近年、登山人口の増加に伴い、山岳地域での医療ニーズが高まっています。そこで、注目を集めているのが、山岳医療の専門的知識と技術を持つ「山岳医」です。
今年7月からスタートしたドラマ「マウンテンドクター」などの影響もあり、山岳医の存在が認知され始めましたが、日本では山岳医の数がまだ少なく、認知度も高いとは言えません。しかし、2010年代以降、中高年層を中心とした登山ブームや海外からの登山客の増加により山岳医療の需要は年々増加しています。
本記事では、山岳医療の現状と課題、山岳医の具体的な活動内容について紹介します。登山が趣味の医師はもちろん、山岳医療に興味のある方々に、この分野の魅力と意義をお伝えできればと思います。
目次
1.山岳医とは?
山岳医とは、高山病や低体温症など山で発生する特有の病気やケガに関する専門知識を持ち、設備に制限のある山岳環境での診察・治療、研究などを行う医師のことです。山岳医療は、山で起こる病気やけがを対象とした医療を指し、予防や治療も含めた幅広い活動を行っています。
山岳医の主な役割には、登山者に対する病気やケガの治療や予防・啓発活動、警察や山岳救助隊との連携による救助活動への医学的支援、そして高地医学や山岳環境が人体に与える影響の研究などが含まれます。
山岳医療は一般の医療と比べて、高地、寒冷、孤立した環境での診療という特殊な環境で医療が求められる点が特徴です。高度な医療機器や薬剤が使用できない状況での対応が必要となるため、事故や疾病の予防に重点を置いたファーストエイド・応急処置を中心に活躍しています。警察や救助隊、山小屋スタッフ、地元自治体との密接な協力など、多職種連携も不可欠です。
1-1.高まる山岳医療のニーズ
近年、日本の山岳地域では医療ニーズが急速に高まっています。一度はコロナ禍の影響により登山者は減少していましたが、中高年層を中心とした登山人口の増加や、インバウンド需要の回復に伴う海外からの登山客の増加があります。登山客の増加に伴って山岳遭難や負傷者の数も増加傾向にあり、山岳医療の重要性がますます高まっています。
警察庁の「令和5年における山岳遭難の概況等」によると、山岳遭難の発生件数は年々増加しています。特に、年代別の遭難者の構成を見ると、40歳以上が全体の79.9%、60歳以上の高齢者が全体の49.4%を占めており、中高年層の遭難者が多いことが分かります。
遭難者が山へ向かった目的は、登山(ハイキング・スキー登山・沢登り・岩登りを含む)が77.4%と最も多く、次いで山菜・茸採りが9.4%となっています。状況としては、道迷い、滑落、転倒により、遭難に合う確率が高いようです。
また、訪日外国人の遭難も増加傾向にあり、令和5年(2023年)の発生件数100件、遭難者数145人と平成30年(2018年)の統計開始から最多となっています。訪日外国人との対応においては、言語や文化の違いによる課題など、外国人登山者に対する適切な医療サポートについても山岳医の新たな役割が期待されます。
統計データが示すように、山岳医療のニーズは年々増加しており、高齢者や外国人登山者の遭難防止のため、対策を練る必要があります。
2.山岳医の具体的な仕事内容
山岳医の具体的な仕事内容は、診療のほか、遭難予防のための啓発活動などその他の活動があります。
下記で、一つずつ見ていきましょう。
【診療】
山岳医の主要な業務の一つは、山岳環境での診療です。高山病や低体温症、外傷など山特有の疾患に対応します。山岳診療所では、設備が限られた環境下で迅速な判断と処置が求められます。例えば、富士山の診療所では高山病と脱水症が多く、剣岳では岩場が多いため怪我や骨折への対応が中心となります。
また、山岳医は通常の医療現場とは異なる環境でどのような処置をできるのかが重要になります。遭難場所に向かい治療を行う際、そこには限られた医療器具や薬剤しかありません。 そのため、状況を見つつ雪雨風が避けれる場所に移動し、低体温症の処置としてお湯を入れた水筒を湯たんぽ代わりに使用したり、ブルーシートで覆おうことで熱を逃がさないようにしたりと、その場にある道具を工夫し活用する能力が求められます。
【その他の活動】
山岳医の役割は診療にとどまりません。山岳医は、遭難予防のための啓発活動に力を入れており、一般登山者向けの講演や講習会を通じて、適切な水分補給の方法や、高山病予防のための注意点など、山での安全な行動や健康管理について情報を提供しています。
また、山岳医は救助隊と密接に連携し、医学的観点からアドバイスする重要な役割も担っています。例えば、山岳遭難救助アドバイザーとして警察に協力し、救助隊と共に山岳パトロールを行い、登山者への直接的な予防活動を行う山岳医もいます。一方、山岳環境が人体に与える影響についての研究成果を論文にまとめ、国内外の学会で発表することで、山岳医療の発展に貢献する活動も注目されています。
山岳診療所に滞在する際も、待機するだけでなく積極的に登山道に出て、登山者の健康チェックや予防的アドバイスを行う医療パトロールを実施する山岳医の姿が見られます。加えて、登山者が自力で下山できるよう、最低限の知識と技術を教えるファーストエイド講習会を開催するなど、地道な活動を通じて、山での安全性向上と遭難予防に山岳医が大きく役立っています。
3.山岳医と登山外来
日本の山岳地域における死亡事故の主な原因は、外傷、低体温症、そして心臓突然死の3つがあり、特に心疾患による突然死は救助隊の到着までの間に生存している可能性が極めて低いことが特徴です。山岳医の大城和恵氏の調査によれば、救助隊到着時に生存していた割合はわずか1.4%に過ぎません。このような現状から、山岳医療における病気・ケガの予防の重要性が浮き彫りとなっています。
山岳医の役割は、単に遭難や事故が発生した後の対応だけではなく、事故を未然に防ぐための事前準備や予防、対策が重要視されています。そこで、近年注目を集めているのが「登山外来(山岳外来)」です。
登山外来は、登山を行う前の健康チェックと健康相談を主な目的としています。特に心臓突然死のリスクが高い中高年登山者にとって、心疾患の予防に役立つ外来です。具体的には、血液検査や心電図、心エコー、心肺運動負荷検査(CPX)といった各種検査を通じて心疾患のリスクを評価し、必要に応じて治療をしたり、個々の登山者の体力や健康状態に応じて安全な登山に必要なアドバイスを提供します。
しかしながら、日本国内において登山外来を実施している医療機関は非常に限られているのが現状です。今後、登山外来の普及により山岳遭難や事故の予防に大きく役立つ未来が期待されます。
4.山岳医になる方法
山岳医になるためには、日本では現在、日本登山医学会専門医と国際認定山岳医(Diploma in Mountain Medicine:DiMM)の2つが主な資格です。
4−1.日本登山医学会専門医
日本登山医学会専門医の取得は、日本登山医学会の会員で、山岳診療の実践経験を有する医師であるか、日本専門医機構のいずれかの基本領域の専門医資格を持っていることが申請要件です。4つの領域(基本分野、山中の医学I・II、登山技術)から構成される計21単位のe-Learningプログラムを5年以内に修了する必要があります。
4−2.国際認定山岳医(Diploma in Mountain Medicine:DiMM)
国際認定山岳医(Diploma in Mountain Medicine:DiMM)の取得は、医師、正看護師、救急救命士のいずれかの国家資格を持ち、日本登山医学会の会員であることが受講資格となります。さらに、ロッククライミングや沢登り、雪山などの初級者コースを安全に登下降できる登山技術が必要です。
DiMMのプログラムの具体例として、日本登山医学会学術集会への参加、e-Learningによる座学、実際の山岳環境での演習と検定などがあり、広範な内容を約1年かけて学びます。夏山と冬山それぞれの医療理論や登山技術、山岳外傷学などを学び、最終的に全ての講習と検定に合格する必要があります。
資格取得後も定期的な更新が必要で、DiMMの資格は5年ごとの再履修と更新が求められます。
山岳医として活動する医師の多くは、日常的な診療と並行して山岳医療に携わっており、通常の医療現場での経験を積みながら、山岳医療の専門知識と技術を習得していくケースが一般的です。
参照:日本登山医学会 『日本登山医学会専門医制度について』
参照:日本登山医学会『2024 DiMM 募集要項案』
5.山岳医のキャリアモデル
山岳医のキャリアは、通常の医療と山岳医療のバランスによって成り立っているのが特徴です。独特なキャリアパスを理解するために、日本を代表する山岳医の一人である大城和恵氏を例に紹介していきます。
山岳医として活躍する医師の多くは、日常的な病院診療と山岳医療活動を両立させており、大城氏の場合、山での活動がない期間は2つの病院で循環器と救急の診療に従事しています。通常の医療現場でさまざまな疾患や最新の医療技術に触れることで、習得した知識や技術を山岳環境でも応用できるためです。さらに、登山での事故などを事前に回避するために、大学病院の循環器内科に「登山外来」を開設し、登山者の健診や登山前の相談も行っています。
また、山岳医の活動範囲は、国内の山岳地帯にとどまりません。世界最高峰エベレストへの登山隊にチームドクターとして同行したり、人気テレビ番組の登山企画で医療サポートを行ったりするなど、活動の幅はバラエティに富んでいます。多彩な経験によって、極限環境下での医療提供能力を高めるとともに、山岳医療の重要性を一般社会に広く知らしめる役割も果たしています。
このように、山岳医を目指す医師が、通常の医療現場での経験を積みながら山岳医療の専門知識と技術を習得していくキャリアモデルを知ることで、山岳医の社会貢献のあり方の指針となるでしょう。
参照:朝日新聞Thinkキャンパス 『「登山者が生きて帰る」を支える 日本人初「国際山岳医」となった女性医師』
6.まとめ
山岳医療は、医学の知識と大自然への冒険心が融合した分野です。特に、登山が趣味だったり、アウトドアに興味のある医師の方は、山岳医としての働き方を検討してみてはいかがでしょうか。日本登山医学会専門医や国際認定山岳医(DiMM)の資格取得を目指すことで、通常の診療とは異なる新たな挑戦の機会が広がり、山岳環境での診療や研究、予防医学の実践、国際的な活動まで、幅広い経験を積むことができます。
山への情熱を医療に活かし、登山者の安全を守る重要な役割を担う山岳医として、山岳医療への第一歩を踏み出してみませんか。