第16話 泣きべその哲学~陸上競技部の恩師から贈られた詩 —私の小・中学校時代— 【part1】

【“さあ来い!”“エッ!なあに?”】

 私が剣道の防具をつけて、剣道師範の前に立ったのは4歳の時である。

 薬店をしていた私の家の隣の隣が秩父警察所であった。そのため、お巡りさんが時々買い物に来た。その時、どのお巡りさんも私を可愛がってくれた。

 警察所から100メートル位の所に武道館があり、私は時々お巡りさんが剣道の練習をするのを外から見ていた。そして、剣道がやりたくなり、面、小手、胴の防具や竹刀を母にねだって賈ってもらった。ある日、多分、顔見知りのお巡りさんに母が頼んで私を武道館に連れて行ってもらったのであろう。お巡りさんに防具をつけてもらい、剣道師範に教えてもらうことになった。蹲踞して竹刀を脇に構え,立ち上がって正眼に構えるのは自宅で練習していた。この作法で師範の前に立って、竹刀を正眼に構えた。師範は大声で“さあ来い!”と気合いを入れた。ところが、私は防具で耳が塞がれているので、師範が何を言ったかわからず、“エッ!なあに?(何ですか?)”と言って、少し耳を師範の方に向けた。その時、「お面!!」と師範の竹刀が私の頭に飛んできた。師範はもちろん手心を加えてくれたのだが、すごく痛かった。そこまでは覚えているが、その後は覚えていない。多分、私は母の所に泣いて帰って行ったのであろう。母は後々まで、師範の“さあ来い。”に、あなたが“エッ!なあに?”と言ったのが、とても可愛かったと話してくれた。それ以後、練習に行った覚えはないから、多分、“お面!”の痛さで剣道は止めてしまったのだろう。小さい剣道の防具は、私のおもちゃ戸棚の中に長い間そのまま眠っていた。

【心正しくあらざれば、剣正しくあらず】

 つぎに剣道に興味を持ったのは、小学校4年生のころである。このころは、埼玉県秩父市から20キロメートル離れた秩父郡皆野町に移っていた。それは,祖父が高齢のため、私の父が祖父の家業(薬店)を継ぐためであった。ある日、私は父と“大菩薩峠”という映画を見に行った。大菩薩峠は江戸時代、武州(埼玉県)と甲州(山梨県)を結ぶ重要な峠であった。映画はその峠の周辺を舞台とする剣豪映画であった。主人公・机 竜之助は,当時、名俳優といわれた大河内伝次郎が主役であった。映画は大菩薩峠から富士山を一望する画面から始まった。竜之介は、通りすがりの老巡礼を一刀のもとに、意味もなく切り捨てるほどの、非道な武士であった。しかし、彼は、秘剣・“音無しの構え”で名うての剣客であった。ある日、御岳神社の奉納試合に竜之介は甲源一刀流師範・宇津木文之烝と真剣勝負をする。着流しの竜之介は音無の構えで構え、紋付袴、襷掛け(たすきがけ)の文之烝は正眼に構える。しばらく睨み合いが続いたのち、文之烝は正眼に構えたまま、『心正しくあらざれば、剣正しくあらず。』と、竜之介を諭す。これ以後の映画の流れは全く覚えていないが、『心正しく・・・・』の言葉は深く私の心に残った。キリスト教徒であった父はこの言葉に感銘をうけたのであろう。映画の帰り道で私たちは何度もこの言葉を話し合った。そして、その後も「心正しくあらざれば。剣正しくあらず」の言葉は何度も父と私の会話にのぼった。

 ある時、父は「甲源一刀流の使い手がうちの親戚にいる。」と話し出した。甲源一刀流は逸見太四郎義年が江戸時代後期、武蔵野国(埼玉県)小鹿野村(私の実家から30キロメートル離れている現秩父郡小鹿野町)に燿武館という道場を建て門弟を指導し、往時は2,000人もの門弟がおり、現在も第32世・逸見知夫治氏により流派は継承されているという。

 父の話を聞いているうちに、また、剣道が習いたくなった。そして、父に親戚の甲源一刀流の使い手の家に連れて行ってもらった。“使い手”とは門弟のなかでも上手な人を言う。使い手は小学校の教諭をしていたので、稽古は土曜日の夕方になった。この時は、剣道の防具は使わず、もっぱら木刀を用いて、甲源一刀流の形の練習であった。

 小学校6年になった。担任教諭は剣道の有段者だったので、土曜日の午後、クラス全員が防具をつけて、稽古をした。稽古は午後6時、7時に及んだ。冬は早朝の寒稽古も行なった。1人、剣道の上手なクラスメイトがいて、彼にはどうしても勝てなかったが、私もクラスではNo2か3で上手な方だった。

【部落リレー】

 話は駆け足の話に変わるが、私は小学校時代から“かけっこ”が速く,学年ではいつも1番だった。皆野小学校の運動会の最後を飾るのが“部落リレー”であった。皆野町が6つの部落に分けられて,その部落のなかで一番速い男女が1年生から6年生まで選ばれ、12名のリレーであった。その部落毎にピンク,赤、青、黄色,黒などの伝統的なハチマキをした。私の時代には町は12の区に分けられていたが、長い伝統のある“部落リレー”という言葉は残っていた。この部落リレーは,町の人々が試合前から熱狂していた。私は1年生から6年生まで選手に選ばれた。運動会の前になると、近所のある人は卵を,ある人は寿司を,ある人はそばなどを持って来て「達太さん、これを食べて、栄養をつけて頑張って下さい」と激励に来てくれるほどの熱の入れようであった。私は学年で1番速かったので、部落の人々の期待も大きかった。リレーは優勝したこともあるし、2位、3位になったこともあったが、私の部落はいつも上位にいた。

【対校800mリレー】

 6年生の時、県立秩父農林学校主催の秩父郡市小学校の対校800メートルリレーが開催された。13校の参加で、私たち皆野小学校も参加した。午前中に予選があり、そのうちの勝者6校で午後決勝が行なわれた。私たちのグループの予選では、H小学校がダントツに強く、アンカーであった私は20メートルくらい離されて2番でバトンをもらい、そのまま2着でゴールした。このリレーを見ていた人の中に、皆野町出身の埼玉県陸上競技連盟の理事がいた。その人は私たちの所に来て「H小学校は4人とも強いが、皆なで頑張って3メートルくらいで新井にバトンを渡しなさい。そうすれば、新井がH小学校を抜くことができるから。」と激励してくれた。私たちもその気になって、もっと頑張ろうと励まし合った。しかし、決勝でもH小学校はスタートからアンカーまで4人とも強く、速かった。私は20メートル離された2番でバトンをもらった。全力で疾走した。2〜3メートルはつめたと思うが結局2着でゴールした。これが、私の最初の対校試合である。私の知らなかった所には強い人がいるものだと実感した。

 

【part2へ続く】