第3話 カナディアンロッキーからアカプルコの旅―その途次訪問した病院と手術見学― 【part1】

 私は夏休みを利用して、2、3年に1度ヨーロッパあるいはアメリカの有名な心臓外科医の手術を見学する視察団を編成した。いつも10数人の人達が参加した。 この年(1980年)は、カナディアンロッキーを観光してからトロント小児病院、ボストン小児病院、テキサス心臓病研究所、メキシコ国立心臓研究所などの手術見学を予定した。

【トロント小児病院 Tronto Children Hospital】

晴天のカナディアンロッキーを眺め、トロントに入り、トロント小児病院を尋ねた。私は数年前にこの病院を見学したことがある。その時は前日から決まっていた手術予定のほかに3、4人の乳児の緊急手術が入った。生後2~3ヶ月の乳児が緊急で来院すると小児循環器専門医が診察し、必要があれば直ちに種々の検査が行なわれ、危険があると判断されると、心臓外科医と相談の上、直ちに手術が始まる。麻酔医の技術も優れていた。

患児の受診から手術まで極めて能率的であった。最も驚いたのは、未熟児や手術後の患児1人に看護婦が1人ずつ付き添って看護していることであった。集中治療室には30人くらいの患児がおり、30人以上の看護婦が食事、注射、呼吸管理など行き届いた看護が行なわれていた。しかし、医師の数は少なく、1日数例の手術が行なわれるのに心臓外科医はただの5人であった。若い医師はこまネズミのごとく働いていた。トラウスラー教授 (George Trusler)は物静かな人だったが、手術は迅速できれいであった。このような雰囲気を見学するためこの施設を選んだが、訪問した日はあいにく手術室の修理が行なわれ、手術はなくカンファレンスが用意されていた。

【活発なディスカッション】

ちょうど日本からS先生が留学していた。彼は私たちを集め、「皆さん、活発にディスカッションをして下さい。英語のできる人は英語で、苦手の人は私が通訳をします。日本人は遠慮して、知っていることもしゃべりません。しゃべらないとこっちの人は日本人は何も知らない“ばか”だと思ってしまいます。間違ってもいいから是非意見を述べて下さい」と私たちにハッパをかけた。

X線写真、心電図、心エコー、シネアンジオグラフィーが提示され、まず診断から始まり、手術適応の有無などが検討された。S先生の通訳のおかげで活発な討論が行なわれた。S先生も満足そうに、流暢な英語で通訳をしてくれた。その後、ビデオで手術手技を見ながら質疑応答が行なわれた。手術見学よりも多くの知識を得たように思った。終了後、茶菓が用意された。お礼の意味で日本から持っていった5台のカシオの電卓をスタッフに贈呈した。出席したスタッフは6人だったので1台足りなかった。その人が寂しそうな顔をしたのを見た一人の団員が自分の電卓を上げると大変喜ばれた。第1日目から幸先よいスタートであった。

【ボストン小児病院 Boston Children Hospital】

 

 次にボストン子供病院を訪問した。ここのカスタネダ教授(Aldo R. Castneda)は気位が高く、厳しいことで有名であったが、私の出した見学依頼の手紙にいち早く返事をくれた律儀な人でもあった。また、手術の達人で、その素晴らしさは定評があった。私はこの病院を訪問するのも初めてなら、教授とも初対面であった。部屋に通されると全員のロッカーと手術着が用意されていた。全員が着替えて待っていると、小太りの手術室の看護婦長がやって来た。彼女は「今日の手術は完全大血管転位症に対するラステリー手術です。

この病院のカスタネダ教授は大変厳しい方です。大きな声や大きな足音は立てないで下さい。1人の見学時間は“5分”です。5分経ったら手術室を出て、次の人が静かに入って下さい。ここで待っている人も決して大声で話はしないように!」と注意をして出て行った。5分で何が見学できるのかと団員同士顔を見合わせた。1人目は新井先生だと皆に言われ、私は手術室に入った。見学用の脚立が教授の後ろに用意され見やすい位置だった。

ここで、完全大血管転位症とラステリー手術について説明しておこう。正常の心臓は左心室から大動脈が起始し、右心室から肺動脈が起始している。このため赤い動脈血は肺から左心房−左心室−大動脈を通って全身に送られ、酸素を全身に放出する。全身から集められた青い静脈血は上下大静脈から右心房に入り、右心室から肺動脈を経て肺に送られて動脈血となり、上記の順に全身を循環する。 

大血管転位症は左心室から肺動脈が、右心室から大動脈が起始する生まれつきの心臓病である。そのため、赤い動脈血は肺を循環し、青い静脈血は全身を循環する。体に必要な動脈血は肺を循環し、体に不必要な静脈血が体を循環するのだから、この病気の患児は生後1年以内に約80%が死亡する。(図1) 

この大血管転位症の中に、心室中隔欠損(VSD)と肺動脈狭窄(PS)を合併する症例がある。この症例は心室中隔に穴があいているので、左心室から右心室に少し赤い動脈血が流れ込む。そのため、全身に少し動脈血が流れるので3歳、5歳、時には10歳くらいまで生存する。この症例がラステリー手術の 対象となる。

このラステリー手術は最初に右心室を切開する。ついでVSDを利用して動脈血が大動脈に流れるように、テフロンのパッチを用いてトンネルを作る。次いで弁つきhomograft(ヒトの大動脈か肺動脈)を用いて右心室から肺動脈にbypassを行なう。 混雑した交差点の通行をスムーズにするために一方に地下トンネルを作り、他方、地上に橋渡しした道路を作るのに似ている。こうすると全身に赤い動脈血が行き渡り、全身から集まった青い静脈血は肺を循環し、ほぼ正常の循環動態になる。(図2)

【思わぬ展開】

手術見学に話を戻そう。私が見ていると胸骨が切開され、大血管の剥離が始まった。メスさばき、鋏の使い方もきれいであった。実は私はその数年前にラステリー手術に成功している。この成功例の話をしようかと思ったが、教授は気難しい方で、さらに初対面である。その上、手術中である。もう5分近く経過している。全て条件が整っていない。そこで台から下りて交代しようと思った時に、急にトロントでハッパをかけてくれたS先生の言葉を思い出した。「発言しないと、こっちの人は日本人は何も知らない“ばか”だと思ってしまいますよ」。私はこの言葉に背中を押された。それに、もう1つ!見学時間は“5分”と言われた時、“これはなんと失礼な!俺たちを見下している!”と敵愾心のような気持ちが私の心に起こった。それが爆発したのかも知れない。「Prof.Castaneda!」と呼びかけた。しかし、怒りは抑えろ。言葉は穏やかに。と自分に言い聞かせて話を続けた。「私はラルテリー手術を彼が成功した1年後の1970年に成功しました」と話した。教授は「何歳の子供ですか?術後の経過は?」と質問をしてきた。私はそれに答えてから「Dr.ラステリーの弁付きhomograftを用いた右心室・肺動脈bypassの動物実験の報告は1967年ですが、私はその3年前に日本胸部外科学会で全く同じ実験の成功を発表しています。彼の学会発表を知った私は、私の英語と日本語の2つの論文を直ぐ彼に送りました。それ以後、彼が発表する論文には必ず私の論文が引用されています」。ここで一呼吸おいてから「1986年にKirkrinとBarratt-Boyesが編集した心臓外科の教科書の初版912頁に、このことは掲載されています」と話した。教授の表情が一瞬驚きのような戸惑いのような表情に変わった。教授はすぐ看護婦長を呼んで「Prof.新井のグループ全員、手術室に入れなさい。そして手術を見学してもらいなさい。」と命令した。団員は怪訝な顔をして入って来た。“5分”の制限時間が解除されたのだから全員驚いたのであろう。私は一番見やすい台を他の人に譲り、麻酔医の許可をえてその後ろで見学した。テフロンパッチを用いたトンネルの作成も、弁付きhomograftの移植も見事だった。さすが手術の名手である。団員は各人十分に手術を堪能することができた。

教授は手術終了後手を下ろすと「今日はボストンの有名なレストランに昼食を用意しました。皆さんでランチを楽しんで下さい」と一人一人と握手をして手術室を出て行った。看護婦長は私たち専用バスの運転手にレストランを指示した。バスがしばらく走ると海岸に出た。誰かが「昨夜来たところに似ている」と言ったが、まさに昨夜訪れたレストラン・ボストン・ピアフォウBoston Pier 4であった。昨夜たらふくロブスターを食べたので、私はエビを注文した。昨夜と同じ大きなロブスターを注文した人もいた。

私はきついアドバイスをしてくれたトロントのS先生に感謝した。もしあの辛口のアドバイスがなければ、私は発言を躊躇したかも知れない。また全員に十分な手術見学を堪能させ、さらにご馳走までしてくれたProf. カスタネダにも感謝した。この日のランチは手術見学の話で大いに盛り上がった。

翌日は、心臓形態学の第一人者ハーバード大学のバンプラー教授(Van Praagh)にたくさんの心臓の標本を見せてもらいながら講義を聞いた。ほとんどの団員は日本で彼に会っているので、夕食には彼と奥さんを日本の焼肉屋に招待した。塩の容器とコショウの容器を交互に投げ上げて、焼肉にふりかけるパフォーマンスをする店であった。この夜はバンプラー独特の語り口の話と焼肉を楽しんだ。