第28話  夏はヨット、冬はスキー・ドクター 【part1】

私が東京女子医大榊原外科に入局して2年目1,945年のことである。東京YMCAB主事から電話を頂いた。その要旨は『今年の7月xx日から1週間,約60名の中高生を連れて野尻湖キャンプに行くことになりました。その時、新井さんに付き添いドックターとしてご参加頂きたいのですが・・・。医師としての仕事は、風邪、腹痛,下痢などの患者が出た時、薬を彼らに投薬して頂きます。軽い外傷も治療して下さい。それに、BOYたちから健康相談があったら、質問に答えて下ださい。もし、重症な患者が出た時には、車で野尻湖周辺にあるクリニークに連れて行きます。

新井さんには、朝食,昼食、夕食は中高生と一緒にとって頂き、夕食後の全員で遊ぶゲームなどには参加して下さい。そのほか、出来るだけ中高生と親しくして下さい。YMCAで中高時代を過ごした数人の大学生がリーダーとして参加します。

かなり自由時間があると思います。その時、読書をされても、野山を散策されても、水泳をなさっても結講です。また、10人乗りのヨット、2人乗りのヨットが各1艘、ローイングボートが3艘あります。

それで遊んで下さってもOKです。ただし、何をしているか、どこにいるか、居場所を私か、リーダーに伝えておいて下さい。急患が出た時のためです。

最後に給料のことですが、宿泊費、食事代、交通費はこちらで負担いたしますが、日当はありません。ボランティアとして参加いただきたいのですが・・・

『是非、お引き受け頂きたくお願いいたします。』ということであった。

 

当時、私は独身だったし、病院では夏休みを2週間取ることができた。夏休みを1人で何の目的もなく過ごすより、中高生のために、少しでもボランテイアとして働けるのならば、この方が有意義と思いお引き受けした。

ここでYMCAについて簡単に説明しよう。

YMCAとは、Young Men’s Christian Association の略で、日本のYMCAの設立者の1人である小崎弘道師は1880年に「基督教青年会」と訳した。これが「青年」という日本語の最初であるという。(1966年ころ,私は小崎師の孫娘の先天性心疾患の手術に成功した。この時、キリスト教系大学の10名の学生が献血をしてくれた。これが美談として新聞とテレビ取り上げられ、退院日の夕刊に写真入りで報じられた)

YMCA1844年にイギリスで誕生した。当時,産業革命が進み、現在では考えられないような劣悪な労働条件の中で子供まで働かされた時代で、人々は何の希望も持てず、疲れ果て、生活はすさんでいた。

このような状態のとき、ジョウジ・ウイリアムズは心豊かな人生を歩むために、彼が住み込みで働いていた呉服屋の部屋に仲間を集めて、聖書を読み、祈りを捧げ,語り合う会を始めた。彼は12人の若者を集めてYMCAという組織を作った。この組織は布教活動はせず、キリストの「愛と奉仕」の精神を実践し、隣人に仕え、希望を失った人に“希望のある豊かな人生”が与えられることを願って設立された。

1851年にロンドンで世界で初めて開かれた万国博覧会の会場でジョウジたちは、YMCAを紹介する小冊子を35万部配布した。それを機に、YMCAはヨーロッパだけでなく、北米,オーストラリアに広がり、さらに全世界に広がって行った。

日本のYMCA1880年に超教派でキリストの「愛と奉仕」の精神を実践しようと組織された。当時のメンバーは20代の青年で、その殆どが、後にキリスト教会の指導者になっている。

現在,日本YMCA連盟として日本各地35カ所で活動している。

 

※YMCA野尻湖学荘

上野で待ち合わせ,リーダーと中高生(以下団員とする)約60名と列車,電車,バスなどを乗り継いで野尻湖学荘に到着した。野尻湖の岸には船着場があり、その近くに10人乗りと2人のりヨット,手漕ぎのボートが繫留されていた。それより数メートル高い所に、小学校の教室が5部屋くらい入りそうな多目的に使用できる講堂のような大広間があった。ここは食事,勉強,団員親睦のゲームなどを行ないますと主事から説明があった。その裏側にかなり大きな宿泊施設があった。

団員10名に1人のリーダーで班が作られ、その班単位で自主的に計画が立てられていた。朝食,昼食,夕食と夜の親睦の時間は全員集まって行動をともにした。

大体、午前中は夏休みの宿題の勉強。午後は水泳、ヨット,植物採集、湖周辺の散策など、班毎で決めて行動していた。

食事の前に、「日々の糧を与え給う,恵みのみ神は、ほむべきかな」或は「ご飯だ、ご飯だ、さー食べよ。風はさややか、心もかろく・・・・・」を歌って、リーダーの短い食前の祈りの後、“いただきます”と食事が始まる。食事の後片付けをしてから、勉強時間になる。分からない問題はリーダーが親切に教える。

私にとっては、この勉強時間が最も暇である。午前10時過ぎから1時間くらい,主事に話をして、1人乗りのヨットの練習をした。午前中は突風が吹くことが少ない。突風だとヨットがひっくり返って危険が伴うので、突風の時はヨットを出さないようにと注意された。ローイングボートは何度も乗ったことがあるが、ヨットは初めてだった。適当な風を帆がはらんで、帆走するのは、今まで経験したことのない爽快な走りであった。3日目になると風を利用して、ヨットの方向を90度でも180度でも方向転換をすることが出来た。

一度困ったことが起こった。微風だけれど、そのうち風が吹いて来るだろうと一人合点し、ヨットを出した。湖の3分の1くらいの所まで、微風でヨットはなんとか走ったが、全く風が薙いでしまった。走っている時は、暑さを感じないが、止まってしまうと、直射日光が照りつける。太陽は直上にあるので、ヨットの帆も日陰を作ってくれない。

連絡しようにも連絡方法がない。携帯電話などまだ無い時代である。幸い,船着き場で、望遠鏡で湖を監視していたリーダーが見つけて、ローイング・ボートで迎えに来てくれた。

YMCA野尻湖学荘の玄関前でリーダー達と(中央が筆者)

 

dutyのない時間にはヨットを楽しんだ