第31話  — 南米3カ国、ペル−、アルゼンチン、ブラジル訪問 — 【part1】

南米3カ国、ペル−、アルゼンチン、ブラジル訪問

1996年10月23日から約2週間の予定で、T埼玉県知事は南米3カ国(ペルー、アルゼンチン、ブラジル)を訪問されることになった。知事の主な目的は、ペルーでアルベルト・フジモリ大統領の表敬訪問、アルゼンチンでは知事の旧友の海軍大将を訪問、最も大切なのは埼玉県で計画されているサッカー・スタジアムを本格化するために、世界最大のサッカースタジアムであるマラカナン・スタジアム(ブラジル)を視察することであった。また、各国政府の複数の要人との会合も組まれていた。

私も同行を命じられた。また、私は埼玉県衛生部から各国の医療事情を調べて来るよう命じられた。医療事情と言っても、各国の日本人二世の経営するクリニークを訪問し、どのような施設でどのような診療をしているかを調べることにあった。ブラジルでは私の希望で、ブラジル国立サンパウロ大学付属心臓病センターを見学することにした。そのため、県の衛生部の係長が私の秘書役として同行した。

<ペルー目次>

とらやの羊羹はもうたくさん(フジモリ大統領の母堂を訪問)。 

リマの診療所(クリニック)訪問。

天野博物館見学。

在ペルー日本国全権大使を表敬訪問。

在ペルー日本大使館公邸をMRTAのメンバーが占拠。

“とらやの羊羹”はもうたくさん

ニューヨーク経由でペルー・リマに到着した。リマの中心部は10数年前に来た時より近代的に整備されていた。知事が大統領を表敬訪問した日の昼食に,大統領の母親Mさんから団員全員(9名)を大統領官邸に招待して頂いた。シャンデリアの輝く30畳 くらいの部屋で、応接室のソファーの背もたれや食卓の椅子の背もたれの上部は彫刻がほどこされ、金色に塗られていた。母親Mさんの歓迎の挨拶の後に、ペルー式日本料理がつぎつぎと運ばれて来た。Mさんは80歳を少し過ぎた感じの方で、杖をついていたが、しっかりした日本語で、ペルーに来た頃の苦労話をされた。息子であるフジモリ大統領は中学・高校では学問・体育とも抜群の成績で、ヨーロッパに留学した時も抜群の成績であったと、うれしそうに息子の自慢話をしてくれた。   

私が医師であるという理由で、抗がん剤を服用しているという大統領の姉さんが私の隣に坐った。少し手遅れの乳がんの手術後の抗がん剤は日本ではどのような薬を使っているか?その予後はどうですか?などの質問を受けた。今、抗がん剤の副作用で頭髪は全部抜けて、かつらを使用していることなど、もっぱら癌の話に終始した。

これは、昼食会の終わりに近づいたころの母親Mさんの話である。「息子が大統領になった頃、日本のマスコミの方々がインタビューに次々と来られました。息子の話をした後で、マスコミの方に“お母さんの好物の食べ物は何ですか?”と質問されたので“ 虎やの羊羹です ”と答えました。このことが報道されたのでしょう。その後、日本から来て下さる方は虎やの羊羹を必ず持って来て下さいました。初めのうちは喜んで羊羹を頂いたのですが、来られる方、来られる方が皆さん“虎やの羊羹”を持って来られたので食べきれません。羊羹は山のように貯まる一方なので、溶かして“おしるこ”にして食べたりしましたが、それも飽きてしまいました。日本に帰られたら、“ 羊羹をおみやげに持って行くな ”と伝えて下さい。」と手を合わせて言われた。

羊羹は、たまに食べると美味しいが、毎日食べたら飽きてしまうであろう。私は同情しながら、この話を聞いた。

ペルー大統領官邸。昼食会の後,大統領の母堂を囲んで記念写真。

2列目の夫人は大統領のお姉さん。

クリニーク見学

翌日、係長を伴って、日本人2世の経営するクリニークを見学した。玄関の右側に日本船舶振興会会長の笹川良一氏の大きな胸像が高さ1.5メートル、幅1メートル四方くらいの台の上に飾られ、その横に日本国内でも、しばしば見かける「世界は一家、人類みな兄弟」の標語の四角い標識が建てられていた。あとで院長に聞くと、競艇の収益金を元にした日本船舶振興会の笹川良一会長から、ペルーに多額の援助をして頂いている。このクリニークでも医療器械などを振興会から頂いているので、そのお礼と感謝の意味を込めて、胸像を飾っていますとのことであった。

クリニークの中に入ると、日本の中程度のクリニークの広さで、レントゲン撮影装置、心電計、血液分析装置などが完備されていた。院長は「この器械も、この器械も振興会から頂いたものです。」と説明してくれた。ペルーの日系人の多くは笹川氏を敬愛していると話していた。

このクリニークで、通常の病気の診断と治療はできるが、重症な病気や手術が必要な患者は大学病院か、リマの大きな病院に紹介している。通常、日系人を診察しているが、来院すればペルー人も診察するという。

私は約2時間クリニークを案内してもらうとともに院長とペルーの医療事情について話をした後、視察を終了した。

天野博物館を見学

天野博物館に関しては、『岩波書店版:天野芳太郎 / 義井豊著・ペルーの天野美術館・古代アンデス文明案内』を手元に置いて読んで頂くと理解し易い。写真10枚を掲載したが、これは岩波書店と著者・義井豊氏の掲載許可を頂いている。

日本人が創設した本格的なアンデス考古博物館と言われている天野博物館を見学した。この博物館は天野芳太郎氏(1912〜1982)が、実業家として南米で成功して財を成し、チャンカイ文化(ペルー中部で紀元後1000〜1400年ころ栄えた文化)遺跡の調査・発掘とその保存に取り組み、後に博物館を建設された。天野氏が、このアンデス文明に興味を持ったのは、チリで農場を経営していた時に、その地方の先住民アラウカノ族に興味をもったことから始ったという。(アラウカノ族は300年間スペインと戦い続けた歴史をもつが、その文化については詳らかではないという。)

博物館は美しい住宅街にあった。こじんまりした建物で、収蔵品は数万点で、その内300点を常設しているという。入場料は取らないが、予約制である。案内は日本人スッタフが日本語で分かり易く解説をしてくれた。

博物館は土器と織物の2部門に分かれている。

案内はインカ帝国の地図から始められた。帝国の北限はコロンビアのアンカスマヨ川、南限はチリのマウレ川で、南北の直線距離5300km,日本の5倍半だという。

土器は年代の古い順に展示されている。私が興味を持った展示品を解説しよう。

古代土器では紀元前BC1000〜200年ころに栄えたチャピン文化の酒壷が素晴らしかった。黒色か黒褐色で3点展示されていた。この内、黒色の鐙形刻文壷は一見象形文字をもつように見えるが、実は人の顔を表しているという。鐙形の注口部を水平にして酒壷をだんだん倒して、盃についでゆくと、文様が自然に人の顔に見えるように出来ているという。この話を聞いて私は、顔を斜めにして、立っている壷を覗き込むだ。顔全体というより、目と鼻が分かったが人の顔には見えなかった。(本の写真を酒をつぐように傾けると、人の顔に見えて来る)。今から2000年以上前にこんな素晴らしい壷が出来ていたとは、驚きで、この壷の形と黒色が気に入って暫くこの壷の前に佇んだ。

鐙形刻文壷  チャピン文化 (紀元前800年ころ) 

高さ24cm

紀元前BC300年ころの“土器の臈纈(ロウケツ)染め”も素晴らしかった。現在の織物に対する臈纈染と同じ手法で、先ず、土器に、例えば魚の形を蝋(ロウ)でかいて、あとは顔料をくまなく塗る。土器を焼くと蝋の部分がとけて土器の地肌が文様としてあらわれる。この方法は中国では紀元700年ころ、日本では正倉院の紀元770年の土器があるという。なんと1000年もの違いがある。そのころは日本では弥生文化が始まったころだという。

紀元100〜600年ころのナスカの五彩の壷も美しい。2人の狩人が槍を持ってグアナコという4つ足の動物を穫っている図柄である。紀元400年ころには、すでに5つの色を使って焼いている。唐では700年ころ、ようやく3色が使われたのだという。

彩色壷  ナスカ文化 (紀元400年には五彩を使っている。唐では紀元700年の時点で三彩しか使用していない)

高さ17cm

次に目についたのは、“いろいろな顔の土器”である。主に首から上の顔の土器で、殆どが酒壷である。その顔はヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人、中国人などで、漂流によって南アメリカに漂着した人たちをモデルした土器である。説明によると、この南アメリカに漂着した人達は、新大陸を発見者したと言われているコロンブスよりも何百年も早くに南アメリカにやって来た人たちであろう。

いろいろな顔  モーチカ分化(紀元100〜600年ころ)高さ19cm

下:モチーカ文化 (紀元100〜600年ころ)高さ25cm

右上:ナスカ文化 (紀元100〜600年ころ)高さ7cm

右中,右下:チムー文化 (紀元1000〜1400年ころ)高さ21cm,18 cm

次は肺臓の形をした黒色単頚双胴壷である。左右の肺と気管支が中央で気管となり、気管が酒の注ぎ口になっている。

アンデスの人たちは武器には冷淡で、弓矢などの道具は使用せず、武器としては投石機やこん棒を使用していた。武器には冷淡であったが、医学には関心が高く、紀元前に医学は可成り進歩していた。紀元前BC500年ころの石彫に食道、胃、腸、脊髄などの図が彫られているという。コカの葉からとったコカインは麻酔薬として使用され、キナの樹皮から精製したキニーネはマラリアに使われていた。古くからたくさんの薬草が病気に使用されていた。

戦いの時は投石機やこん棒が武器として使用されていたので、頭部の外傷、特に頭蓋骨の骨折が多かった。このため、紀元前BC500年には既に脳手術、特に穿頭術が盛んに行なわれていた。紀元前BC3500年ころに生きていた若者の頭蓋骨に2つの穴が空けられた頭蓋骨が発見されているという。また、800個の頭蓋骨の研究では生存率は70%に及んだという報告がある。滅菌技術の普及していなかった当時の成功率は驚くべきものがある。この当時、石で作った武器(こん棒)の先端には鋭い石の突起があり、戦いの時には頭蓋骨の損傷とともに急性硬膜下血腫が生じた。これを放置しておくと死にいたるので、この治療のために穿頭術が発達したのであろう。

つぎに織物の展示場に入るとチャンカイ時代(紀元1000年〜1400年)の織物が展示されている。織物には羅(うすく織った絹の布)のスカーフ、刺繍のレース、絞り染め、紋織り、縞の織物など変化に富んでおり、現代の技術でも織るのが難しいという。布地は1500年たっているので、布地はぼろぼろなっているが、色はしっかりしており、元のまま残っているという。これらの立派な織物が王侯貴族だけでなく、庶民にも使われていたという。庶民の越中ふんどしが綴れ織り、ふつうのおかみさんがレースを頭にかぶっていたというから、これも驚きである。彼らは木綿の細い糸を引くことができた。現在の日本では140番が限界だというのに、彼らは250番手の糸を引いたという。彼らの技術はこのような細工だけでなく、巨大な建造物に対する技術も持っていた。例をあげると灌漑水路は4000分の1の勾配(4kmの距離で1mの高低差)で水を流す技術を持っていた。前回、私がペルーに来た時の遺跡見学の説明では、数百トンの巨石を何十キロも先まで軽々と運び、石で建てた建物、要塞などは寸分の隙間のなく、石と石との間に薄い半紙を通すことも出来ない石組みの技術を持っていたという。

チャンカイ織物    

上:房飾り付綴れ織り貫頭衣。  

下:紋織り

キープ(Quipu, khipu,結節縄、結縄): 私が見学して興味を持ったのはキープであるそれは、インカ帝国で使われた紐に結び目をつけて数(1〜9)が1バイトで文字のなかったインカ帝国ではデジタル通信が行なわれていたのだという。赤、白などの縄の色によって情報の内容が政治、経済、祭祀、農業などに分けられている。キープを運ぶ飛脚の“チャスキ”は、時速17キロメートルで、1日約280キロメートル走って次の人にリレーする。一説によると1000kmを3ヵ日間で走ったという。キープの製作、解読をする教育を受けた専門職をキープカマヨックといい、インカ帝国

(前身となるクスコ王國は13世紀に成立し、1533年スペインに滅ぼされるまで約200年続いた。最盛期には80の民族と1600万人の人口をかかえていた)の各地で役人をしていた。近年、欧米の諜報機関がキープの解読を試みたが、完全には解読できなかったという。

キープ(結節縄) インカ文化(インカ帝国)