第30話  夏はヨット、冬はスキー・ドクター 【part3】

スキー・ドクターの仕事

私の勤務した時のドクターの仕事をお話しよう。8時くらいに朝食を済ませるとすぐ、シンメルブッシュで注射器,メス,ハサミ,持針器、縫合針など処置に必要な器材を消毒し、これらを消毒済みの金属の箱に保存する。これに4,50分かかるので丁度診療時間になる。

患者さんが来ないと、腕章をつけてドクター・パトロールに出発する。腕章があるとリフトが混んでいても優先的に先頭のリフトに乗れる。診療所に患者が来院すると、大きな拡声器で 『ドクター!患者さんが来院しました。診療所まで至急帰って下さい』と呼ばれる。急遽、診療室まで戻る。患者さんの多くは、風邪,腹痛,下痢,軽い足関節の捻挫であった。

肩関節の脱臼を雪の上で整復

ある日、拡声器で『ドクター! xx谷の入り口で、肩関節を脱臼した人が居ます。至急,直行して下さい』と大声でアナウンスがあった。

その時は、正月休みだったので、ドクターを2人にしていた。私と同級生のH君は直ぐ直行した。30歳くらいの人で、周りに2,3人の友人が心配そうに取り囲んでいた。確かに左肩関節の脱臼であった。患者さんの話では2度目の脱臼であるという。

私とH君は、患者を運ぶのにはスノー・ボートが必要だ。それを取りに行くと時間がかかる。雪の上で整復しようと意見が一致した。自分のスキー靴を脱いで、その足を患者の左の脇の下に入れ、その足で左上腕骨を上に押し上げるように力を入れ、同時に患者の上腕を胸の内側に引き寄せた。梃子の原理を応用した。ポキンという感じで、上腕骨骨頭が肩甲骨の関節窩にすっぽり入った。これで患者の痛みはすっかりよくなった。

患者さんの友人に頼んで患者の左肩を動かさないようにし、患者の右腕を友人の首に回すように支えて下山すること、暫く左肩を動かさないなどの注意をしてから下山させた。

関温泉へ往診

ある日、朝食を終えドクター・パトロールに出かけようとしていると関温泉のM旅館から往診依頼の電話が掛かって来た。M旅館の主人の話によると、“昨夜から、30代の男性のお客様が40度を越す熱が出て、苦しそうに唸っています。関山の医院に電話したのですが、午前中は外来診察のため往診はできない。往診は午後3時から4時になるとのことでした。それまでお客様を待たせるのは気の毒なので、是非往診をお願いしたい”とのことであった。診療所の中村屋の主人に相談すると、“是非往診に行って上げて下さい”とのことなので私は直ぐ、必要と思われる“薬、注射器、聴診器“などを充分に用意して、スキーで関温泉に向かった。燕温泉から関温泉までは、約3.2キロメートルで、その途中に七曲がりという急坂の坂道がある。ここを順調に滑り降りれば、40分前後で関温泉に着く。その日は晴天であった。M旅館に着くと、旅館の主人、奥さんに温かく迎えられた。患者さんの部屋に入ると、患者さんは熱のために真っ赤な顔をしていた。熱は体温計で40度を越えていた。扁桃腺が真っ赤に肥大していた。幸い聴診器で異常な胸部の呼吸音は聞こえなかった。腹部の触診,聴診でも異常はなかった。そこで、鎮痛解熱剤の肛門座薬,解熱剤の注射、抗生物質などを投与し、約1時間患者の様子を側で観察した。患者はうとうとと眠り始め、1時間後の体温は解熱傾向にあったので、3日分の薬を処方した。旅館の主人たちに感謝されながらM旅館を後にした。

この日は晴天で、まだ昼どきだったので、“折角来たのだから関温泉スキー場を滑ってみよう”と中・上級のゲレンデを滑ってから燕温泉に戻った。

燕温泉の中村屋の主人たちにも感謝された。少し疲れたが、心地よい疲れであった。

雪崩(なだれ)に巻き込まれる

これは私の担当の時ではなく、降雪の多い2月のほかの担当ドクターの話である。

燕温泉の旅館の従業員5名で関温泉からの帰えりの途中で“なだれ”に巻き込まれた。幸い2名は自力で1メートルくらいの雪を掻き分け脱出できたが、3名は全身雪に埋まってしまった。脱出した1名は急いで燕温泉に急報し、“なだれ”に遭難し、3人が生き埋めになっていることを報告し、1名は見張り役で現場に残った。報告を聞いて、燕温泉の壮年の人達(女性を含めて)は全員2メートルの竹竿とスコップを担いで現場に向かった。ドクターも用意できる薬や注射器、注射アンプルなどを持って、救助隊に同行した。夕暮れなので、外気は凄く寒い。外気に触れると注射アンプル内の液は凍ってしまうので、胴巻きに入れて温めた。

救助隊は現場にいた見張り役から、埋まっている人達の位置がほぼ分かったので、隊伍を組んで、その周辺の雪を竹の棒で刺して、組織的に探索した。救助隊員は雪崩に遭遇したことのある人、或はもう既に何回か救助の経験のある人達だったので、次々と遭難者を掘り起こした。全員無事であった。

ドクターも山形出身の人で、雪崩救助の経験があった。腹巻きから注射アンプルを取り出すと、外気の寒さで注射液が凍ってしまうので、彼はアンプルを口の中に入れ、飴をしゃぶるように、口の中で温め、遭難者が掘り起こされると直ぐ、口の中からアンプルを取り出し、注射器に入れて、注射したという。

燕温泉の人達は全員無事に救出されたので、ドクターもお礼を言われたという。

帰りの七曲がりの急坂で複雑骨折

これは、武蔵野YMCAの青年部10数人が、燕温泉でスキー合宿した時の付き添い医師をした時の話である。3泊4日の合宿が終わり、帰り道の出来事である。

YMCAのリダーとスキー指導員は全員を集めて、「帰りはスキーが少し上達したので慢心し気が緩んで、怪我をすることが多い。特に七曲がりの急坂は注意して下さい。1度で曲がり切れないと思ったら、制動をかけるか,わざと転んで、スキーの方向を直してから滑って下さい。昨夜は新雪が降ったので、新雪に突っ込まないように注意して下さい」と忠告した。

スキー指導員が先頭,リーダーが真ん中、私は最後尾を滑った。七曲がりの最後の下りの急坂に差し掛かった時、30代の男性が雪道の軌道を外れて新雪の方に勢いよく突っ込んで行った。これは危ないと私が思った瞬間、彼は大きく飛び跳ねて、頭から新雪の中に飛び込んだ。“あっ”と思った瞬間、上体は頭から腰まで新雪の中に突っ込み、両足は新雪に、ほぼ直角に天を向いていた。彼の右足のスキーは180度回転してスキーの先は後ろ向きになっていた。このスキーの回転の仕方では、下腿か大腿の骨折だと直感し彼の所に直行した。

すぐリーダーも指導員もやって来た。まず両足のスキーを外し、ブラブラな状態の足を支えながら、新雪の中から彼の上体を起こした。彼は「痛い!痛い」と叫んでいた。そこで、鎮痛剤を飲ませ、指導員に関温泉に行ってスノーボートと副木と包帯を借りて来てもらった。ボートに乗せてから、骨折した右下腿を副木で固定した。そして、指導員がボートの紐を腰に巻いて制動をかけながら、関山駅に向かった。駅で事情を話すと、4人掛けの椅子の両側にまたがる板を貸してくれたので、東京行きの列車の椅子と椅子の間にその板をのせ、彼の両足をその板の上に乗せて座らせた。

上野に着くと、すぐ東京女子医大の整形外科に運んだ。X腺検査の結果,彼の右下腿の2本の骨は何カ所か骨折しており、いくつかの骨片になっていた。

治療には長時間掛かると整形外科医から話があった。彼の入院は6ヶ月くらいに及んだ。それでも松葉杖で退院することが出来た。

私がスキードクターをしていて、もっとも重症な症例であった。

スキードクターをしていると、思わぬ楽しみもある。

ある夜,岩戸や旅館に遊びに行った。その旅館の主人と私は仲良しになっていた。その日、その宿に20人のA学院大学の男性スキー部員が合宿していた。その部員たちとも、直ぐ仲良くなった。彼らは明朝、全員で妙高山に登り,一気に滑り降りる訓練をするという。私は“骨折をしないように気をつけていってらっしゃい”と元気づけた。すると、キャプテンが“先生も一緒に滑りませんか?”と誘ってくれた。彼らはスキー部なので、指導員,準指導員、一級の腕前の人達である。私は遠慮したが、部員たちは全員で“ドクター一緒に行きましょう”と誘ってくれた。幸いなことに、この時は冬休みのため、スキードクターは2人であった。相棒と相談して、私は妙高登山と滑降に参加することにした。弁当は岩戸やでつくってもらった。

部員たちは“今日はドクターが一緒だから、何があっても安心だ”と言っていたが、私は初めての妙高滑降なので“私の腕前(スキーの技術)で大丈夫かな!?”と不安でもあった。

この日は晴天であった。

部員は1列に並び、キャプテンが先頭,私はしんがりの1人前で、しんがりは副キャプテンが務め、副キャプテンが何くれと私の面倒を見てくれた。妙高は2454メートルだが、約2000メートルのところまで、幅はそれほど広くないがゲレンデになっていた。隊伍を組んで、ゲレンデの最高部に進んだ。新雪は無かったので、ラッセルの必要はなかった。そこまで2回ほど小休止を取り、3〜4時間かかって最高部に到着した。

周囲の山々は、深い雪に覆われ。夏、妙高山に登った時とは様相が全く変わっていた。キャプテンが山々の名前を紹介してくれた。

ここで昼飯を食べ、少し休んでから、滑走の準備を始めた。部員の約半数は妙高の滑降は未経験であった。キャプテンは、“かなり急傾斜の斜面があります。そこを直滑降で滑らないように! 特に妙高山を滑るのが初めての人は、慣れるまで充分注意するように”と訓示をして、隊伍を組んだ順番に滑走を始めた。副キャプテンが私を誘導するように私の少し前横で、いつも私を視野に入れて滑ってくれた。かなりの急斜面を、初めのうちは斜滑降でゲレンデの端まで行き、スキーの向きを変えて、ゲレンデの反対側まで滑る安全な滑り方をした。

前を滑る部員の滑り方を見ながら滑るうちに段々と回転の要領が分かって来た。そこで、ある程度の急傾斜の坂も、大きなS字状に滑ることが出来るようになった。副キャプテンも“その調子!その調子!”と励ましてくれた。

4〜50分滑ると、赤倉観光ホテルの赤い屋根が見えて来た。滑っている部員たちも歓声を挙げた。

観光ホテルで温かい軽食を食べ、1時間くらい休んでから、燕温泉に帰った。

私はこの1日で随分スキーが上手になったような気がする。上手な人の滑り方を見ながら滑ると、その滑り方を自分なりに取り入れるからであろう。

腕章をつけてパトロールをする。(右側筆者)

パトロール中の筆者

夏のバンガローに暑くて泊まれなかったのが幸いして、燕温泉のスキードクターを依頼された。

このスキードクターは、その後20年くらい続いて、若いドクター達の冬の楽しみになっていた。私は自分の事情で数年でスキードクターを辞めたが、人生の中でもスキーの楽しさは大きな位置を占めている。もちろん、夏の野尻湖でのヨットもよい思い出である。