第10話 長野県S病院への手術応援【part1】

【長野県S病院への手術応援】

1965年頃のことである。女子医大・心臓血圧研究所の私の部屋にF君が尋ねてきた。F君は人工肺を設計したり、人工心肺装置の改良をしたりする人工心肺のエキスパートであった。

 彼は、「先生にお願いがあって来ました。実は、長野県のS病院に頼まれて、人工心肺の操作に2度行きました。術者はS病院のT外科部長でしたが、2例とも、その日のうちに死亡してしまいました。もう1例死亡したら、S病院では心臓の手術はできなくなってしまいます。お願いというのは、先生にS病院に行って、心臓手術の執刀をお願いしたいのです。あの立派な病院で心臓手術ができなくなるのは残念です。先生、ぜひ行って手術をしてあげてください」と嘆願するように言った。

 「S病院は、あの有名なW院長のおられる病院ですか?」と私は質問した。彼は「そうです。W院長のおられる病院です」と答えた。

【日本の医師十傑】

それより10年くらい前のことである。月刊・文藝春秋に「日本の医師十傑」というグラビアの特集が組まれていた。1つのページにその方の大きな写真と、その下段にはその方の略歴が載っていた。そこには、食道外科の千葉医大教授・中山恒明、心臓血管外科の東大教授・木本誠二、妊娠の方法・避妊法の荻野久作などの大家の中に、S病院W院長も載っていた。

 その記事によると、『W院長は東大卒業後、東大外科学教室に入局するが、左翼的な思想をもち、34歳の頃、治安維持法違反のかどで警視庁に逮捕、目白警察に拘禁される。釈放後、東大の外科教授から“君のように新しい考えをもった若者は、次の時代の日本のために働いてほしい”と言われ佐久病院を紹介された。佐久地方は医療過疎地帯で衛生や栄養思想も低く、現在いわれているところの生活習慣病の多い地域であった。W院長は“農民とともに”という旗印を掲げ、生活習慣病の予防教育を行い、それを実践させた。周辺に出張診療を行なうだけでなく、自分で書いた脚本による演劇や人形劇で農民たちに健康教育を行なった。そして、日本一の長寿県の礎を築いた。さらに、農薬中毒、農具による外傷、寄生虫病など農村特有の疾患を研究し、また“冷え”が血圧、リウマチ、神経痛に悪影響を与えることを証明し、石炭ストーブの普及につとめた。これらの研究をもとに、日本農民医学会を設立した。

 20床の入院病床を30年後には大学病院に匹敵する診療科と1000床の病床を有する大病院に成長させた。

 これらの功績が認められて、ロックフェラー財団が後援するフィリピンの“マグサイサイ賞”を受賞した。

 この記事を読んで私が感銘を受けたのは、医療の恩恵に浴すことができず、前述の農村特有の疾患や農薬中毒などに悩む人たちに慈父のように温かく接し、“力を尽くし、精神を尽くして”長い、長い年月を全力投球されたその体力と気骨であった。W院長は私の尊敬するA.シュバイツアー博士と同じ精神に立脚された方だと思った。

 私は慈恵医大の学生時代、シュバイツアー博士の著書を愛読し、医療の恩恵に浴さない地域に行って、その地で医師として働いてみたいという“あこがれ”を持ったことがあった。そのため、いつかS病院を見学したいと思っていた。

【アルバート・シュバイツアー博士 Albert Schweitzer】

 私は慈恵医大に入学したころ、哲学者であり、神学者であり、パイプオルガンの演奏者であり、医師であったドイツのアルベルト・シュバイツアー博士の「水と原生林のはざまで」「わが生活と思想より」などの著書を愛読した。博士は裕福なキリスト教の牧師の家庭に生まれた。幼いころからパイプオルガンの練習に打ち込み、長じてストラスブール大学で神学博士、次いで哲学博士号を取得し、27歳の時、同大学の神学科の講師になった。そのころ、突如、稲妻のごとき「神よりの啓示」をうけ、“30歳までは、自分のために芸術や科学を学び、30歳以降は世のため、人のために尽くす”と決心された。30歳というのはイエス・キリストが布教活動を始めた年齢で、これにあやかったといわれている。神学部の講師をしながら、医学部に再入学して医学の勉強を始めた。38歳の時、医学博士号を取得した。この後、医療の恩恵を全くうけていないアフリカのガボン共和国ランバレネに、看護婦の資格をもつ夫人とともに赴任し、医療活動に邁進し、現地の人々のマラリア、らい病、赤痢などの治療を行い、その地の人々の命を救った。博士はこの医療活動のために、この地に一生を捧げた。

 博士はランバレネで、川を渡るカバの一群を見て、次のような思想に目覚めたという。『生きようとする自分の生命は、同時に生きようとする他の生命に囲まれている。生きとし生けるもの(生あるもの全て)の生命を尊ぶことが倫理の根本である。』 そして“生命に対する畏敬”を自らの倫理の根本原理とした。部屋の中に入ってきたハエや蚊を叩き殺すことをせず、捕らえて家の外に逃がしたというエピソードは有名である。

 博士は多くの名言を残している。そのいくつかをご紹介しよう。

【A.シュバイツアー博士の名言】

・ この世に存在している不幸の重荷を、私たちは皆で一緒に担わねばならない。

・ 人のために生きる人生は、困難に直面することがある。しかし、より豊かな幸福が与えられる。

  • 毎日、誰かのために何かをしなさい。見返りを求めずに。
  • 人生において多くの美しいものを手に入れた人は、その代わりに多くのものを他の人に提供しなさい。
  • 倫理(Ethics)とは、生命に対する畏敬の念以外のなにものでもない。
  • 生命を維持・繁栄させることは善であり、生命を破損・抑圧することは悪である。

 博士はランバレネにおける資金が欠乏すると、欧州各地でバッハ作曲の曲のパイプオルガン演奏会を開き、その収益の全てをランバレネの医療活動に用いたという。

【佐藤春夫の“佐久の草】

 F君と一緒に上野から上越線の急行列車に乗った。新幹線のできるしばらく前である。軽井沢を過ぎ、小諸駅で下車した。島崎藤村の“小諸なる古城のほとり / 雲白く遊子(イウシ)悲しむ”の小諸である。そこで、S病院の自動車が迎えてくれた。60歳前後の運転手は大変親切な人で、S病院まで約1時間かかると話してくれた。

 以前からS病院を訪問してみたいと思っていたが、その周辺の佐久も1度訪ねたいと思っていた。私は旧制山形高校生の頃、高村光太郎、三好達治、萩原朔太郎などの詩を愛読した。そのなかの一人に“あわれ / 秋風よ / 情(こころ)あらば / 伝えてよ”で始まる、秋刀魚(さんま)の歌で有名な佐藤春夫がいる。彼は、太平洋戦争末期に佐久に疎開して、詩集「佐久の草笛」を1971年に上梓している。私はこの詩集を読んで、この詩情豊かな佐久を一度訪れたいと思っていた。この詩集から短い詩を1つご紹介しよう。

 
  「樹氷  / 人々の語るままを  / 佐久の里夏はうずまく / 朝霧の晴れゆくひまを / 凍み 凍みて 1月2月(むつききさらぎ) / 枝枝に 樹氷(なご)の咲くなり」

(草間文男氏の解説によると、厳寒の朝、小枝の先まですっぽり包んだ真っ白の樹氷、霧氷が朝日を受けて輝く様は、まさに冬の佐久の美しさを象徴する極めて特異な現象であり、言葉である。)

 詩情豊かな佐久の景色を楽しみ、また昔のことを懐かしんでいるうちに、車は1時間半くらいでS病院に到着した。医局の秘書のMさんが迎えてくれた。このMさんには、その後10年くらいS病院に伺う度にお世話になった。

 病院の職員食堂に案内され、少し早めの昼食をご馳走になった。患者食に1品、天ぷらが付いていた。この食事は大変おいしかった。塩分控えめで、栄養のバランスも配慮されていた。さすがS病院の献立だと思った。

【第3例目の手術(私の第1例目)】

 食事後、Mさんに案内されて手術室に向かった。板の簀の子を敷いた渡り廊下を2回右に回り平屋建ての手術室に着いた。手術室はだだっ広い、タイルの敷かれていないコンクリートのままの床であった。腹部外科の手術なら、手術台が2台置ける広さだ。

 すでに、この病院の心臓手術は2例とも不幸な転帰をとっていたので、私は私の初めての手術である第3例目を慎重に進めた。私が執刀し、T部長が前立ち、第2助手は病院のスタッフで、人工心肺はF君が担当した。僧帽弁狭窄症に対する人工心肺を使用した直視下交連切開術を行なった。手術のクライマックスのころ、W院長が朝日新聞の記者を連れて手術室の中に入ってきた。「これからは、うちの病院でも心臓の手術を行なうことになりました。」と記者に説明するとすぐ出て行った。院長は記者に病院全体を案内する途中で、手術室に立ち寄ったという感じだった。院長は朝日新聞と仲がよく、朝日新聞には院長の記事が時々掲載されていた。

 手術は順調に進み、約2時間で終了した。病院のスタッフも3例目が成功しホッとした感じであった。帰りも病院の車で小諸まで送ってもらい、駅弁を買って列車の中で食べた。F君は「ありがとうございました。先生のおかげで3例目が成功し私もホッとしました」と我がことのように喜んでいた。

 その後は2〜4ヶ月に1度、手術の応援に行った。2年後にF君は女子医大から他の病院の外科部長に栄転したので、その後は私一人で参上した。