第36話  — 南米3カ国、ペル−、アルゼンチン、ブラジル訪問 — 【part6】

国立サンパウロ大学付属心臓病センター訪問

私と係長は予約してあったので、ホテルで休む暇もなく国立サンポーロ大学付属心臓病センターに向かった。

大学の門を入ると、大学構内の通路はもとより、立ち木の間という間、至る所に救急車と霊柩車がひしめき合って止まっていた。あの飛行場事故のためサンパウロ市全体から集まったのであろう。数十台以上の霊柩車などが駐車していた。

その駐車している車の間をすり抜けるように心臓病センターに到着した。約20年前に私がセンターを訪問した時は、コンクリートの打設中で、ヘルメットとマスクと手袋をして粉塵の舞う中を案内してもらった。その時、私は “いつの日か、立派な心臓病センターを作りたい。”という夢を持ったのである。幸い私は, “埼玉県立循環器・呼吸器病センター”の建設に携わることが出来、初代センター総長を拝命し夢を叶えることができた。

この国立サンパウロ大学心臓病センターは、既に20年経過しているので、やや古くなっていた。玄関を入ると、M教授が迎えてくれた。私は、初対面の挨拶の後「飛行機事故でお忙しい時に訪問して申し訳ありません。」というと教授は「何かあったのですか?」と怪訝な顔をした。「今朝、飛行機が墜落し、多数の人が死亡しました。今、大学の通路や庭の至る所が救急車と霊柩車に占領されていますよ」と話すと、彼は驚いて玄関から外に出て、救急車などを見て、「心臓病センターには1人も運ばれて来ないので、全く知りませんでした」と言った。生きている人がいないのだから、心臓センターに来る必要はなかったわけである。

しかし、救急車や霊柩車で運ばれた遺体を検屍する法医学部や解剖学教室が超多忙であったろう。

その後、エレベーターで5階まで登り、5階から順番にセンターを案内してもらった。特に、手術室、ICU(集中治療室)は丹念に見せてもらった。前回来た時,案内して下さった日本人贔屓(ひいき)のゼルビニー教授を私は思い出していた。研究室に入ると、入り口の棚にゼルビニー教授の頃、臨床に使われていた“脳硬膜”を使用した生体人工弁が保存液に入れて展示されていた。M教授に尋ねると、「初期は血栓もできず、弁の機能も良好でしたが、数年たつと“脳硬膜”の耐久性が弱く、萎縮したり、破れたりしたので、10年くらいで使用を中止しました。」とのことであった。CT, MRI, 超音波診断装置、人工心肺装置などは欧米よりの輸入品で、かなり充実していた。

約2時間見学して、私たちはセンターを後にした。

エスタジオ・ド・マルカナン

昨日の事故機と同じ時刻のTAM航空機に乗って、リオデジャネイロに無事に到着した。

マルカナン・スタジアムに着くと、10人くらいの職員の方々に迎えられた。その1人はスタジアムの施設長であった。案内人は正面入り口に私たちを連れて行った。そこには、ブラジルの英雄ジーコ(333得点をあげた)をはじめ歴代の名選手の写真が飾られ、入り口の床にはカラサーダ・グ・フャマと呼ばれる歴代ブラジル代表の足型が彫られていた。

貴賓室に案内されスタジアムについての歴史や規模について説明を受けた。

スタジアムは1969年に竣工し、20万人の収容人員を誇ったが、1992年にスタンドの落下事故が起こり、現在は収容人員約8万人に縮小された。398メートル X 260メートルの楕円形で、大きさは世界最大、この時までこの大きさは破られていないという。

VIPシートでスタジアムを概観した後、グランドに案内された。グランドの芝生の上から観客席を見上げると、とてつもない圧倒される大きさであった。8万人が収容されている時、ここに立ったら足が竦む(スク)のではないかと思うほどであった。サッカー・ボールが2つ投げ入れられて、よく手入れされた芝生のなかで自由に遊んでよいといわれ、ボールを蹴って遊んだ。知事がゴール目がけてボールを蹴ると、ゴール中央に1メートルくらいの高さに飛んだ。キーパー役をしていた団員が奇麗にキャッチすると、10人くらいの職員から拍手が起こった。背の高い2人の女性職員は知事と握手して,蹴ったボールが素晴らしかったと知事を讃えた。私たちは30分くらい子供のようになって、ボール蹴りを楽しんだ。サッカー・スタジアムの手入れの行き届いた芝生の中で、ボールを蹴ったのは、生涯で初めての、そして最後の経験であった。

県の担当者は参考資料としてスタジアムの設計図のコピーやパンフレットなどをたくさんスタジアムの職員からもらっていた。

 

観客席からグランドを見る

 

グランドから観客席を見上げる

リオのカーニバル

帰りは専用バスでリオのカーニバル観覧用のスタンドに案内された。観客席は数十段あり、その後ろに夜間照明用の高い設備が10メートル間隔に立っていた。スタンドは700メートル続いており、踊り子が踊る広い道路の両側に建てられていた。テレビで見た、リオのカーニバルの熱狂ぶりが、このスタンドを見ただけで想像できた。添乗員の説明によると、カーニバルは謝肉祭ともいわれ、厳粛な雰囲気の四旬節(キリスト教の復活祭前40日間の斎戒期(心の不浄を浄め、身の過ちを戒めるため、飲食・動作を慎んで、心を清める期間。キリストの40日間の荒野の断食修行にちなんだもの)の期間に入る前に行なわれる祝祭である。夜にはじまり、朝まで徹夜で踊るという。1チームは2500〜5000人位で、アルゴリーアという高さ10mもある豪華に飾られた山車を先頭に各チームそれぞれ特徴のある派手な衣装と飾りを身にまとって、700mのスタンド前を75分かけてゆっくり行進する。110万人の観光客が全世界から集まるという。

私は10数年前にリオを訪問したおり、レストラン・セアーター(restaurant・theatre)

で食事をしながら、その年の優勝チームの衣装をつけた30人くらいのプロのダンサーが,大きな舞台でサンバのリズムに合わせて踊るのを見たことがある。衣装も踊りも素晴らしかった。サンバは思わず私も体を動かしたくなるようなビートとリズムであった。   

 私は、この踊りとサンバの曲を思い出しながら、あのスタンドで見る観客の熱狂が想像できた。

   

リオのカーニバルの観客席。幅の広い道路の両側にある観客席は700メートル続いている。   

ブラジルの有名な料理シュラスコ [ churrasco(ポルトガル語)]

その夜、シュラスコを食べに専門店に行った。シュラスコを提供するレストランを「シュハスカリア」と呼ぶ。ほぼ満席であった。

私たちが坐ると直ぐウエイトレスが飲み物の注文を取りに来た。ついで、80センチメートルくらいの鉄の棒に串刺しにした牛肉の塊の焼肉を、そのまま客の目の前に持って来る。そして客のお皿に鉄の棒を立てるようにして,少し曲がった短刀くらいの長さのナイフで肉を削ぎ落とす。驚くほどよく切れる。客の注文により何切れでも削ぎ落としてくれる。肉の部位により、リブ、ランプステイキ、肩ロース、サーロインなどがあり、注文すると、どの部位の肉でも次から次に持って来てくれる。味は基本的には岩塩だが、コショウ、洋芥子などを頼むことができる。モーリ・ソース(ピーマン・トマト・ニンニク・オリーブオイルで作る)が,相性が抜群で、さらに酢を加えるとさっぱりした風味の絶品になる。これを切り落とされた肉につけて食べる愛好家も多い。

ここでは店のスタッフが焼いた肉を串ごとテーブルに運び、目の前で熱々の肉を切り分けてくれる。肉の焼き加減、脂身の量,サーロイン,ヒレ,ロース、など好みの部位や量を遠慮なくスタッフに伝えると希望を聞いてくれる。具材は肉だけでなく、オーダーすると野菜,バナナ、パインアップルなどと一緒に焼いてくれる。パインアップルの酵素は肉を柔らかくしてくれる。野菜サラダ,パン、ライスも食べ放題である。ビールやワインを飲み、談笑しながら楽しく食べる料理である。

もちろん時間制限もない。

ポンデケジョ(チーズパン)、フレンチフライもテーブルにおいてあり、食べ放題である。

私はデザートに、パパイヤを半分に切り、種を除いた凹部にバニラアイスクリームを入れたデザートを注文した。これは、前回に来た時,奨められてから私の大好物になったデザートである。機会をみて皆さまも賞味して頂きたい。

こんなに肉を食べたことはないと思うほど、たらふく肉を食べて団員一同が満足した一夜であった。

 

シュラスコ : 80センチメートルくらいある跌の棒に串刺しにした牛肉の塊りの焼き肉を客のお皿に、良く切れるナイフで肉を削ぎ落とす。何種類もの肉を次から次に持って来て、客の注文により何切れでも削ぎ落としてくれる。

知事は3カ国で政府の要人と会い、農林研修生の埼玉県への受け入れの契約などをされたが、これらの件は省略する。翌日、私たちは長い旅を終え、目的を果たして帰国の途についた。

<文献>

1)天野芳太郎、義井 豊:ペルーの天野博物館・古代アンデス文化案内、岩波書店、1983

2)天野博物館、インターネット  

3)Wikipedia 天野芳太郎  

4)Wikipedia キープ(インカ)

5)Wikipedia 在ペルー日本大使館公邸占拠事件

6)Wikipedia カルメン(オペラ) など

7)アマゾン熱帯雨林について知りたかったこと。(ailovel)インターネット

8)Wikipedis マナウス及びネグロ川。その他インターネット