第61話 —私の贅沢な旅行 ~英国・ロンドンースペイン・マジョルカ島ーマドリッドーポルトガル・リスボンーロカ岬—【part5】 スペイン・マドリッド プラド美術館でゴヤの絵を鑑賞

スペイン・マドリッド   プラド美術館でゴヤの絵を鑑賞

私たちはマジョルカ島からマドリッドに到着した。マドリッドでは、王宮、スペイン広場,プラド美術館を見学した。ここでは美術館のゴヤの作品についてお話しよう。

プラド美術館 (Museo delrekida Prado)

プラド美術館は歴代のスペイン王家のコレクションを展示している美術館である。
1785年にカルロス3世が、自然科学に関する博物館として作ったが、博物館として使用されたことはなく、孫のフェルナンド7世(スペイン王)が妻のマリア・イザベル・デ・プラガンサの提案により美術館として使用した。
コレクションの基礎はフェリペ2世とフェリペ4世が築き、1819年に「王立美術館」として開館したが、1868年の革命後スペイン国立「プラド美術館」と改称された。ベラスケス,ゴヤなどのスペイン絵画に加えて、イタリア,フランドル(英語名フランダース)などの外国絵画も多数所蔵している。
プラド美術館には約7,600枚の油彩色画、約1,000点の彫刻,約4,800枚の版画,約8,200枚の素描、また多くの美術史に関する書籍が納められている。

私たちは、何かの都合で閉館2時間半くらい前に美術館に入った。
美術館専属の案内嬢(日本人)を頼んだ。彼女は「この美術館をゆっくり見学しようとすれば、1週間以上かかります。2時間半では、皆様のお好きの一人か二人の画家の絵を見ることにしましょう。私はスペインの画家,ゴヤかベラスケスを推薦します。皆様でご相談下さい」
私たちは、ゴヤ(Francisco Jose’ de Goya y Lucientes、1746〜1828)の絵を見ることにした。

ここで、ゴヤの生涯を簡単に追って見よう。
1746年、ゴヤは鍍金職人の父ジョセフ・ゴヤの次男として生まれ、芸術を愛好する気風の中で育った。
14歳のころ、サラゴーサで地元の画家に師事し絵画の修行をする。後にゴヤの義兄となり,宮廷画家となるフランシスコ・パイエウに出会う。
1763年と‘66年の2回マドリッドの王立サン・フェルナンド王宮アカデミーの奨学生試験を受けるが2度とも失敗。
1770年、自費でイタリアに行き、各地で絵画・彫刻の名作に接す。
1771年、1年余の留学を終え、サラゴーサに戻りピラールから大聖堂の天井画に着手。
1773年、パイエウの妹ホセーファと結婚。1774年、パイエウの手引きでマドリッドに出て、1775年から十数年,王立タぺストリー工場でタぺストリー(綴れ織り等の織物。註参照)の下描きの仕事に携わる。

註)タペストリー:羊毛、絹、麻などを材料として、絵模様を織り出した綴れ織り。またはその壁掛け。(日本国語大辞典)

1786年、40歳のころ、国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となり、スペイン最高の画家としての地位を得たが、1792年に、不治の病に侵され聴力を失う。
今回、私の印象に残った5枚のゴヤの代表作は全て聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。次に示す絵はコピーの又コピーなので、ゴヤの画集などで鮮明な絵を見て頂きたい。

『カルロス4世の家族(Familia de Carlos IV) 1800〜1801年ころ』
ゴヤが宮廷の首席画家に任命された翌年1800年から1年かけて制作したスペイン国王・カルロス4世一家の集団肖像画である。ゴヤはマドリッドから王族の住むアランフェスの離宮に数回通い、人物単体の肖像画を習作として作成している。

『カルロス4世の家族・人物構成図』

画面の中央には、人物構成図(7)(以後番号は人物構成図による)の実質的支配者である王妃マリア・ルイス・デ・パルマ(カルロス4世の妻)、赤い服を着た(8)パウラが立ち、その右に(9)カルロス4世が凛々しい姿で立っている。右側に眼をむけると(3)の青い衣服を着たフェルナンド7世(カルロス4世の長男)その横で顔を背けた若い女性(5)はフェルナンドの未来の妻である(このころは皇太子の花嫁が誰になるかは決まっていなかった)。その後ろの暗い部分に大きなキャンバスに向かっているゴヤ(2)が認められる。
この図では、カルロス4世(9)と皇太子フェルナンデス(3)は一歩手前に出ており、図面的には王権の所在は明示されている筈だが、全体を支配しているのは王妃マリア・ルイサ(7)のように見える。王妃は腕の美しさが自慢であったという.ゴヤもその点には配慮したようで、この絵を見た王妃は,この絵の出来映えに大変満足したといわれている。
この繪に対し、王族に対するゴヤの真摯で実正な観察眼による忠実な表現を感じると評価する人もいるが、この作品は単純な肖像画ではなく、ゴヤは王室一家に対して何らかの風刺をしている作品であると評価する人もいる。この風刺についての評価を書いて見よう。
(7)のカルロス4世の妻マリア・ルイサはカルロス4世よりも力を持っており、国政を操作していたと言われている。カルロス4世は「無能王」という称号を奉じられており、国王の顔は痴呆のような感じで、眼の焦点が合わず、口角が少し上がっている。胸元の勲章のみが、空しく輝いている。国王と王妃の間に描かれている愛くるしいカルロス4世の末っ子・パウラ皇子(8)の本当の父親は国王ではなく、宰相ゴドイではないかと言われている。(以前、パウラ皇子はゴドイの胤と、まことしやかに、ささやかれていた時代があった。しかし、最近の研究では、ゴドイの人物像は一新され、ゴドイはそのような男ではないと言われるようになった。)
向かって左側の奥の絵画は(暗くて不鮮明でだが)ロト(父親)とロトの2人の娘を描いた近親相姦の絵である(註参照)。ゴヤは背後から王宮の腐敗や衰退への感情をこの繪に込めているといわれている。

註)旧約聖書の創世記19章30〜38節の物語である。神の裁きによってソドムが破壊された後、ロト(父親)と2人の娘が山の中に住んだ時の物語である.「姉は妹に言った『父も年老いて来ました.この辺りには、世のしきたりに従ってわたしたちのところへ来てくれる男の人はいません.さあ、父に葡萄酒を飲ませ、床を共にし、父から子種をうけましょう。』2人は葡萄酒でロトの意識を失わせ、毎晩、近親相姦し、妊娠し、姉・妹とも男子を産んだ。姉の男の子は、モアブ(父親より)と名付けられ、妹の子はベン・アミ(私の肉親の子)と名付けられた。彼は今日のアンモン人の先祖であるという。

ゴヤは、この物語「近親相姦」を描いたのだから、当然カルロス4世体制の背後にある腐敗と衰退の政治をあらわにしたものだとみなされている。ヨーロッパでは、この近親相関の物語を題材にした名画が多数あるという。

1807年ころのスペイン

1807年12月、ナポレオンはスペインに進駐し、パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領される。外国軍の進駐を受けたスペインでは貴族たちによる政変が発生。1808年3月、ゴドイ、カルロス4世ら宮廷の人達はアランフェスに逃れた。父カルロス4世が退位を余儀なくされると、息子のフェルナンド(3)がスペイン王フェルナンド7世として即位する。彼はフランスが自分自身へ助力してくれると期待していたが、ナポレオンは自分でスペインを支配するという考に変わり、フェルナンドも退位を強要され、スペイン王をナポレオンの義兄ジョセフ(後のルドヴィコ1世:カルロス4世の長女(11)と結婚したカルロス4世の義理の息子)(12)に与えてしまう。そして、その後スペイン本土はナポレオン支配に反発する民衆によってスペイン独立戦争へと発展する。

「1808年5月2日 マドリッド、エジブト人親衛隊との戦い」

1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインに侵攻し、翌1808年にはナポレオンの兄ジョセフをホセI世としてスペインの王位につけた。事実上、ナポレオン軍に支配されたスペインは1808年から約10年に渡ってスペイン独立戦争を戦った。
1808年5月2日にマドリッド市民はフランスの占領軍に対して暴動を起こした。( 註:市民と言っても、上流・中流の市民や軍、政府、教会関係者は殆ど動かず、下級の聖職者や地方貴族に率いられた民衆が武器を持って立ち上がり、イギリスの支援を受けつつ、スペイン全土にわたって神出鬼没のゲリラ戦をくりひろげた。尚ゲリラとはスペイン語のゲーラ=戦争に由来する言葉だと言う。)
その蜂起の様子を描いたのが、 「1808年5月2日、マドリッド エジブト人親衛隊との戦い マドリッドの中心にあるペリタル・デル・ソル広場での反政府軍と衝突をする騎兵隊を描いたものである。この暴動と鎮圧による犠牲者はフランス兵145名、スペイン側91名であったという。

「1808年5月3日」 

1808年5月3日、マドリッド ピオでの銃殺』
しかし、この蜂起は翌5月3日には、フランス軍によって鎮圧されてしまう。この時のフランス軍による虐殺を描いたのが『1808年5月3日、マドリッド,ピオの丘での銃殺』である。この事件がスペイン独立戦争への導火線に火をつけた。

後になるが、1814年2月、スペインからフランス軍を完全に撤退させた後、ゴヤはスペインの臨時政府に接近し、『ヨーロッパの暴君に抵抗したスペイン民衆の英雄的行動を記念した作品を描きたい』と申し出て、上記の2つの作品が制作されたという。

「裸のマハ」と「着衣のマハ」1

『裸のマハ(La Maja Desude)制作1798~1800年ころ』

『着衣のマハ(La Maja Vestide) 制作1798~1803年ころ』

1800年ころは、スペインに於いては、ヌードに対しては実に厳しかったという。スペイン人画家による裸体の作成は許されていなかった.ピカソの時代でさえ美術学校のヌード・モデルは男性だけだったという。そんな時代に裸婦の絵をゴヤが描けたのは、25歳の若さで宰相に任命されたマニュエル・ゴドイが、ゴヤのバックにいた為だと言われている。
なお、マハとは、スペイン語で「小粋な女」「伊達女」という意味である。着衣のマハの衣装は、当時スペイン国内の貴婦人が愛用し流行した民族衣装であるという。
ゴドイはこれらの繪を、ベラスケスの「鏡を見るヴィーナス」などと一緒に、秘密の小部屋に飾っていたらしい。「着衣のマハ」は「裸のマハ」を隠すように前面に吊り下げられ滑車式の吊り下げ機械により、いつでも裸のマハが、公開できるようになっていた。
上記の5点を,案内人の説明を聞きながら丹念に見た後、この他の20数点のゴヤの絵を楽しみ、翌日は古都トレドに小旅行し、その翌日リスボンに向かった。

参考文献
芸術新潮  私はそれを見た!  ゴヤの「戦争と平和」2008年7月号
大塚薬報  ゴヤの描いた戦争 (1808年5月2日。1808年5月3日) 2020年1・2月号、NO752
ウイキペデイア  プラド美術館。:Museo del Prado 。  フランシスコ・デ・ゴヤ
Salvastyle.com  カルロス4世の家族。  1808年5月2日、1808年5月3日
児童英語・図書出版、インターネット 私の好きな名画、ゴヤ「裸のマハ」「着衣のマハ」