迎賓館での夕食
この日の夕食会は、この迎賓館の小さな会議室で、8人集まって行われた。その部屋の大きなテーブルの上には、銀色の数個の大きなプレートに種類の異なる数種類の料理が山盛りに用意されていた。私はロシアに来る1年くらい前に、“ロシアの現状”というテレビ番組を見た。その番組によると、現在ロシアの庶民の食料事情は最悪で、庶民の奥さんが開いて見せてくれた冷蔵庫の中には、大きな肉の固まりが、1つだけしかなく、魚、野菜、果物は全くなかった。このテレビの映像が頭にこびりついていたので、ロシアの食料事情は最悪と思っていた。そこで今日の夕飯は、このプレートに乗っている食べ物だけだろうと思った。団員は、私と同じ思いだったのか、ガツガツと食べ始めた。私の知っている食べ物は、ピロシキだけだった。日本のそれより大きめのピロシキを3個食べた。これで、私はかなり腹が一杯になってきた。ところが、プレートの食物は、オードブルで、次にスープ、魚料理、肉料理と続いた。私は無理して3分の1ずつ位を食べた。最後にデザートとコーヒー。将にフルコースであった。
翌日、赤の広場周辺を散策したが、以前見たテレビとは全く違って、商店街には色とりどりの洋服や輸入の化粧品が溢れていた。1年で、こんなにも裕福になったのだろうか? 商店街は品物が一杯だった。私はこの旅行でロシアを全く見直した。
日ロ知事会議
第14回日ロ知事会議がモスクワ市内の大きなホテルで開かれた。4階までの吹き抜けで、大広間の会議室の天井には大きなシャンデリアがいくつも輝いていた。この会議室は楕円形に机と椅子が配置されていた。出席者は全員で約30名であった。ロシアの代表・Cモスクワ州知事は、ハワイ出身の元大関・小錦を思わせる巨漢だった。会議はC知事の挨拶で始まった。ついで、日本全国知事会会長のT知事は「この会議は、まさに日ロ関係の夜明けであります。1日も早く平和条約が締結され、日ロ関係の改善が図られることを期待しています。そのためにも、自治体外交を通じて両国の繁栄、世界平和に貢献する所存であります。」と挨拶された。この所信表明は2016年、安倍−プーチン会談にも使えるような台詞(せりふ)であった。両国から,いくつかの問題提起や提案があって、両知事は共同コミュニケにサインされ、会議は無事閉幕した。
その後、部屋を変えてレセプションが開かれた。先ず、ウオッカの乾杯で始まった。モスクワのC知事はウオッカのグラスを大きな右手背(手の甲)に乗せて、一気にウオッカを飲むというより口に放り込んだ。そして、左手の指を使わずに手背に乗せたまま、元の位置に戻した。大関の小錦のように手の甲が広く、大きいから出来る業であろう。これは彼のお得意の独特な芸で、自慢そうに何回も繰り返していた。
私の隣には、顔の真っ赤なロシア人が座った。歌舞伎には顔を真っ赤に塗った悪役が登場する演目があるが、それと同じように真っ赤な顔であった。日本にも、酒豪のなかに、鼻が真っ赤な人で “酒焼け”といわれる人がいるが、彼の顔は全体が真っ赤であった。多分、ウオッカ焼けなのであろう。隣でウオッカを口に放り込むように何杯も飲んでいたが、酒の弱い私に無理強いはしなかった。その人は、東京のロシア大使館に数年勤務した方で、流暢な日本語を話された。そのため、私はこのレセプションを楽しむことが出来た。
T知事は,その翌日から、Sロシア副首相、S連邦院議長、Y民主財団総裁に次々と面会し、自治体外交を精力的に展開した。
日露知事会議の開かれた会議場
赤の広場
私たちは、翌日、赤の広場を散策した。赤の広場の面積は7万3千平方メートル,道幅130mと言われ、正面には5つか6つのネギ坊主頭の美しいロシア正教会の聖ヴァシリー大聖堂と、尖塔の下に大きな時計のあるスパスカヤ塔が見られ、周囲は7、8階建ての建物が取り巻いていた。
この時もKGBの2人のロシア人は付いて来ていた。私は、知事の秘書に「あの2人はKGBだから注意した方がいいよ。」と言うと、秘書は「あの若い方のロシア人はKGBではありませんよ。彼は私に “モスクワ大学の日本語学科の学生である。”という身分証明書を見せてくれました。」と、私の忠告には耳を傾けなかった。
しばらく歩いてグム百貨店の近くに来た。道の片側には、ところどころに食べ物の小さい出店が並んでいて、道はかなりの人たちで賑わっていた。両側には女性服の店、化粧品の店などが並んでいた。女性服はカラフルで、たくさんの品が揃っていた。化粧品はブランド物の輸入品が多く見られた。
ロシアは財政難で、人々は貧しい生活をしていると聞いていたが、先日のフルコースの食事といい、今日の豊富な品揃えと言い、ロシアは私の想像以上に豊になっていた。ここでも私はロシアを見直した。
赤の広場 : 左側はロシア正教会の正教会の聖ヴァシリー教会。右側は尖塔の下に大きな時計なあるスパスカヤ塔。
グム百貨店近くの商店街。どの店も豊富な品が揃っていた。
似顔絵書き
その夜、T知事が “埼玉の4人で、モスクワの夜の街を散歩しよう”と通訳に頼んだ。通訳は「知事さんが外に出るのでは、万一のことがあるといけないから、KGBを連れて行きましょう。」と若い方のロシア人を連れて来た。知事の秘書は驚いて「彼もKGBですか? 先生の方が正解でした。彼は日本語を勉強する目的と、私たちを案内する役目で同行している学生だと思っていました。」
迎賓館の周囲には、繁華街はなかった。薄暗い道を歩いて行くと、数人の似顔絵書きが歩道で似顔絵を書いていた。似顔絵でも書いてもらおうと、知事は指定の椅子に座った。私はほかの似顔絵書きの椅子に座った。30分くらいすると絵は出来上がった。値段を聞くと、“よい鴨”が来たと思ったのだろう。2、3人で相談して1枚100米ドルと請求して来た。そのころ、1ドルは120円くらいだった。日本では似顔絵は3千円か5千円くらいだろう。私たちの交渉では、埒(らち)があかなかったので、KGBの青年に頼んだ。結局、30ドルで落ち着いた。私たちはKGBを連れて来て良かったねと話し合った。この外出は1、2時間という短い時間だったが、私は何となく開放感を味わった。
部屋に帰って、絵を開けてみると、顔の輪郭、鼻、唇などは良く書けていたが、目は難しいのであろうか、日本人の目と言うより、ロシア人の目に似ていた。
街頭の似顔絵書き。私の顔の輪郭、目、鼻は似ていたが、目はロシア人の目に似ていた。
ガガーリン記念宇宙飛行士訓練センターを訪問
モスクワ郊外の “星の街” にあるガガーリン記念宇宙飛行士訓練センターを訪問した。人類で最初の宇宙飛行に成功し、「地球は青かった。」という有名な言葉を残したガガーリンの等身大の銅像が迎えてくれた。センターの建物の中に入ると、いくつかの宇宙船が展示されていた。その中に、ボストーク1号の実物があった。このボストーク1号は1961年、ソビエト連邦によって行なわれた人類初の有人宇宙飛行船である。宇宙飛行士ユーリ・ガガーリン1を乗せて、前人未到の大気圏外の地球周回軌道に乗り、108分の飛行後、無事に帰還した宇宙船である。直径約2メートルの球形のカプセルである。私は宇宙船の操作室であるコックピットの中に潜り込むように入った。入って見ると、外部から見たよりも内部はかなり広い空間であった。ここの椅子に座ってみると,体にフイットし、椅子も背もたれも適当な堅さで、私が今まで座った椅子の中で、最も座り心地が良く、1日ぐらいなら、このまま座っていられそうな感じだった。椅子の前面には多数の計器と運転装置があった。
ボストーク1号とともに、建物内には実物大の宇宙船の模型もあり、その中にも入ることが出来た。床から天井までは約2.5メートルで、椅子の配置など快適な生活ができるように工夫されていた。
人類最初の宇宙飛行に成功し“地球は青かった”という名言を残した、ガガーリンの立像が私たちを迎えてくれた。
ボストーク1号の内部
宇宙船の模型
宇宙飛行管理センター
次に宇宙飛行管理センターに案内された。
私たちが訪問したのは8月6日であった。それより2ヶ月近く前の6月25日、ミール宇宙船とプログレス輸送船のドッキング訓練中に衝突事故を起こした。4枚の太陽電池のうち1枚が破損し、電力の50%を失い、気密漏れが生じた。7月17日にはミールの全システムが一時停止、姿勢制御機能を失ったまま数時間飛行を続け、8月5日には酸素供給装置が停止した。宇宙船は最悪な状態であった。
私たちが訪問した日は、8月6だからそれらの修復の真最中であった。センター内の広い部屋には20台くらいのコンピュータがあり、その前に20人以上の職員が座っていた。私たちは言葉は分からなかったが、ミールとの交信をする職員の緊迫したやり取りを目の当たりにした。宇宙飛行士の声は部屋全体に流れていた。これは宇宙船の状態を全職員が共有するためであろう。飛行士に対する応答は1人ではなく、必要な専門家がつぎつぎと変わって応答していた。宇宙飛行士の緊迫した言葉と全職員の応答で緊張感が私たちにも伝わってきた。この緊迫した状態は、私たち心臓外科医が手術中に何らかのトラブルを起きた時の緊迫した状態と同じであった。
その翌日に宇宙船の修復は無事完了したという情報が知らされた。