第2話 近代外科の開拓者『床屋医者パレ』 —Ambroise Pare` , アンブロワズ・パレ —【 part2】

【パレの業績を辿る】

 ここでアンブロワズ・パレの業績と人柄を辿ってみよう。『床屋医者パレ』という本には彼のエピソードが多く書かれているいので、これに年号を当てはめながら紹介しよう。
パレはフランスのラバルに生まれた。10代の終わり頃、パリに出て床屋医者の徒弟となる。当時、床屋が外科一般の業務を行い「床屋医者」といわれていた。ルネッサンスのころからラテン語の読解力が重視され、ラテン語の能力をもつ者を医者床屋(紛らわしいので床屋外科医とする)といい、もたない者を床屋医者といい、社会的地位に大きな差がつけられていた。パレの家は新教だったので、カトリックの神父の教えるラテン語は習わなかった。16世紀当時“血は忌むべきもの”といわれ、手を汚してやる外科治療は医者(内科医)のする仕事ではないと、社会的に床屋医者は数段低い地位にあった。
 パレが床屋医者を志望したのは、彼の兄と姉の夫が床屋医者だったのでその影響を受けたのであろう。そのためか、パレはラバルに居る時から医学の教科書を読んでいたようである。当時、すでにビゴの本もガレノスの本もフランス語に訳されていたので、この翻訳本を読んだのであろう。徒弟時代、昼間は床屋の仕事をしていた。しばらくして、パレは幸運にも夕方から医学部の解剖学の講義を受けることができるようになった。そして解剖学の大家シルビウス教授の質問に毎回適切に答えたので教授に可愛がられ、特別あつかいを受けるようになっていった。その後、この教授の計らいでパレはパリ唯一の市立病院Ho^tel Dieu(神の家)の研修生になることができた。Ho^tel Dieuは慈善病院で、いつも患者があふれかえっていた。ここでパレは多数の患者を診察し、手術の手伝いをし、手術方法を勉強し、また自ら手術や死亡患者の解剖などを行い、幅広い医学を吸収するとともに、外科医としての腕を磨いた。ここでの3年間の研修はパレの大きな宝となり自信にもつながった。


パレの肖像画■パレの肖像画

【偶然から生まれた新しい銃創治療法】

 研修の終ったばかりのパレはモンテジャン候に認められ、候と戦場に赴くこととなる。
彼の自伝を引用してみよう。
「1536年※、フランス王・フランソワ1世がイタリアのトリノに派遣した大部隊に私は随行しました。神聖ローマ皇帝カルル5世により占領されていた城と要塞を奪い返すためでした。私の正式な身分は歩兵づき外科医でした。戦いはフランス軍の勝利に終わりました。
 戦いが終った後、私たち外科医にはなすべき仕事がたくさん待っていました。私はまだ銃創治療の経験はありません。しかし、de Vigoの“銃創は火薬の粉末による毒を持っているので、その治療には沸騰したサンバスの油を傷口から注ぎなさい”という教えは知っていました。煮え油を使った負傷者はものすごい苦痛にさいなまれ、一晩中苦しみ、うわごとをいい、ある者は死んで行きました。最初、私はこの治療法を行なうことに多少躊躇しましたが、まず、ほかの外科医が煮え油をどのように使用するか観察しました。私は勇気を鼓舞してこの方法を行いました。ところが、間もなく私に支給された油がなくなりました。負傷者が多数だったので他の隊の油も尽きました。そこで、しばらく考えた後、卵黄とバラの油とテレピン油を混ぜた軟膏を代替え品として使うことを決心しました。この軟膏を患者に使用した夜、私は不安で不安で眠れませんでした。
 私は夜明け前に起き出して診察に行きました。軟膏治療の傷の状態は良好で、腫脹も発熱もなく、ほとんど痛みもなくよく眠れたと患者は話してくれました。一方、煮え湯治療の患者は烈しい痛みと苦しみと発熱で一晩中眠れず、傷も悪化し傷の周囲全体が腫脹していました。私はこの状況を十分に検討した後、銃創の治療に煮え油を用いることを中止しました」
 パレは、この戦いの時、彼の薬鞄の中にかなりの量のばらの油とテレピン油を用意して持って行っている。これを刺創か切り傷に使うためだったのだろうか? あるいは出発前から軟膏をつくり銃創に使ってみたいと頭の何処かで考えていたのであろうか? いずれにせよ、サンバスの油が底をついたという偶然から新しい軟膏治療法へと発展した。パレは従来の残酷な外科治療を全く新しい軟膏という優しい外科治療に変革し発展させたのである。これは彼が若い時から生涯持ち続けた“患者さんの苦痛を出来るだけ少なくする”という信念に基づくものであろう。この戦いの時、ラー大尉の右足関節銃創治療の際に発したのが、かの名言であるといわれている。
 このトリノの戦いはフランス軍が勝利し、しばらくトリノに駐屯した。この時、敵の捕虜から銃創に奇跡的によく効く薬を使う有名な外科医がいる。この外科医は決して煮え油を使わないという話をパレは聞いた。パレは興味をもって、なんとかしてその秘薬の成分を知りたいと思い贈り物をしたり、パレの軟膏を届けたりしたが、彼は秘薬を明かそうとはしなかった。2年後、占領軍がトリノを去ることになった時、ようやく秘薬を教えてくれた。それは、生まれたての犬の子をユリの油で煮て、それにミミズの粉末を入れテレピン油とまぜた軟膏であった。パレは自分の軟膏と似ているのに驚いた。いずれも油性のものと消毒作用のあるテレピン油であった。パレはしばらくの間この子犬の油を使用したといわれている。
 パレは自分の軟膏による治療法とトリノの名医の秘薬などの経験をもとに、『火縄銃その他の火器による銃創の治療法』をフランス語で書いて1545年に出版した。これ以後、苦痛も少なく予後のよいこの治療法は少しずつ外科医に広まって行き、兵隊からも歓迎され、パレの名声は高まっていったという。

参考文献)
1)阿知波五郎:近代日本外科の成立—わが国外科に及ぼしたヨーロッパ医学の影響。日本医史学会、1967
2)ジャンヌ・カルボニア著、藤川正信訳 : 医者床屋パレ、福音館、1969
3)渡辺一夫 : フランス ルネサンスの人々,岩波書店、1950
4)森岡恭彦 : 近代外科の父・パレ、日本放送出版協会,平成2年
5)山本義隆  : 一六世紀文化革命、みすず書房、2007
6)IRAM. RUTKOW : Surgery “ Illustrated History”, Mosby, 1993
7)Harold Ellis : Operations that made History, Greenwich Medical Media, 1996