第12話 ジャカルタ大学外科部長Dr.Sの夢【part1】

【ジャカルタ大学外科部長Dr.Sの夢

 1965年(昭和40年)ころ、東京女子医大・心臓血圧研究所(心研)にインドネシア・ジャカルタ大学・外科部長のDr.Soerarso(Dr.Sと略す)が留学生として、研修にやって来た。当時インドネシアでは、肺結核が猛威を振るっていたので、インドネシアからの留学生の多くは結核研究所などの結核の専門病院に留学していた。そして、たくさんの日本の呼吸器(肺)外科専門医がインドネシアに肺の手術の応援のために出張していた。  しかし、Dr.Sは、これからはインドネシアでも心臓外科が必要になるとの信念をもって日本に留学してきた。できることなら日本からインドネシアに心臓外科発展のための援助をして欲しいと切望していた。心研の榊原仟所長はこれに共鳴し、海外協力事業団の協力のもと、心研の2人の医師を半年交代で2年間にわたり応援することになった。

【第1陣からの手紙

まず、1967年、第1陣と一緒に人工心肺装置、心電図。心内圧を測定するポリグラフ、電気ショックによる除細動装置など心臓手術に必要なたくさんの器械をジャカルタ大学に送った。第1陣のY君の手紙では、電気事情が極めて悪く、電圧が変動するので人工心肺装置の回転数が狂って臨床には使用できない。検査用のPhメーターなどに用いる乾電池さえ無い。諸外国から援助品として送られて来た医療器械のパーツがなく使用できないなど、私たちの想像以上に医療環境が整っていないことが分かった。そこで、電圧を一定にする可動鉄片型低電圧トランスや電池、種々のパーツなどを送った。

 私は榊原先生に“最後の総仕上げ”を命じられた。インドネシアに滞在している心研の第4陣の2人の医局員と合流して、最終段階の2週間の応援だったので、医療器械などは、かなり整備されてからの出発であった。

【第1例目の心臓手術

 私がガルーダ航空でジャカルタに到着したのは、1969年8月24日の真夏の暑い夜であった。Dr.Sをはじめ、半年前から滞在していた女子医大心研のN君、I君、熱帯医学研究のためジャカルタに滞在していた女子医大・寄生虫学のK教授など多数の人に出迎えられた。

 翌朝、病院に着くとN君が迎えてくれた。病院は白いオランダ修道院風の建物で、病棟と病棟は屋根のついた廊下でつながっていた。その廊下を渡って、病院長室に向かった。「先生の来られるのを、期待して心からお待ちしておりました」と白髪の院長は親愛の情を込めて私の手を両手で握りしめた。しばらくの歓談ののち、表敬訪問が終ると、すぐ病室に案内してもらった。

 第1例に予定されている16歳A君を診察した。胸部X線写真のCTRは80%(正常50%以下)、肝臓は3横指触知(正常は触知しない)され、左心室造影検査ではIV度の逆流のある、重症なリウマチ性僧帽弁閉鎖不全症で、人工弁置換を必要とする症例であると私は診断した。A君は小麦色の肌をした、目のクリクリとした可愛い少年であった。手術を2日後に控えているので、手術室に直行し、手術に必要な器械を入念にチェックした。

 翌日、私はインドネシア駐在日本大使を表敬訪問した。大使公邸で大使、奥様、背の高いお嬢さんに迎えられた。大使は「日本の援助が成功することを祈っています」と私の来訪を歓迎してくださった。

【冷房の効かない、真夏の手術室

 翌朝、手術は7時半、気温の涼しいうちに始めた。白壁の天井の高い手術室は驚くほど、だたっ広かった。そこに2台のGEのウインドクーラーがガタガタとうなりをたてていたが、電気事情が悪いため、扇風機の動きはするが、クーラーの役目は全く果たしていなかった。

 私の執刀、第1助手Dr.S、第2助手Dr.Nogi、第3助手Dr.Jusiの混成チームで手術は始められた。この混成チームは、初めのうちは、ちぐはぐな動きであったが、心臓に送血チューブ、脱血チューブが装着されたころには、意気のあったチームとなった。私は「Pump Start !」と命じた。電圧の低下が心配された人工心肺装置の回転もスムーズであった。私がナースに英語でオーダーすると、てきぱきと手術器械が手渡された。Dr.Sのインドネシア語の指示がナースに飛ぶ。冷房のきかない真夏の手術室は次第に暑くなり、30分もたたないうちに全身が汗でぐっしょりになった。

 今から10数年前の日本のテレビの手術シーンでは、ナースが時々手術者の額の汗を手ぬぐいで拭いていたが、冷房の完備した最近の手術室ではこのシーンを見ることはない。しかし、この時のインドネシアでは、汗が目に入るので、時々額を拭いてもらった。汗との格闘であった。

 うだるような暑さだったが、それでも、手術は順調に進み、20数本の糸で人工弁を僧帽弁位に置換した。手術中、止まっていた心臓に電気ショックをかけると、心臓は勢いよく動き出した。“もう大丈夫だ!”と私の外国での第1例の手術成功を心のなかで祝った。