第16話 泣きべその哲学~陸上競技部の恩師から贈られた詩 —私の小・中学校時代— 【part2】

【中学入学。剣道部に入部】

 翌年、私は5年制の旧制埼玉県立熊谷中学校という男子校に入学した。家から電車で1時間半くらいの電車通学であった。6時半の電車に乗るので、母は午前5時くらいに起きて、朝食と弁当を作ってくれた。冬の秩父は寒い所なので、母は大変だったと思う。私が起きて食卓に向かうころには、炬燵の炭火は赤々と暖かくなっていた。私が駅に向かう前に母は、私の頭に手を置いて「神様、達太のいずるといる(出ると入る)とをお守り下さい。」(家を出て学校に行く道、そして帰りの道をお守り下さい。)とキリスト教の神に祈ってくれた。今でも、その時の母の手の温もりを覚えている。そして心から母に感謝した。

 中学では、どの運動部に入ったらよいか、父と相談した。父は「剣道は一生稽古をして業と精神を磨くことができる。」と剣道部を勧めた。剣道は小学校から稽古をしていたので、すぐ剣道部に溶け込むことが出来た。剣道部の監督H先生は,小学校教諭から検定で中学教師に成った人で、授業では剣道と音楽の教師だった。音楽の時間には、右手だけでメロディーをピアノで弾いていた。多分、両手では弾けなかったのであろう。当時、“見よ、東海の空明けて”という歌が流行っていた。先生は「ミヨ、トウカイノ、ソラアケテ」と右手で前奏を弾くと、“ほいきた!”と掛け声をかける。これを合図にみんなで歌った。男性合唱などしたこともなかったので、男性にはテノール、バリトン、ベースなどの音域のあることも,ハーモニーも知らなかった。私は、この先生に可愛がられた。音楽85点、剣道80点、つぎの学期には音楽80点、剣道85点と,交互に高得点を付けてもらった。

 2年生の時、陸上競技部のキャプテン(5年生)が、剣道部の監督のH先生のところに来て「新井は100メートル競争が速いので、競技部に転部させて欲しい。」と申し出た。私はキャプテンから何の相談もうけていなかったが、その時私はキャプテンに懇願され、また剣道部の監督からOKが出たので、競技部に転部した。

【秩父の山猿】

 2年生のとき、陸上競技部に転部したが、居心地はよかった。それには2つの理由があった。1つは、私は100メートルなどの短距離が速かったこと。2つ目は、部員の半数が熊谷から三峰まで運行する秩父電鉄(秩父線といっていた)の電車通学生のため、以前から朝晩、顔を合わせている仲間ばかりだった。

 秩父線通学者は駆け足が速い人が多かったので、生徒間では“秩父の山猿”と揶揄された。山猿たちは、そう言われるのが、返って自慢でもあった。午後6時頃、練習が終ると、すぐ練習着から制服に着替え、鞄を背負って、駅まで20分くらい駆け足だった。これも足を強くする要因であった。家に着くのは、7時半か8時。風呂に入り、夕食が終ると9時近くなる。勉強を始めると、練習の疲れがでてすぐ眠くなる。だから、学校の成績はいつもクラスで中くらいであった。

 3年生の時から、埼玉県主催の陸上競技大会に参戦した。3年生の時、100メートル競技は2位であった。

 4年生の時から、監督が変わって、兼折 博先生になった。先生は松江高校から東京大学を卒業して、国語の教諭として、赴任された。高校と大学では競技部のマネージャーをしておられ、自分で実践するより、それぞれの競技の指導の要点を勉強しておられた。先生は私たちとほとんど同じ時刻にグランドに来られ、私たちの練習を熱心に見ておられた。各自の長所と短所をよく見てから、矯正すべき要点を指摘された。先生は、指摘した選手と一緒に走り、あるいは跳んで欠点を矯正された。1回に1つの矯正だったから、分かり易かった。

 2、3ヶ月たった時、私は不思議なことに気がついた。以前の監督はグランドに一緒に居ても居なくても、私たちは何の変化も感じなかったが、兼折先生が欠席された時は、練習に“気”が入らないのである。先生が何も言わなくても、見ていて下さるだけで、張り合いが出て練習に“気”が入った。その結果、みんなの練習記録が向上した。

【7〜8センチメンタルの運・不運】

 3年生の時の県大会の時は100メートル競走で2着だったので、4年時には、今年こそ1番になると張り切った。兼折先生の指導で記録も向上し、その可能性がでてきた。

 私は張り切って県大会に臨んだ。1次予選、2次予選とも上位で通過した。決勝では私の左と右に,昨年胸1つの差で勝敗を分けた、実力のほぼ拮抗した3人が並んだ。スターターの1発の号砲で一斉にスタートした。3人はほぼ並走した。50メートルくらいのところまで私は胸一つ先頭を走っていた。ところが、50メートルくらいの所で私は柔らかい砂のような感じの穴に右足がとられ、上体がグラッとその方向に傾いた。一瞬スピードが落ちたが、そのまま走った。上位3人が、ほぼ一線でゴールになだれ込んだ。他の5人は1、2メートル遅れてゴールした。判定の結果,私は2位であった。また、1位を逃したという無念な思いとともに、何故50メートルくらいの所でグラッとなったのか確かめるために、私は私のコースをゴール地点からスタート地点に向かって穴を探しながら歩いて見た。“穴”が丁度50メートルのところに掘られていた。それは、400メートル競争のスタート地点であった。現在ならスターティングブロック(板の上に前足と後足をかける用具がついている)を使用することが義務づけられているが、当時はグランドの地面に前足と後足をかける径7〜8センチメンタルくらいの穴をスコップで2つ掘って、その穴に足を掛けてスタートする方式であった。選手がスタートした後、競技役員が掘った土でその穴を埋めていた。だから、その後に競技する者の足が、その埋めた穴に掛かると,埋めたばかりの土は脆弱なので、足がはまって、体が傾いてしまい、当然スピードも落ちる。現在は穴による欠点を是正するために,短距離競争ではスターティングブロックが1949年(昭和24年)から使用され,次第に普及し、現在は全ての短距離レースで使用されている。

 私は、この7〜8センチメートルの“穴”にはまって、足を取られたのだ。私の50メートル走った時の歩幅が全体で、若し10センチメートル長いか、短かければ、この穴にはまらなかった。当時、これに対するルールは無かったので、我慢するよりほか無かったが、今でも大変残念に思っている。

 人生には、“7〜8センチメートル”という、取るに足らないような長さで、1年間の努力が報われない“運・不運”のあることを、初めてその時知ったのである。

【part3へ続く】