夕食後の親睦会(ゲーム)
夕食をすますと、机と椅子を片付けて、車座に座る。この時、たくさん歌を覚えたので、そのいくつかを紹介しよう。
1,静かな湖畔の / 森のかげから // もおきちゃいかがと / かっこがなく ///
カッコ カッコ カッコ カッコ (輪唱で歌う)
2,朝は再びここにあり
3,星かげさやかに
4遠き山に日は落ちて
5,おお、ブレネリ
沢山あるが、これくらいにするが、次の2つ歌は言葉とリズムが面白かった。YMCAが編集した“楽しいうた”に掲載されているが、この2つの歌は民謡とか作詞,作曲者の名前など掲載されていない。
6,シンシャン、グリグリグリ、ワツシャ、シンシャン,ウイリ、ウイリヤ、イエーラ,イエラ,チャバ、チャラバ、シャラバ、シャラバ,シャラバ,ホイ
7,もう1つ : A, クイクワイ、マニマニマニマニ、ダスキー,クイクワイコウ、クイクワイカム、 B, オニコデイモ、オチャリヤリウンバ,オニコデイモ,オチャり,ウンバ,ウンバ C, ウンバ,ウンバ,ウンバ,ウンバ(ABCを団員が3グループに分かれて順次輪唱する )
8,“八百屋のお店に並んだ品物見てご覧。よくみてご覧、考えてご覧!”と全員で歌う。ここでリーダーはA君を指名する。A君は果物でも野菜でも、好きな物の名前を言う。例えば“りんご” 団員は“あー!あ”と歌ってから“八百屋のお店に並んだ品物見てご覧。よく見てご覧、考えてご覧!”と歌う。ここでA君はB君を指名する。B君は、さっきA君が言った“リンゴ”と言ってから、自分の好きな“なし”と答える。これをC君、D君、E君・・・・と続ける。E君は“リンゴ,なし、トマト、みかん、なす”と続ける。10人を過ぎると、果物や野菜の順序を間違える団員が出て来る。間違えた団員のところで一時中止して、その団員が自分の隠し芸を披露した後、また、“八百屋のお店に並んだ・・・・”と繰り返す。私も5,6番目だと何とか覚えているが、10番を過ぎると、品物の順番を間違えたり、忘れたりたりして、隠し芸を披露することになる。このゲームは結講面白く、人気もあった。
8時半くらいにはゲームを終了して、各自の部屋に帰った。
4日目の夜キャンプ・ファイアーが行われた。カラマツ林を切り開いた公園のような広場の中央に凹みがあり、そこに薪を積んで火をつける。火が燃え移らないように、多数のバケツに水を用意し、数本の小さな消化器も用意した。団員達はその火を取り囲むように車座になり、リーダーが薪に火をつけた。火が燃え始めると団員達は
1、燃えるよ 燃えろよ 炎よ燃えろ
火の粉を巻き上げ 天まで焦がせ
3、燃えろよ 燃えろよ 明るく熱く
光と熱との もとなる炎
と言うキャンプファイアーの歌を歌った。真っ暗夜空に炎が2メートルくらい燃え上がる。周辺を照らすのは、炎の光だけである。何か原始の時代に帰ったようで、神秘的なひと時であった。
山荘周辺の散策をしたり、水泳やヨット,ゲームで遊んでいるうちに、1週間はアット!!言う間に過ぎて行った。幸い団員たちは大きな病気にならなかった。
私も中高年になった気分で、楽しく1週間を過ごした。
野尻湖から燕温泉
これは、その翌年の夏の話である。YMCAから、また7日間の中高生の付き添い医師を依頼された。前年,野尻山荘には女性でも宿泊できるゲストハウスがあることを知ったので、この年は、私の勤務していた女子医大の学生4人を野尻湖に誘った。彼女たちは、私のdutyの終る2日前に山荘に来て、昼はローイング・ボートを漕いだり、野尻湖周辺を散策したり、夜は団員たちのゲームに加わったりして、野尻湖を楽しんだ。
私のdutyが終った翌日の午前中に、女子医大生4人と田口駅(現在の妙高高原駅)に向かった。この後の計画は学生に任せておいた。彼女らは田口駅からそれほど遠くないバンガローの宿を予約しておいた。昼前にそこに着いた。バンガローが割り当てられ、そのバンガローに入ってみると、トタン板の屋根が真夏の直射日光に当たって、内部はまるで蒸し風呂であった。5分も入っていられない。皆な外にでてきた。宿の主人に聞くと、夜もそれほど気温は下がらず、バンガローの中は夜でもかなり暑いとのこと。ここで過ごすのは無理だと考えた。そこで、私は、この年の冬2月に武蔵野YMCA青年部のスキー合宿の付き添い医師として参加した、標高の高い(1100メートル)燕温泉に行こうと提案した。ただ、燕温泉の宿の主人から、夏は湯治客でいつも満室だと聞いていたので、部屋が空いているか否かは燕温泉に着ついて見ないと分からない。“当って砕けろだ“と言って、学生の反応を待った。彼女たちは相談して、このトタン屋根の焼けるような暑さのバンガローでは泊まるのは無理だ。多少のリスクがあっても、“ドクさん”の提案の燕温泉に行こうと意見は一致した。
彼女らはYMCAの中高生につけられた私のニックネームの“薮ドク”はさすがに悪いと思ったらしく、“ドクさん”と言うようになった。
私たち5人は、バスで赤倉まで行き、夏でも動いていたスキーのリフトで赤倉の頂上に行き、それから、かなり長いトンネルを通リ抜け,約1時間歩いて、やっと燕温泉に到着した。
私は、この年の2月に武蔵野YMCAの依頼で青年部のスキー合宿に来た時泊まった“中村屋”に入った。帳場には、この旅館を取り仕切っている70代のおばあさんが座っていた。彼女はドクターである私の顔を覚えていた。私は簡単に燕温泉に来た理由を話した。彼女は“先生、ラッキーです。今日と明日の夜だけ1部屋空いています。そこに4人のお嬢様方をお泊めし、先生は女中部屋を空けますから、そこに泊まって下さい。”
私は“ラッキー”と心の中で叫んだ。
その時、隣の旅館の主人(Kさんとしよう)が何かの用事で中村屋に入って来た。Kさんと私は2月の合宿の時に顔見知りになっていた。Kさんは、私と女子医大生を見て「先生,明朝、私の旅館に泊まっている東大の有名な教授のご子息とその友人2人(小中学生)と妙高山(標高2454メートル)に登山します。もし、よかったらご一緒しませんか?朝7時に出発です。」と誘ってくれた。私たちは相談して、“願ってもない幸運”のお誘いだと、直ぐ連れて行って頂くようにお願いした。Kさんは年に何十回も妙高に登っているベテランである。よいリーダーに案内してもらえるのが楽しみであった。中村屋でも、6時の朝食とおむすびを作ることを快諾してくれた。
明朝が早いので、8時半前に床についた。
女子医大生が軽い高山病になる
ぐっすり寝ていると女中部屋の扉をノックして、学生のMさんが入り口で 「Iさんがさっきから呼吸が苦しい、苦しいと言っています。すぐ来て診てあげて下さい」早速私はズボンをはき、ポロシャツを着て彼女たちの部屋に向かった。
Iさんは吸ったりはいたり意識的に深い呼吸をしている。努力呼吸だ。努力呼吸をしていても苦しいという。脈をみると,1分に90くらいの少し頻脈だが不整脈はない。聴診器は持っていなかったので、呼吸音は分からない。暫くIさんの側(そば)に居て様子をみた。そして私はIさんの病状は “野尻湖からここまでかなり歩いた疲労と、燕温泉は標高1000メートルを超えているので、軽い高山病だ”と診断した。そこで、押し入れから布団を引き出して積み重ねて高くし、Iさんがその高い布団に寄りかかって寝られるように調整して、Iさんを寝かせた。いわゆる座位呼吸にした。Iさんに聞くと、この姿勢のほうが前より楽だと言うので私は側で様子をみていた。2,30分するとIさんの軽い寝息が聞こえてきた。若し、何かあったら、また呼ぶようにと言って私は女中部屋に引き上げた。
妙高山登山
朝食前にIさんを見舞うと比較的元気になっていた。一人で留守番が出来るかと聞くと大丈夫とのことなので、朝食後私たちは、隣の旅館の人たちに合流した。総勢8人。
初めにKさんから、Kさんが先頭、ドクターがしんがりを歩き、その間にいつも全員がいるように。各自自由行動をとらないように、など短い注意があってから出発した。
晴天で気持ちの良い朝だった。Kさんは時々後ろを振り返って、7人の様子を掌握しながら前進した。周りの山々が段々私たちより低くなって行く。
初め林道を歩いたリ,草原の真ん中にある沼の周辺を歩いた。次第に大きな岩の間をぬうように歩いたり、岩盤の上を歩いた。かなり急坂のところをよじ登った。途中2,3度小休止を取ったが、全員元気であった。
ようやく、北峯(2446メートル)の頂上に到着した。ここには11三角点が設置され、山頂は広いスペースがあった。東方向は眼下に妙高高原が広がっていた。Kさんはみんなを集めて「妙高山は日本百名山の一つで、越後冨士と呼ばれるほど美しい裾野を持っています。帰りにそれを眺めましょう。東方向は妙高高原、その向こう、かなり遠くなりますが、昨日までドクターたちの居た野尻湖が見えます。あれが白根山、こっちが谷川岳。南西方向には北アルプスが眺められます」と指差しながら説明してくれた。
野尻湖が見えた時は、私たち4人は歓声を上げた。
北峯山頂で昼食にした。腹が空いていたので、おむすびが美味しかった。ドイツ語の譬えに“空腹こそ、最高の料理”という言葉があるが、おむすびと漬物が最高の料理であった。
Kさんに「帰り道は、登って来た道と違うので注意しましょう。登るときより楽だと安心して、返って滑ったり、転んだりして怪我をします。自分で気を引き締めて下山して下さい」と注意されて下山を始めた。Kさんは急がない、ゆっくりしたペースで歩いてくれた。
午後3時半ころ燕温泉の見える所まで到着した。かなり遠くで手を振っている人がいる。女子医大生のIさんだった。近づくと元気そうな顔で「午前中ゆっくり休んだら元気になったので、みなさんを迎えに来ました」とにっこりした。私もIさんが元気なのを見て安心した。
右上:隣の旅館の主人KさんとKさんの旅館に泊まっている3人の小中学生。
左3人は女子医大学生。
下向かって左:筆者
スキー・ドクターを頼まれる
午後3時半過ぎに中村屋に帰った。玄関にあるテーブルで、お茶をご馳走になっていると、中村屋の主人(Nさんとしよう)が出て来られた。彼は数軒ある燕温泉旅館組合の組合長で、国体(国民体育大会)の成人スキー回転の部で2度優勝している。2度優勝した人はNさんだけだという。そのため、スキー愛好者の間では超有名人である。
「実は先生にお願いがあります。今年11月に、燕温泉に約700メートルのスキーリフトが完成する予定です。リフトが出来ると、泊まり客は多くなるし、赤倉から遊びに来る人も多くなります。そうすると、怪我人も病人も多くなります。そこで、先生にスキー・ドクターをお願いしたいのですが・・・」
そこで、期限を聞くと、11月中旬から4月中旬までの約5ヶ月間だと言う。5ヶ月間を1人のドクターが勤務するのは到底無理なので、ドクターを1週間で交代するなら可能性がある。東京に帰ってから、上司と相談し結果を電話します。ということにした。
東京女子医大に帰り、恩師の榊原先生に相談すると、ドクターを1週間交代でよいなら引き受けよう。私(榊原)も年に3,4日なら行けるだろう。この結論を中村屋の主人Nさんに直ぐ電話で報告した。NさんもOKなので女子医大心研外科で燕温泉のスキー・ドクターをすることが決まった。
診療の準備
10月下旬になると診療所の準備で忙しくなった。診療所の開設の申請と許可はNさんに保健所に行って取ってもらった。
私たちは診療に必要な器具や薬を集めた。腹痛,下痢、風邪の薬,注射器,メス,持針器、これらを滅菌消毒するシンメル・ブッシュなどなど集めて、大きなダンボール箱で燕温泉に発送した。
私はリフト運転開始の直前に燕温泉に行き、6,7軒ある旅館の主人に集まってもらい、旅館側の要望を聞き、また、私たちの要望をすり合わせた。診療室は中村屋旅館の2階。診療時間は午前9時から午後5時まで。使用した薬代、傷の処置代などは健康保険の金額の2割くらい徴収するなどを決めた。