第49話 —Donald Nixon Ross— 【part2】

ロンドンにDr. Rossを訪ねる。

私がDr. Rossをロンドンに訪ねたのは、慈恵医大に移った後の1973年だと思う。その時、私はヨーロッパ心臓外科視察団を編成(団員は心臓外科医数名と医科器械の製造業者と輸入業者数名)し、ヨーロッパの有名な心臓外科医の手術を見学した時である。

Dr. Rossを国立心臓病院に訪ねた。事務所に行くと、予め予定表が用意されていた。

その表によると、1部、9:30 生体弁製作を見学。 2部、10:30 講師によるオリエンテーション。 12:00 昼食。 3部、13:30 手術見学。 17:30 Dr. Rossの自宅でカクテル・パーティとなっており、講師が案内役であった。

生体弁の製作所は玄関を入って左側に4畳半くらいの、外から内部が見えるようガラス張りの部屋があり、そこで30代の“超美人”の女性(Tさんとしよう)が生体弁を製作していた。

次の『    』は生体弁の作り方なので、興味のない方は読む必要はありません。

『部屋の後ろ側にある保存箱には、保存液で満たされたビニール袋の中に大動脈、肺動脈のついた心臓が1つずつ多数保存されていた。Tさんは心臓を取り出して、大動脈の基部を上手に取り出し、3つのバルザルバ洞の大動脈弁の接続している大動脈壁を残し、洞の部分を半楕円形に切除した。こうすると3つの大動脈弁を残した大動脈弁の基本部分が出来上がる。これを、予め作っておいた五徳(鉄瓶などをかける三脚の輪型の器具)のごとき高分子製の3本脚を合成繊維で覆ったステントに丁寧に縫着し、生体弁が完成する。1つの生体弁の完成まで1時間から1時間半かかるという。』

Tさんは器用に大動脈弁を取り出し、3本脚のステントに縫着していた。

見学を終えた団員のなかには、“なんでTさんのような超美人が、あのような生体弁を作成しているのだろう?”と不思議がる団員もいた。その謎は後に氷解した。

(数年後、私は、人工弁博物館のあるアメリカのエドワード社の生体弁の製作工場を見学した。ここには、5、60人の東洋人の女性が働いていた。社員の話では東洋人は器用で縫合技術に優れているので、東洋人のみ採用しているという話だった。)

2部のオリエンテーションは、案内の講師がスライドや映画を用いて、生体弁の移植手術の方法を説明してくれた。

3部はDr. Rossによる生体弁手術を見学であった。写真で見るように、彼は重厚な (性格が重々しく、落ち着いた人) 人で、手術の方法も、重厚な感じではあったが、手術は丁寧で素早かった。

Dr.  Ross邸でのカクテル・パーティ

彼の住宅は豪華な邸宅やマンションでは無く、広く長い1棟の建物を、地下1階、地上4階の20くらいの独立住居に仕切ったアパートメントハウスであった。ロンドンでは大臣級の人でも、このようなアパートメントに住んでいる人もいる。同じような建物だから、初めて訪ねたときは玄関を間違えるのではないかと私は思った。

私たちが着くと、痩せぎすの夫人と医科大学の学生のお嬢さんが迎えてくれた。エレベーターは無く、階段を昇って3階の部屋に通された。既に10人くらいの医局のドクターとその奥さんが来ていた。

約30人全員が集まるとDr. Rossの挨拶でカクテルパーティは始まった。

30代の140cmくらいと背の低い、かなり太った、愛嬌のある女性(Mさんとしよう)が、この会を取り仕切っていた。Mさんは一人ぼっちでいる人を見つけると、楽しく話しをしているグループの所に連れて行って、何か笑わせる話を見つけて、一人をそのグループに和ませた。また話題のないグループを見つけると、何か笑いの種を見つけて笑いの渦に引き込んだ。そして四方に気をくばっていた。シャンパンがなくなりそうになると、お盆を持って地下に行き、シャンパンを7、8本担いでくる。太っている女性だから、いともやすやすと担いで来る。クラッカーがなくなると、新しい箱から菓子盆にクラッカーを入れる。Mさんは落ち度のないように気を配る。その代わり、集まった人達はMさんに全てを任せて、全く手伝いをしない。それが習慣のようである。日本で家庭集会に行くと、お呼ばれをした人の夫人は“何かお手伝いおしましょうか?”と、肝を煎る人がいるが、このパーティではMさん一人に任せている。この方が合理的と思われた。

日本の団員のなかには、全く英語は話せないと言っていた人もいた。しかし、アルコールが入るに従って、英語で話はじめた。その団員の一人が私のところに報告に来た。 “新井さん!あの超美人のTさんの素性が分かりました。”その人の話によると、超美人のTさんはF1ドライバーの夫人であった。F1ドライバーと言えば、映画俳優のようなダンディな人が多く、その上、超高給取りなので若い女性の憧れの的、垂涎の的で、大変もてるようであった。ところが、Tさんの夫は結婚3〜4年後、有名なレースの時、大事故を起こし、即死したとのことであった。その事件の2〜3年後に、この病院に勤めて、現在の生体弁の仕事をしている由であった。

その話を側で聞いていた、日本の団員は“衝突事故とは気の毒だったけれど、それが元で、あの超美人が、少し場違いと思うこの病院で働いていることが分かった。”と理解をしめした。

その直ぐ後、K大学のK教授が来た。“新井先生!ここのシャンパンはおいしいでしょう。日本で買えば1本1万円以上しますよ。もう20本以上開けたから、20万円以上になります。”と説明してくれた。K教授はシャンパンやワインなどには造詣の深い方で、1つのワインにも幾段階の等級のあることなどよく知っていた。私はワインやシャンパンには余り興味が無く、その当時は燗をした日本酒が好きだった。K教授に言われてから、そのシャンパンを飲んでみると、結婚式などで出て来るシャンパンとは違って、おいしかった。

団員も医局のドクターとその夫人たちはメートルが上がって楽しそうであった。

8時少し前にDr. Rossの医局のドクターが来て、“今日はカクテル・パーティなので夕食は出ませんよ。日本のみなさんは夕食をどうされますか?”と心配して来てくれた。私は“ホテル内の食堂のラスト・オーダーは多分9時だと思います。もう、充分シャンパンをご馳走になったので、そろそろお暇いたします。”とその親切に感謝した。

そしてDr. Rossの挨拶でカクテル・パーティは終了し、三々五々帰り始めた。その時である。超美人のTさんが私のところに挨拶に来た。“私は車で来ているので、ホテルまでお送りします。”との親切な申し出でであった。私が団長であることと、年長者であったためであろう。