生体を冷却して体温を下げると組織の酸素消費量が低下して、常温の時よりも長時間、心臓の血液を止めることができるという実験結果を発表した。日本でも1953年頃から同様の研究が盛んになっていた。
1954年9月、榊原先生はこの低体温法を用いて肺動脈弁狭窄症の切開手術に成功する。新聞は「“冷凍人間”にして切開。心臓の画期的手術」と報じた。さらに、1956年には心房中隔欠損症の手術に成功した。いずれも本邦第1例の成功であった。
【奇跡的に動き出した心臓】
この成功の3、4ヶ月後、低体温法による心房中隔欠損症手術の前後1週間をドキュメンタリーにとらえるラジオ放送がラジオ東京(現TBS)で計画された。まだテレビのない時代である。私はこのクルーの相談役と案内役を務めることとなった。録音は手術の場面から始まった。手術室を見下ろす天井が低く、狭い中2階の部屋で長身のアナウンサーが放送を始めた。しばらくして次の場所に移ろうとして急いで立ち上がったアナウンサーは、低い“かもい”にいやというほど頭をぶつけた。あわや脳震とうかと私は緊張したが、「マイクを握ってさえいれば、何があっても大丈夫です」と、私の心配をよそに手術場面の録音は続けられた。
一方、その時の患者さんの容態は予断を許さぬ状態であった。心房中隔欠損孔の閉鎖後、1時間以上の心臓マッサージと数回の電気ショックでも心拍動は再開しなかった。「これが最後だ」と榊原先生が言ってかけた電気ショックで心臓は奇跡的に動き出した。
最終日の録音の締めくくりにアナウンサーは「外科医の使命はなんですか?」と質問した。榊原先生は「これは昔、フランス人のアンブロアズ・パレが“外科医は傷を縫い、神これを癒し給う”と言っていますが、外科医は切ることや縫うことはできますが、治癒させるのは外科医の力ではなく、神の力なのです」と答えられた。
この番組は、”神これを癒し給う“という題で民放祭参加作品として放送され、社会報道部門第一位として郵政大臣賞を受賞した。
恩師・榊原先生から学んだことは実に多いが、最も感銘深いのは“神これを癒し給う”という精神であった。私はこの言葉を座右の銘として約40年間、心臓外科医としての道を歩んできた。
【45年ぶりに聴いたテープ】
これは後日談である。2000年の暮れだったと思う。テレビマンユニオンから音楽会の招待状を頂いた。所用のあった私に代わって出席した妻が会場で萩本晴彦氏に会ったという。萩本氏は「先生に渡して頂きたいものがあるので、少し待っていて下さい」と何処かに行かれて、カセットテープを持って戻ってきて、「先生にずっと前にお約束していたことをやっと果たすことができました」と言って妻に渡したという。そのカセットテープが“神これを癒し給う―心臓外科手術の記録—”であった。
萩本氏は1955年、ラジオ東京が女子医大に心臓手術の録音の収録にこられた時のプロデューサーであった。その後、ラジオ東京から独立してテレビマンユニオンを設立し、会長まで務められた。「現代の主役・小沢征爾“第九”を揮(フ)る」や「オーケストラがやってきた」などをプロデュ−スしたことで有名である。また、1998年長野冬期オリンピックの開会式では小沢征爾、蜷川幸雄と協力して五大陸を同時中継で結ぶベートーベン“第九”の合唱の演奏を実現した。その直後、疲労のためか脳梗塞を起こしたが治癒したという。私は脳梗塞のお見舞いの手紙を送ったところ、萩本氏は喜んで、この手紙のことを自らが発行する新聞で紹介してくれた。
テレビマンユニオンの音楽会の半年前、新宿駅のホームで松本行きの電車を待っていた私と妻は、萩本氏と偶然お会いした。松本は萩本氏の故郷である。「何年も前からお約束しているテープは必ず近いうちにお届けします」と萩本氏は微笑みながらおっしゃった。音楽会で妻が受け取ってきたテープはその約束のテープで、萩本氏にとっても私にとっても思い出深いテープなのである。
テープの箱には「“神これを癒し給う”1966年1月31日放送。民放祭番組コンクール・社会報道部門第一位、郵政大臣受賞作品」とある。氏が早稲田大学を卒業して初めてプロデュ−スした作品である。私も女子医大榊原外科に入局2年目の時で、萩本氏とアナウンサーの相談役と案内役を務めた。早速テープを聞いてみると、榊原先生の声と20代後半の私の懐かしい声が入っている。若い血をたぎらせて研究を始めた頃を思い出し、思わず目が潤んだ。
テープの箱の裏には「今年、生誕八十八年に当たる本作品の主人公・榊原仟先生と、この放送を担当し去る9月3日に逝去した僚友、杉山新太郎アナウンサーへの感謝と鎮魂の祈りをこめて 1998年10月」と記されている。その萩本氏も2001年9月に脳梗塞で亡くなった。私は萩本氏の冥福を心から祈った。初めて会った時から心が通い合い、氏の発展は私の心を楽しませ、氏も私の活躍を喜んでくれた。
氏が心臓手術のラジオ放送を計画されたお陰で、深い感銘を与えてくれた“神これを癒し給う”という言葉に接することができた。この意味でも私は萩本晴彦氏に心から感謝している。
注)Ambroise Pare` (1510~1590) の “Je pansay et Dieu le gerarist “という言葉を阿知波五郎氏は“余、包帯し、神これを癒し給う”と訳している。
参考文献)
1)榊原 亨、榊原 仟 :心臓外科, 昭和29年
2)三枝正裕:心臓外科ことはじめの頃。生命の科学, 現代外科手術学体系,
第19回月報,1982,6,25、 中山書店
3)榊原同門会編 :恩師榊原仟先生, 昭和56年 医学館
4)新井達太:外科医の祈り, メディカルトリビューン、2001
5)新井達太:45年ぶりに聴いたテープ、MEDICAL DIGEST ,Jan.2002