第47話  —Viking Olov Bjoerk教授— 【part4】

六本木モンシェルトントンでの夕食

夕食は六本木のモンシェルトントンに彼らを招待した。何が食べたいか希望を聞くと、“天ぷら”といっていたが、日本食では天ぷらなら食べられると解釈した方がよいとある友人から教えられた。欧米人はやっぱり肉のほうが好きなので焼肉にした。

私が夫人にビールにしますか日本酒にしますか聞いたところ、 “both” という答えがかえってきた。これは、よほどアルコールに強い人かと思ったが、彼女は外国に旅行した時に“どちらにしますか?”と聞かれた場合、いつもbothと答えるのだという。2つを自分で試してみないと、どちらが自分に合うか分からないからだという。それを聞いて、私は一理あるなと思った。

シェフが、最初にアワビを焼いてくれた。シェフが夫人にアワビの青色の“きも”を勧めると、臓物はだいきらいと言う意味で、NOといって大きく手を振っていた。つぎに焼肉が出た。彼らは“日本の焼き肉は美味しい、おいしい”と2人とも満足していた。そして今日の歌舞伎の話で盛り上がった。

3度目に来日の時、ゴルフに誘う

Prof.Bjoerkはゴルフが好きで、腕前も上級だと聞いていた。ゴルフに誘うと彼は大変喜んでOKであった。

次の日曜日は、関東地方の外科の教授のコンペが開かれることになっていた。その幹事に彼の参加をお願いするとOKだったので彼、榊原先生、私と3人でゴルフ場に向かった。

都心部から比較的近いゴルフ場だった。幹事の計らいで、私たち3人で最初にスタートした。彼は背も高いし、体格も立派なので、真っすぐに、ドラコン1位くらいの距離まで飛んだ。18ホール回って、ゆっくり風呂に入り、パーテイ会場に行った。幹事達はスコアーを計算していた。幹事達は“Prof.Bjoerkが優勝です。”と彼を祝福した。彼も満面の笑みであった。遠方から参加した人への、幹事達の“粋な計らい”であった。

2、3年後に榊原先生はヨーロッパの学会の帰りにスエーデンに寄られた。そこにゴルフのコンペが用意されていた。榊原先生の帰国談では、優勝したのではなく「優勝させてもらったよ」とのことだった。

Prof.Bjoerkの経歴を簡単にお話ししよう。

1918年10月スエーデンで誕生。(私の恩師・榊原仟先生1910年10月、私が1926年5月誕生だから、榊原先生と私の丁度真ん中で、私とは8歳離れている。)

1958:Uppsala大学で胸部心臓外科のhead, 

1962:Karolinska大学で胸部・心臓血管外科主任教授を27年勤めた。

若い時代は結核患者の肺切除術と胸郭整形術を1500例以上行なっている。

心臓に関する主な業績

1944:大動脈縮索症の手術に世界最初に成功

1948:“イヌに於ける人工肺血液による脳環流”を発表。スエーデンに於ける開心術の初期の発展に貢献した。

1954年7月16日:人工心肺装置を用いた手術に世界で2例目に成功した。

註 [この履歴書には、成功した心臓の疾患名がないので、芝浦スリーワンクリニック院長・望月吉彦博士に調べて頂いた。先生はスエーデンの原著まで読まれ、次の事実が判明した。

「患者は42歳の女性。1954年6月16日、低体温法を併用した体外循環法を用い摘出した。著者はC.Craford , Noreberg , Ake Senning(完全大血管転移症に最初の手術法・Senning法で有名)の3名。この文献には、1954年に42歳女性の左粘液腫の手術に低体温法併用の体外循環で摘出に成功したことが報告されており、人工心肺装置の図と詳細な説明が載っている。(Acta Chir Scand1954,Mach,28:12、220~245 )。また、J Card Surg 2003.18 -564~572によると、この患者は2002年まで、腫瘍の再発を見ずに生存したという。

この2つの主要な文献を見ても、Bjoerkの名前は見当たらなかった。これは筆者の憶測であるが、当時彼は人工心肺担当としてこの手術に参画したのではないかと思っている。飽くまで推測である。」

ここで、1951年〜1953年の人工心肺装置を用いたアメリカ、カナダの臨床例をみると、

Dennis           2例  フイルム型    1951年

Helmosworth    1例  気泡型      1952年

Gibbon           6例  フイルム型    1953年

Dedrill           1例  Autogenous         1953年

Mustard         5例  猿の肺      1951年〜`53年

Clowes     3例  気泡型      1953年

以上、18例のうち成功は、Gibbon(1953年)のASD1例のみである。

こう見て来ると、1954年Craford˜の行なった左心房粘液種の摘出手術が、第2例目となる。(2つの文献の人工心肺装置の図と説明は載っているが、装置の名称はない。しいて名前をつけるなら 回転円筒型気泡型肺 (rotating  cylinders )でよいと思われる。)

 

Dr.Crafordが世界で2例目に成功した人工心肺装置の設計図

 

人工肺 

Bjoerkの業績を続ける。

脊柱の右側の背中から直接長い直針(管)を穿刺して左心房圧を測定するBjoerk法を開発。(この方法は、当時女子医大心研でも40例くらい行なわれた。)

438の論文を発表。その中には、心筋保護法。閉塞性心筋症。右心房・三尖弁経由心室中隔欠損症の閉鎖法。Fontan法のmodification。房室中隔欠損症の手術法。1970年冠状動脈バイパス手術、1972年には内胸動脈を使用したACbypassにスエーデンで初めて成功の論文などが含まれている。

1969年にWada-Cutter弁にヒントをえて、弁葉の円板がDelrin製のBjoerk-Shiley弁を開発し、1971年にtilting-disc弁として初めて臨床に応用し成功した。1、2年後にDelrin製の円板をPylorite Carbonに変えた。また、弁口輪部の金属製のストッパーを3度改良した。

私は1度目と3度目の改良弁を使用した。現在でも40年以上の生存例を何例か持っている。しかし,2度目の改良弁には,弁口輪部からスットパーの金属がはずれ,弁輪の逸脱する症例が見られた。1977年のBileaflet弁が開発され,1980年ころから、Bjoerk-Shiley弁は製造も使用も中止された。

Viking Bjoerkは努力家で,統治能力が優れ,精力的で、熱烈な外科医である。生涯を通じ母国と彼の家族を愛した。彼は,新鮮なそよ風のSailingを楽しみ、彼の森林で成長する木材の観察を楽しんだ。彼は長い経歴の間に,世界のmedical centerや世界中の会合に出席し、講演を行い、また心臓胸部外科について勉強した。彼はAmerican Association of Thoracic SurgeryやAmerican College of Cardiologyなど多数の学会の会員に任命された。

と、私の読んだ履歴書には、以上の如く書かれている。

昭和61年9月、私が会長として主催した第24回日本人工臓器学会大会の招請講演演者としてお招きした。その時の肩書きは、

Professor Emeritus Karolinska Inst. Stockholm,Sweden

Director of Research, Heart Inst. Eisenhower Medical Center Rancho Mirage(アメリカ)

演題名は「人工心臓弁の過去・現在・未来」であった。

招請講演の後、壇上で恒例の賞状と記念品を差し上げた。彼は私のために用意しておいたスエーデン名物の小さい花瓶をくださった。包装紙にはTo old friend Tatsuta Arai from Viking O Bjoerkとぺんでサインしてくれた。私は今でも大切に家の飾り棚に飾っている。

註)1.  Eisenhower Medical Centerは34代米国大統領Eisenhowerを記念して1969年に建てられた非営利の病院で、アメリカの最も美しい20の病院のなかに入っている。BjoerkがいつからDirectorになったのか定かではないが、若し、設立時になったとすると51歳なので若過ぎる。設立の15年後くらいではなかろうか。それにしてもSwedenから呼び寄せられたのだから、素晴らしいことである。私が慈恵医大在任中にProf.BjoerkがDirectorに就任したことを知ったので、教室のS講師が超音波学会でアメリカに行く機会に、S講師に私の小さなお祝いを届けてもらった。彼は大変喜んでいたとの報告をもらった。

註)2. ゴルフの“アイク・ルール”

Eisenhawerというと次のような思い出がある。Eisenhawer大統領は晩年心臓病に倒れた。White博士の懸命な治療によって一命を取り留めた。彼はGolf愛好家で、病後も続けていた。

Golfは昔から突然死が多いと言われ、特にパッテイングのときの集中力を高める時は、精神的に重圧がかかり、心臓に大きな負担がかかると言われている。Golf好きで、心臓に持病のあったEisennhawerを心配して、主治医のWhite博士は次のような提案をした。それは、「パットをしないGolf」である。球がグリーンにのれば自動的に2パットと計算する。彼はこれを受け入れて、Golfを楽しんだ。これは、Eisennhawerのニックネーム、アイク入れて“ アイク・ルール”と呼ばれた。

私の若い頃、ほんの一時期“アイク・ルール”のプレーが流行ったことがある。私もこのルールでゴルフをしたことがあるが、なんとも味気ないものであった。

Prof.Bjoerkと私の交流は20年以上に及んだ。長い間、仲良くして頂いたことを、心から感謝している。

『スエーデン語では、Bjo oの上に点々・・のウムラウト記号をつけるが、私のコンピュータにはウムラウト(umlaut)記号がないので、そのときはoeで代用するという決まりがあるので、Bjoerkとした』