マジョルカ島 a.マジョルカの観光 b. エリザベス・サンダースホームを設立した沢田美喜さん
地中海西部パレアレス海のパレアレス諸島最大の島で、スペイン語のMallorcaはマヨルカ島あるいはマジョルカ島と表記され“大きい”を意味するといい、沖縄本島の3倍の大きさである。ローマ人やムーア人の遺跡も有名。州都パルマの景色は中世の歴史を色濃く残している。世界的に有名なリゾート・アイランドで山、高原、草原、海、ビーチ全てが揃っている。1日の平均気温は1月で11.7度C、8月で22度Cと比較的温暖な気候である。
妻の手記によると『昨年の9月、ロンドンを経由して、地中海のマジョルカ島を訪ねることが出来た。
そこは沢田美喜さん終焉の地で、ドラマ「母なることは地獄の如し」の沢田さんの思い出を辿ってみたかったからである。このドラマは戦後の混乱期に混血児を生み、エリザベス・サンダースホームに我が子を託さざるを得なかった母親の悲しみを題材にしたものである。』(沢田美喜さんとサンダース・ホームについては後にお話する)
飛行機が空港に着くと、50歳前後の体格のよい男性が出迎えてくれ、直に数人乗りの車を空港玄関に横付けにして私たちを招き入れた。
その男性をMさんとしよう。Mさんは挨拶の後に自己紹介をした。彼は柔道5段で整体師の資格を持っている。今から15年くらい前にこの島に来て、柔道場を開いた。生徒は40人くらいいるが、柔道の授業料だけでは食べて行けないので、朝から夕方まで旅行ガイドをしているのだという。
Mさんの話が終ると、私の家内が質問をした。「エリザベス・サンダース・ホームの沢田美喜さんが、この地で亡くなられたことをご存知ですか?」
運転しながらMさんは「沢田さんのことはよく知っています。1980年(昭和55年)5月のことですが、沢田さんは世界一周旅行の途中でこの島にお寄りになりました。私は依頼されて沢田さんのガイドをしました。ある夜、ホテルから電話で “沢田さんが心臓発作を起こしたので、直ぐ来て下さい” という電話をもらったので駆けつけました。沢田さんをだき抱えて私の車に乗せ、病院に直行しました。残念なことですが、沢田さんはこの夜、心臓発作のため亡くなられました。」
家内は「あなたが沢田さんの最後を看取られたのですか?私は沢田さんの思いを辿ってみたかったので、マジョルカ島をこの旅行の計画のなかに入れてもらったのです」
到達したホテルは、カステイロ・ソンビダ(Castillo Hotel San Vida)と言い、古城を改修したホテルで、城のような外観が一際目立った。今でもスペイン王室一家が滞在するという。島都パルマを見下ろすソンビダの丘に建つホテルで、ゴルフ場も付属している。案内された部屋の前は、その階全体の広いテラスがあり、一部屋に一つずつ2人のりのブランコが付いていた。
沢田美喜さん
ここで沢田美喜さんの経歴を辿ってみよう。現在では、美喜さんの名前を知っている人も少なくなったが、終戦直後、日本に進駐したアメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた薄幸な混血児を引き取り、エリザベス・サンダース・ホームを設立して、その子供達の母親として孤軍奮闘し、約2000人の孤児の育成と教育に当たられた方である。
美喜さんは三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の長男・岩崎久弥の長女として1901年東京で生まれる。
16歳の時、大磯の別邸で過ごしている時、付き添い看護婦が読んでいたキリスト教の聖書の言葉に心を引かれる。
その後、外交官でクリスチャンだった沢田廉三氏(のちに初代国連大使)と結婚し、夫君の任地であるブエノスアイレス、北京、ロンドン、パリ、ニュウヨークに随行する。
ロンドンにいた時は毎週教会に通っていた。ある日、友人に誘われ、郊外にある 「ドクター・バーナードス・ホーム」を訪問した。ここで生活する孤児達の明るさに接し感動した美喜さんは毎週末、バーナードス博士のもとで孤児のために働き、生活の充実感を味わうようになったという。
やがて、終戦を迎え、日本に進駐してきた米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。彼らは祝福されずにこの世に生を受け、多くの子供達は父親を知らず、母からも見捨てられる存在であった。
1946年のある日、美喜さんの心を大きく揺さぶる事件が起った。満員列車の網棚から、座っていた美喜さんの膝の上に風呂敷包みが落ちてきた。たまたまヤミ物資の摘発に当っていた鉄道公安官が、包みを不審に思い開けたところ、何枚もの新聞紙に包まれた黒い肌の乳幼児の死体が入っていた。母親に置き捨てにされた子供であった。この時、美喜さんの心に孤児院の「ドクター・バーナードス・ホーム」の記憶が突然甦った。
そして、彼女の耳に 『なぜ、日本国中の、こうした子供たちのために、その母親になってやれないのか・・・・』という神の声が聞こえた。この啓示が美喜さんに孤児救済のために人生を捧げる決心をさせた瞬間だったという。
ここから美喜さんの悪戦苦闘が始まる。
孤児の施設を作るために、適当な大きさであった三井財閥の大磯の別邸(この時、すでに財産税の代わりに物納されていた)を政府に掛け合い、当時としては大金の400万円で買い戻した。このため、自分の財産を全て換金し、それだけでは足りずさらに借金や寄付により、その建設資金を捻出した。また、施設ができてからも、運営資金の不足からミルクも買えない状態であった。美喜さんは自分の大切な持ち物を売り払ってミルク代とした。また、乳母役を申し出てくれる女性やミルクを届けてくれる進駐軍兵士など多くの善意や、美喜さん自身が何度も海外に行き、知人を通じて寄付を呼びかけ、講演を続けた。このような善意や海外からの寄付によって施設は運営された。
最初に大きな寄付(それも遺言で)をしてくれた英国人女性エリザベス・サンダース夫人にちなんで、1948年 『エリザベス・サンダース・ホーム』 が設立された。
そのころ、混血孤児に対する世間の目は冷たく、偏見や差別意識に満ちていた。美喜さんや孤児が外出する時、心ない中傷の言葉が浴びせられたという。
そのような世間の言葉や行動から学童期に達した孤児の “心”を守るために、美喜さんは聖ステパノ学園(戦死した美喜さんの3男・晃氏の洗礼名から名付けた)を設立し、この学園に孤児たちを入学させた。
美喜さんの受けた偏見や迫害や弾圧は心ない人々に限らず、日本政府、アメリカのGHQ、考えられないことだが彼女の信奉していたキリスト教会からも弾圧を受けたという。
そこで、日本より偏見の少ないアメリカへの養子縁組により500人以上の孤児を送り出した。
美喜さんは、多くの苦難に会いながら、母親としての愛情と厳しさを持ち続けて、孤児を育てた。このホームで育った子供は2000人近いという。
恐れず、怯まず、アメリカの進駐軍GHQと戦い、たった1人で日本の「戦後の後始末」に立ち向かった女性として高く評価されている。
美喜さんが晩年になったころ、日本の政治や経済も落ち着き、また、アメリカの進駐軍の兵士の人数も激減した。そのころ、美喜さんは「子供を置き去りにする人もいなくなった。私の仕事は終ったのかな・・」と言っていたという。そして、1980年5月、世界旅行先のマジョルカ島で生涯を閉じられた。享年79歳であった。合掌。
文献(インターネット)
1.Wikipedia マヨルカ島
2. 見聞 沢田美喜 〜孤児の母として捧げた半生〜
3. ヨキータの哀愁日記 母たること地獄の如し