第14話 恩師・榊原 仟先生とゴルフと私【part1】

【恩師・榊原 仟先生とゴルフと私】

私の恩師・榊原仟(シゲル)先生は日本の心臓外科のパイオニアである。動脈管(ボタロー氏管)開存症の結紮手術、僧帽弁狭窄症の用指交連切開術、低体温法による心房中隔欠損症の閉鎖手術、日本で開発された人工心肺装置による直視下手術に日本で最初に成功した外科医である。また、病床約300床の心臓病専門病院(東京女子医大・日本心臓血圧研究所)を設立された方である。患者さんの診療や手術及び研究に対しては厳しい方であったが、反面、ユーモラスなところも兼ね備えた方だったので、ゴルフを通してその1面をご紹介しよう。

【私のゴルフ事始め】

 私が外科医になって7、8年たったころである。義兄の家に遊びに行くと、庭にゴルフのネットが設けられていた。ゴルフをしたことの無い私は、どのように球を打つのだろうと興味を持った。その日の帰り際に,義兄は「達太さんは、毎日手術をしていてストレスが貯まるでしょう。日曜日にゴルフ場に行って、青々とした芝生の、広いへアウエーでゴルフをするとストレスがなくなりますよ。丁度、私の父のゴルフクラブがあるからそのクラブをあげましよう。」と、ゴルフバッグに入ったハーフセットのゴルフクラブを貰って帰った。まだ、女子医大・心臓血圧研究所(心研)の医師たちも、ほとんどゴルフをしていないころである。

 この心研から歩いて2、3分のところに、ゴルフの打ちっぱなしの練習場があった。手術もなく、dutyのない昼休みにそっと心研を抜け出して私は練習場に行った。ボールを打つのは思いの他、すごく難しかった。ボールにクラブが当たるのより、空振りが多かった。練習場にはコーチが居たが、レッスン料が高く手が出なかった。上手な人の打ち方を参考にしながら練習をした。

 そのうち、友人に誘われて某ゴルフ場に行った。テーグランドに立つと、青青としたフェアウェイが広がっている。義兄の言うようにストレスの解消になると思うと心が弾んだ。第1打を打った。右の方に大きく飛んだが無情にもOBだと言う。次の一打は5、60ヤード飛んで深いラフに入った。ストレス解消どころではなかった。1ラウンドをどのくらいのスコアーで回ったか、はっきり覚えていないが、200近かったのではないだろうか。

その後、練習をしている内に少しずつ上手になり,1ランド120前後のスコアーで回れるようになった。

【きつい言葉】

 榊原先生は、私より1年くらい前にゴルフを始められたので、私より数段上手だった。医局には、まだゴルフをする人が少なかったので、先生に誘われて一緒にゴルフをすることが多かった。今回は先生とゴルフの思い出を書いてみよう。

 ある日曜日。その日の午後、先生は飯能のI病院で心臓の手術をすることになっていた。先生は「午前中にハーフ(9ホール)なら回れるだろう。その後I病院に行こう」と言われ、私は先生のお供をして、先生のメンバーコースであった立川国際カントリークラブに,先生の車で出かけた。このゴルフ場は山を切り開いて造成した山岳コースだった。この日、この山岳コースが幸いして私は大変よいスコアーでラウンドしていた。それは、私の凄いスライスボールが土手に当たってフェアウエーの真ん中に出たり、あわやOBかと思ったフックしたボールが木の枝に当たってフェアウエー真ん中に出たりした。また、山の上にグリーンがあってピンは見えないコースでは、トップした球がコロコロと坂道を登って行った。グリーンまで登って行くと、何とボールはピンそば30センチメートルについているというラッキーが重なってのよいスコアーであった。

 このゴルフ場の1番高い場所にあるテイーグランドに着くと、日本晴れの青空のもと関東一円の山々が見渡せた。丁度新緑の季節だったので、薄緑色、黄色を含んだ緑,少し濃い緑などが山々を覆って美しかった。「このゴルフ場は眺めが素晴らしいですね」と私が言うと、スコアーがあまり良くなく不機嫌だった先生は『スコアーのいい時のゴルフ場は,奇麗に見えるものだ!』と、真面目な顔をして大声で言われた。“これは大変だ!?ゴルフが上手になると、どこかの遠い病院に飛ばされる。”と私は直感した。

 この時の言葉が、強く私に響いたので、ゴルフに対する私の情熱は少し薄れた。ゴルフに対するセンスのないことを棚に上げて、私はゴルフの腕が上がらないのは、先生のこの“きつい言葉”のせいであると思っている。

【今夜は何でも奢って上げるよ】

 ある日の午後3時から榊原先生は名古屋市立医大で交換講義を行なわれことになっていた。東京を早めの列車で出て、午前中、名古屋でゴルフをしようということになった。急なことだったので、名門コースでは無くパブリックコースだった。

 その日の先生の5番ホールのドライバーは真っすぐによく飛んだ。先生はおもむろに3番ウッドを取り出し、“エイや”という感じで球を打った。球は真っすぐ飛んで行った。グリーンにオンしたと私たちは思った。しかしグリーンの手前まで行って球を探したが、球は見つからない。やむなくロストボールだろうと、50ヤード手前から打つとグリーンにオンした。4オンだということでグリーンに行くと、なんと!グリーンの奥、カップから10ヤードくらいのところに、ロストボールと思っていたボールが乗っていた。先生は「ボールがあった。あった」と大声で大喜びされた。おもむろにパターを取り出してボールを打った。少し下りだったので、ボールはコロコロ、コロと、かなり長い時間転がって行きカップに吸い込まれた。先生は『初めてのバーディーだ!!今夜は何でも奢ってあげるよ』と大喜びであった。

 午後の交換講義は無事に終了した。その晩は、名古屋の一流の料亭でご馳走になった。ただし、そのご馳走は先生の奢りではなく、市立医大で用意して下さったご馳走であった。

【過ぎたるは及ばざるがごとし】

 ある真冬の日曜日。“関東プロ”が埼玉県の久邇カントリークラブ(CC)で開催された。関東プロと言ってもプロゴルファーの選手権試合では無い。関東の大学の外科教授(プロフェッサー)が年に2〜3度開くゴルフコンペのことである。

 “今度こそ優勝しよう”と榊原先生と私は張り切って、久邇CCにほど近い先生のメンバーコース・飯能ゴルフ場で練習してから関東プロに参加しようと、早朝の五時半ころ、先生の家にお迎えに行った。先生の車の運転で渋谷に近い先生のご自宅を出発しようとした。見送りに出て下さった先生の奥様は「どうしてこんなに早い時間にお出かけになるのですか?」と訝っておられたが、先生は“秘密、秘密”と言いながら出発した。

 真冬の日曜日、それも、まだ暗闇の残る早朝である。通常の半分の時間もかからず、六時半にはゴルフ場に着いてしまった。周囲は未だ暗く、西の空には月がくっきりと浮かんでいた。“仕方がない。一眠りしよう”と車に中でうたた寝をした。

 薄明るくなったころゴルフ場のグリーンでパターの練習を始めた。グリーンは凍っていて、ボールをパターで打つと、ツーウッとボールは滑って狙った距離の2倍くらいの距離に滑って行く。真っ直ぐ打った積りなのに、右に曲がったり、左に曲がったり、とんでもない所に行ってしまう。パターをあきらめてバンカーに入ると、サクサクと音がする。なんと霜柱が立っている。その上にボールを置いて、サンドウエッジで打つと、霜柱だけ飛んでボールはそのままのところに残っている。霜柱の上の方を叩くとボールは高く上がってあらぬ方向に飛んで行く。防寒具を着て、ホカロンを貼っているのに体はゾクゾクと冷えて来る。ほうほうのていで車に駆け込んだ。

 車の中で暫く休んでから久邇CCに着くと、まだ人影は全くなく、玄関の戸も開いていない。この日のゴルフは散々で、榊原先生はブービー(最下位から2番目)で、私は最下位のビリ(ブービーメイカー)であった。

 “余り張り切り過ぎるのは良くないね”と私たちは帰りの車の中で話し合った。

 “過ぎたるは及ばざるがごとし”とか“過ぎたるは及ばざるにおなじ”という言葉がピッタリだった。

 先生のご自宅に着いて奥様にお会いしても、先生は、その日の成績は“秘密、秘密”で通された。

 

(part2へ続く)