第70話 —心臓外科の恩師・榊原 仟(シゲル)先生—【part2】

兄ちゃん!切れたよ!前の方が切れたよ!!

1953年に僧帽弁狭窄症に対する手術が行なわれた。
日本で初めての、後天性弁膜症の手術成功第一例の用指交連切開術を見学した幸運な女子学生がいる。彼女(岩渕 K
:後に女子医大麻酔科教授)の手記を引用してみよう。

『私が心臓の手術を見学したのは昭和27年、女子医大の5年生の夏休みでした。その日は僧帽弁狭窄症の手術が行なわれ、榊原仟先生が執刀、2人の先生が助手を務められました。そして、がっちりした体格の榊原亨先生(仟先生の長兄)が手術を見守っていらっしゃいました。胸が開かれ左心耳に糸がまわされ、仟先生の指が心臓の中へ。緊張の一瞬!! 
“ 兄ちゃん、切れたよ!前の方が切れたよ!! ” と仟先生の大きな声。
“ よし、よし、それで止めておけ ” と亨先生の太い声。
日本で初めての僧帽弁交連切開は、これで無事に終了。学生にとって最も怖い教授のお一人であった榊原 仟先生が “ 兄ちゃん ” と言われたのがおかしくて今でも忘れられません』

このころは左心耳に糸をまわし、左心耳を切開して、その切開創に指を入れる時と抜く時、1、2、3と号令をかけながら、糸を結び、また、糸をゆるめたという。指を抜くのが早過ぎると糸が結べず大出血をおこし、糸を結ぶのが早いと指が抜けなかったというエピソードが残っている。

僧帽弁狭窄症は前交連狭窄と後交連狭窄を含んでいる。前交連狭窄は指で比較的容易に切開することは出来るが、後交連狭窄を指で切開するのは、かなりの症例を経験した術者でも難渋することが多い。 “ 兄ちゃん,前の方が切れたよ ” “ よし、よし、そこで止めておけ ” という榊原兄弟の微笑ましい会話は、第一例目の手術としては適切な判断であった。前交連狭窄の切開だけでも、かなりの効果が認められるからである。

私は昭和28年、1954年に榊原外科に入局した。新入医局員の私には、先生は未開の荒野を開拓する農耕用トラクターの如く思えた。医局員は大きく掘り起こされた土の塊りを小さく砕き整地する役割で、トラクターの開墾速度が速過ぎて、地ならしが容易に出来ず、先生自身が地ならしに参加されるような状態であった。

何だ!このざまは!

先生は旧制・第六高等学校(岡山市)の時、陸上競技部に所属していた。ある日、練習中に息切れがし、目の前が真っ暗になり、グランドに倒れてしまった。先輩がとんで来て「なんだ!このザマは」といきなり顔をぶんなぐられた。不思議なもので、なぐられると同時に、また力が出て、とにかく予定の距離を完走したという。
「お前が参ったと思うときは、敵も参っているのだ。お前が苦しい時は敵も同じだ。その時こそ、くそ!なにくそ!!と思って走らなければ勝てないぞ」という先輩の言葉が “ 私の一生を支配している ” と先生は時々私たちに話された。

壁の攻め方

外科教室では医局員を幾つかのグループに分けて先生に命じられたテーマを研究した。
順調に研究が進むこともあったが、時々壁にぶっつかることがある。先生は適切な指示をされて、その壁を破ることを命じられるが、時にその壁が容易に破れないことがあった。そのような時、先生は壁を一時残しておいて、全く無関係と思われるテーマを与えられた。数ヶ月立って見ると、破れないと思われた壁が、横や後ろから少しずつ解決されているのに驚いた。全く無関係と思われたテーマの中に、先生は壁を横から後ろから攻める方法を考えておられたのである。

心臓手術を1日に1例から2例に、そして4例に

私の入局したころは、月曜日・水曜日に1例ずつ心臓の手術が行なわれていた。
数ヶ月後に1日2例の手術が行なわれるようになった。ある日、来週の月曜日には4例の手術をするから準備しなさいと命じられた。そのころは2例でも大変で、1つの手術室に2台の手術台を並べて手術をしていた。多くの医局員から4例は無理、せめて3例にして欲しいという要望が出された。先生は断固4例手術すると言われ、手順を整えるように命令された。隣にあった手術室を借りて1部屋2例ずつ、計4例の手術が月曜日に行なわれた。やってみると、思いのほか容易に4例の手術を行うことができた。

先生は決断も速い方であったが、実行も速い方であった。私たちには一見、無謀と思われることでも、先生は熟慮して、充分な対策を立てられ、事を決断し、実行された。そして、始める前は困難と思われる事でも、先生の決断後は、かなりやすやすと実行されてしまうという才能のある方であった。

心臓の中を目でみながら手術したい

そのころの日本の外科医(心臓外科医という言葉はまだなかった)たちの夢は『心臓の中を目で見ながら手術したい』ということであった。この夢は、欧米で開発された「低体温法」により実現した。その方法は患者さんを気管挿管により麻酔した後、患者さんの頭を含めた全身をビニールで包み、氷水の入った水槽の中に浸し、患者の直腸温が30度になるまで冷やした後、その時点で手術する。
この低体温法を用いて、1954年に肺動脈弁狭窄症、1955年1月に、心房中隔欠損症の手術が榊原先生により本邦で初めて成功した。

神これを癒し給う

この低体温法による心臓手術が軌道に乗った1955年春、低体温法による心臓手術の前後1週間をドキュメンタリーにとらえるラジオ放送がラジオ東京(現在のTBS)で企画された。テレビはまだ普及しなかった時代である。

私はラジオクルーの相談役を榊原先生に命じられ、1週間彼らと生活を共にした。
手術の録音も無事に終了し、1週間目の最後の日の夕方、アナウンサーは榊原先生に「外科医の使命をどのようにお考えですか?」と質問した。
榊原先生の家の玄関には、達筆な「鬼手仏心」という額が掲げられていた。私はこの話をなさるではないかと期待した。ところが、先生は私の全く知らなかった話をされた。
榊原先生は「昔、フランスにアンブロワーズ・パレという外科医がいました。彼1代で当時の外科学は長足な進歩をしたと言われている有名な外科医です。彼は『外科医は傷を縫い、神これを癒し給う』と言っています。もう少し分かり易く説明しますと「外科医は切ることや縫うことは出来ますが、傷を治癒させるのは、外科医の力ではなく、自然の力、神の力なのです」と答えられた。

「神これを癒し給う」と題したこの放送は民放祭コンクールで第一位となり、郵政大臣賞を受賞した。この時のプロデューサーは早稲田大学を卒業したばかりの萩元晴彦氏で、氏はその後ラジオ東京(TBS)から独立してテレビマン・ユニオンを創設された。
氏は榊原先生から「君たちのグループほど、熱心に仕事をするグループはいない」と激賞され、“ 熱心に仕事をする ” をモットーとし、この言葉を励みとして日夜努力している」と言っておられた。氏は「現代の主役・小沢征爾“第九”を揮(ふ)る」「オーケストラがやってきた」などのプロデュースをされたことで有名である。また、1998年、長野冬期オリンピックの開会式で、小沢征爾、蛭川幸雄氏と協力して五大陸を同時中継で結ぶ、ベートーベンの“第九”の合唱の演奏を実現させた。

アンブロワーズ・パレの業績

ここで、パレの業績を簡単に説明しよう。
パレの現役時代には、ヨーロッパでは戦争が絶えなかった。彼は「戦場は外科医術を学ぶための場所」と言い、人生の大半を戦場で過ごした。そこで彼は治療しながら正確な臨床経験の上に立って新しい治療法を開発し、従来の外科から新しい外科へと脱皮させた。このことが、パレが「近代外科の父」とか「外科のルネッサンス」と言われたゆえんであろう。患者を診る時。敵味方の区別も、貧富の区別もなく全力で治療し、患者には笑顔で接するなど、仁愛に満ちている方であったという。

パレの業績には、異常分娩の際の胎児の娩出法すなわち足位回転術、義肢、義眼の開発、脳内腫瘍にたいする穿頭手術、動脈瘤、ヘルニア、脱臼整復術、骨折に対する大規模な副木固定など従来の外科から一段とぬきんでた治療法と、それに伴う外科器具を創案した。特に私が素晴らしいと思う治療法は次の2つである。

1) 銃創の治療法:  Giovanni de Vigo(1460〜1519、ローマ法王Jullius II世の主治医)は “ 銃創は火薬の粉末による毒を持っているので、その治療には沸騰したサンバスの油を傷口から注ぎなさい ” と教え、その教えは長い間、守られていた。
沸騰したサンバスの煮え湯を銃創の傷口に流し込むのだから、負傷兵は凄い苦痛にさいなまれ、一晩中うめき、苦しみ、ある者は死んで行った。
ある日、パレの部隊に支給されたサンバスの油がなくなった。そこで、パレは前から温めていた、卵黄とバラの油とテレピン油を混ぜた軟膏を代替え品として、初めて使うことを決心した。この軟膏を使った日に、彼は不安で眠れなかったという。夜中起きて、軟膏をぬった患者を診に行った。軟膏治療の患者の傷口の状態は良好で、患者は痛みもなく、良く眠っていたという。それ以後パレは銃創の治療にはこの軟膏を使用した。兵士達からも軟膏治療は歓迎され、軍隊でも軟膏治療が、次第に広まって行ったという。

2) 当時の戦場では四肢を切断するような症例が多かったという。四肢の切断の止血には、真っ赤に焼いた “ 焼ごて ” を使用していた。この “ 焼きごて ” で出血が止まるまで、傷の断端の焼却を何度も繰りかえした。この残酷な治療のため、患者は烈しい苦痛と、火傷による重い障害が残った。
パレは、古代最大の医学者ガレノス(131〜201A.C.)が「切り傷による出血の場合、血管の根元を結紮すれば止血できる」という教えを本で読んだ。パレは早速、足の切断の際に応用してみた。足が切断された後、筋肉の奥深くもぐっていた太い血管を探り出し鉗子をかけて止血し、ついで血管に針糸を掛けた後二重に結紮した。ほかの血管も次々と探り出し結紮した。
血管を結紮するこの方法は、焼きごてという残酷な治療法を一変させた “ 外科治療の革命 ” といえよう。

フランスの外科医・Ambroise  Pare’ ( 1510 ~1590 )  
“ Je le pansay le gerarist ” という言葉を阿知波 五郎氏は “ 我、包帯し、神これを癒し給う ” と訳している。当時の外科学はPare’ 一代で長足の進歩をしたと言われている。