1951年〜1953年の欧米の人工心肺装置を用いた臨床成績
(ここから暫くの間、1950年ころの欧米の人工心肺装置を用いた臨床成績と1954年ころのLillhei教授の人工肺の開発の研究を辿リ、再び榊原先生についてお話をする)
日本の於ける低体温法による開心術の成功は1954年であるが、欧米では人工心肺装置による開心術の臨床が、すでに1951年に行なわれている。1951年〜1953年の4年間の18例の臨床例の成績を見ると、Dennis 2例(フイルム型)、Helmosworth 1例(気泡型)、Gibbon6例(フイルム型)、Dodrill1例(Autogenous)、Mustard5例 (サルの肺)、Clowes 3例(気泡型)計18例で、生存はわずかGibbonが1953年に行なった心房中隔欠損の1例のみであった。
この当時は人の循環血液量と同じくらいの大流量回転(約4〜6リットル)を目指した為,装置は巨大で、操作は複雑、また巨額の資金が必要であった。それに生存例は心房中隔欠損症(ASD)の1例のみであった。ASDなら人工心肺装置がなくとも、低体温法だけで手術は成功すると、人工心肺装置に対する研究は一時期停滞していた。
このころ、Lillhei教授のもとに朗報がもたらされた
英国のAndreasenとWatoson(1952)は、イヌを用い上大静脈と下大静脈を結紮する実験を行い、イヌの心臓が停止する時間と呼吸が停止する時間を調べた。全てのイヌが2〜4分の間に心臓も呼吸も停止した。ところが、同じように上大静脈と下大静脈を結紮したイヌが30分間生存した。
そのイヌを解剖してみると、腹部と胸部の静脈血の一部を集めて上大静脈に流入する奇静血(V. Azygos)より末梢で結紮したのに気がついた。そこでAndreasenらは、V. Azygosの血液だけで、イヌが30分生存したという実験結果を発表した。奇静脈の血液量は、実験の結果わずか8〜14cc /kg /分で、通常の循環血液量の10分の1くらいの少ない血液量であった。彼らはAzygos Factorという題で論文を発表した。
Minesota大学のLillhei教授は、V. Azygosの流量を多数のイヌを用いて研究した。
その結果、Intracardiac Surgery at the University of Minesotaの解説によると、
Azygos vein flow= 8 to14 cc / kg body weight / minute
Basal or Resting Cardiac Output = 100 to 160 cc / kg body weight /minute であると報告した。
分かり易く述べると、基礎的あるいは休息時の心博出量は100〜160cc / kg体重 / 分であるが、Azygos vein flowは8〜14cc / kg体重 / 分で、休息時の心博出量の、10分の1である。
この実験まで莫大な血液流量が必要と考えられた人工心肺の流量が、わずか10分の1の流量でイヌは30分なら生存するという、人工心肺装置を一気に実現可能にした画期的な原理である。
矢印はV. Azygosの血液が上大静脈に流れ込む所を示す。上大静脈、下大静脈はターニケットにより血流は遮断されている。
Cross Circulation ( 交叉循環法 )
Minneapolis MinnesotaのDr.Lilleheiらは、このAzygos factorの論文に興味を持ち、精力的にこの研究の実験を行なった。その結果、Azygos flowは8〜14cc/min/kgという小流量であることを確認した。そして、彼は奇想天外な方法を考案した(下記図8)。すなわち、父親の股動脈に長いチューブを挿入し、このチューブの他端を患者である子供の大動脈に挿入する。次いで、子供の上大静脈と下大静脈に長いチューブを挿入し、このチューブの他端を父親の股静脈に挿入する。この循環回路によって、父親の動脈血は子供の大動脈から子供の全身を環流し、子供の静脈血はチューブによって父親の静脈に環流する。そして、チューブの中央にポンプを置き動脈の流入と静脈の脱血を助けた。当時、”人工肺 ”は完成していなかったので、父親の肺を利用した方法である。この方法をCross Circulation(交叉循環法)と名付け1954年3月から55年7月までに45例(心室中隔欠損症27例、Fallot四徴症10例、心内膜床欠損症5例,その他)に手術を行なった。その結果、死亡17例 。 生存率63%と51年〜53年の18例のうち1例生存と言う成績に比べて,わずか2年のうちに驚くべき好成績をおさめた。
1955年に心臓外科の進歩に貢献したことが讃えられAlbert Lasker賞がLillheiらに贈られた。
図8 交叉循環法の図
図:左は父親の子供である患者。右は患者の父親。
父親の動脈血(赤色)はチューブにより子供の大動脈に送血され、患者の上下大静脈に挿入されたチューブから父親の股静脈(青色)に環流する。
DeWall-Lilleheiの気泡型肺
1955年、LillheiとDeWallは気泡型肺の研究を始めた。気泡型肺の難点は微小気泡の除去であった。この微小気泡が,患者の血管の中に流れて行くと“ガス塞栓”を起こす。
彼らが除胞に苦心して最初に作った人工肺は
I. 患者からの血液と酸素をミキシングする混合管(垂直に起立)
II. 網状のシリコーン樹脂を入れた脱気泡管(上から斜め下に傾けてある)
III. 上から下に2回とぐろを巻いた螺旋状貯水槽(血液が下降する際にここでも除泡される)の3つの部分から出来ている。これに、いくつかの改良を加え、55年5月に臨床に応用した。初期の7例は全て成功した。
この気泡型肺はDeWall-Lillehei気泡型肺と呼ばれ、使い易さ,安価、組み立てと点検が簡単などの利点が多く、急速に世界に広まり,直視下心臓手術の発展に大きく貢献した。
De Wall , Lillheiの人工肺
混合管の中に、患者の股静脈からチューブで取り出した静脈血と酸素を注入して静脈血を泡立てて酸素化血とする。その酸素で泡立った血が脱気泡室に入るとシリコンの網(ネット)と脱気泡室の傾斜により、空気は斜め上方に脱気される。脱気された動脈血は螺旋状の貯水槽を通って患者の股動脈に送られる。
脳と心臓が30分の遮断に耐える必要最低流量の研究(女子医大)この実験研究から東京女子医大式イルリガートル気泡型肺を開発した。
ここから、再び、榊原先生に戻る。
榊原先生の命令で、私達(私と先輩2人)もAzygos—factorの追試実験をイヌを用いて行った。Lillheiによる研究ではAzygosからの流量は 8〜14cc / kg / 分であったが、私たちの研究では少し多く 20cc /kg /分くらいであった。この流量は通常の血液循環量の約10〜8分の1くらいの小流量であった。
そこで、図に示す如き(図10)東京女子医大式イルリガートル気泡型肺を作成した。
図10 東京女子医大式イルリガートル気泡型肺
人工肺と書いてある所がガラス製のイルリガートル(輸液,輸血用に用いられていた)。イルリガートルの上部にチューブで引いて来た静脈血を上からシャワー状に落下させ、静脈をイルリガートルの底部に貯め、溜った血液にチューブとガラスの管で引いて来た酸素を流して、静脈血を泡立てて酸素化する。泡立った酸素化血のガス抜きを途中に置いて脱気する。
この脱気された血液をチューブで患者の大動脈に注入する。
本邦における人工心肺装置による心臓手術の成功
1956年春に、阪大(曲直部)、女子医大(榊原),東大(木本)、慶応大(井上雄)の順で人工心肺装置を用いた心臓手術に成功した。その半年後の胸部外科学会の成績を見ると、慶応大4例中2例生存、東大6例中3例,阪大14例中8例(生存率57%)、女子医大19例中16例(生存率84%)であった。東大と阪大はアメリカより輸入したDeWall- Lilleheiの気泡型肺,女子医大は独自に開発したイルリガートル気泡型肺、慶応大も独自の回転多翼型気泡型肺を用いた。
この時の女子医大の成績は群を抜いた好成績であった。榊原先生は「現在の気泡型肺の酸素化効率と回転流量と回転時間にまだ問題があるので、私は安全のうえにも安全を期して、人工心肺の長所と低体温法の長所を組み合わせて併用し、ほぼ満足できる結果がえられた」と述べている。
“ 安全の上にも安全をきす ”というのが、榊原先生のモットーであった。
国産の医療機器を育てる
榊原先生は国産品を出来るだけ使用された。“ 外国製の製品の性能が100で、国産品が80だとしても、私は国産品で勝負する ”という信念を持っておられた。当時の国産品は、麻酔機でも心電計でもレントゲンも持針器,縫合針に至まで、外国製品とはかなりかけ離れ、見劣りする物ばかりであった。先生は無理をしてでも国産品を使い、日本のメーカーを世界のレベルまで引き上げようとされた。
今でこそ外国製品と太刀打ちできる優秀な機械が開発されているが、これは榊原先生のように国産品を大切にされた方がおられたからである。
ようやく僧帽弁狭窄症の手術が評価される
榊原先生が最も喜ばれたのは1961年の第25回日本循環器学会の『心臓手術の予後』というシンポジウムの時である。このシンポジウムの時、東大の循環器内科の権威であった小林教授が僧帽弁狭窄症(MS)の効果を認める発言を、初めてされた。それまで小林先生はMSの手術適応と手術の効果について極めて厳しい発言をされていた。榊原先生には仇敵とも思われた東大の同級生であった小林先生がMSの手術の効果を認めたのだから、この発言を榊原先生は大変喜ばれた。
榊原先生はシンポジウムの終わりころ,フロアから大きな声とともに手を挙げて発言を求められた。フロアのマイクの前に先生が行こうとすると、座長が「壇上で発言をして下さい」と要請した。先生は階段を使わずに、壇の中央に手をついて壇上に跳び上がられた。息が弾んでいたが「私は長年苦労して手術した僧帽弁手術の効果が小林先生に認められ、こんなにうれしい事はありません」と発言された。
1952年から9年間、心血を注いで手術した“僧帽弁狭窄症の手術の効果”が、ようやく内科側にも認められた。榊原先生にとっては感激の学会であったと思われる。
東京女子医大付属日本心臓血圧研究所の完成
1965年に女子医大付属日本心臓血圧研究所の病院部門が完成した。病床約400床,当時としては珍しい冷暖房完備の病院であった。勿論,設備された医療機器は最高水準の機器であった。全国から患者さんが押し掛け、入院待機患者が2000人と言われた時期もあった。
3年後の68年に心研研究所が完成した。この研究所は女子医大の研究者のためだけでなく、日本全国各施設からの公募で、優れた循環器疾患の研究のために門戸が開かれていた。研究に必要な経費は、全て心研の研究費でまかなわれた。制約はただ一つ、論文発表の際,論文の最後に“本研究は日本心臓血圧研究所で行なった論文である”と一行付加するだけでよかった。
これは榊原先生が若い時、苦労したご自身の経験を生かして、循環器病の研究者なら誰でも、研究費のことを考えずに研究できる施設をつくられたもので、私立の研究所としては大変珍しかった。
敵(青医連の会員)を自分の城(日本武道館)の中に入れる
1969年,先生は第69回日本外科学会総会を会長として主宰された。
丁度このころ、大学医学部の1) 講座制の解体、2)医局の解体,3)インターン制度廃止などを主張する青年医師連合(青医連)運動が最も烈しい時であった。その日、主会場であった日本武道館の入り口前では、日本全国から集まった数百人の青医連会員による『 外科学会総会をブッツブせ!!』のシュプレヒコールが嵐のように繰り返し起こっていた。 そこで、榊原先生はご自分の会長講演の時間をさいて、メイン会場である日本武道館を彼らに提供し、青医連委員長1人,副委員長4人に発言の機会を与えともに、外にいた青医連会員に無料で武道館の座席を提供した。先生は委員長達5人に壇上で、彼らの主義・主張を発言するよう、うながされた。委員長だけ壇上で15分間発言をしたが、4人の副委員長は、1万3千人入る会場に“おじけずいた”のか、フロアにある追加発言用のマイクを使って一人5分程度の発言をした。入室していた青医連会員はスローガンを連呼するか、発言の後、大きな拍手が起こるかと思っていたが、散発的な拍手が起こる程度で、あっけないほど平穏に青医連の発言は終わった。その後、委員長らは榊原先生に挨拶をし、数百人の会員とともに場外に引き上げた。その後3日間、シュプレヒコールもなく、その他、何のトラブルも起こらず、学会は成功裏に全日程を無事終了した。
このことを、例えて言うならば、“いくさ”のとき、敵の総大将,副大将と兵士たちを自分の城に招き入れたのと同じである。烈しいシュプレヒコールを繰り返していた人達だから、どんな不測の事態が起き,会場が大混乱することも予測された。
しかし、榊原先生の懐の深い、肝っ玉の座った雅量により、青医連会員は先生の気迫に負けて、学会会期中、鉾先を収めたのである。
前進!また 前進!!
1973年、榊原先生は女子医大の定年の前に、筑波大学副学長になられた。その1年後,学長選挙の最中に、国立がんセンターで肺がんの手術を受けられた。退院2ヶ月後に女子医大・榊原同門会が開かれた。病後のため、先生はかなり痩せ、声も嗄れていた。壇上に立った先生の第一声は、「榊原はまだ生きています」と絶叫されるように叫ばれた。私は知らなかったが、榊原先生が亡くなったという誤報が流れていたのかも知れない。続いて、やや落ちついた声で「 私はコロンブスを尊敬している。彼は新大陸がなかなか見つからず、船員達は戻ることを主張したが、彼は尚、前進を命じた。そして、あまたの困難を乗り越え、ついに新大陸を発見したのだ。私はこれからも前進して行く」と挨拶された。その後,先生は循環器専門の榊原記念病院を創設し、院長になられた。
先生の生涯は前進また前進の連続でありました。
ヒトは死ぬべき時に、死ぬのが良い。
その後、肺がんが再発し、病状が重くなったとき、『 ヒトは死ぬべき時に死ぬのが良い。これは、運命であり、神の摂理である』という言葉を残された。
■あわてんぼう!
■笑い上戸!趣味(ゴルフ。手品。絵を画く)
先生は学問や手術の時は厳しかったが、幼少時から“あわてんぼう”であったという。その1つは、最初に述べたように、東京女子医専と帝国女子医専を間違えて行くようなユーモラスのところがあった。
ある時(人工心肺装置による開心術が軌道に乗った頃)、2人の医局員を連れて外国の学会に行かれた。その時、空港でチュウブ入りのポマードと歯磨きを買われた。翌日、学会の会場で随行した医局員が先生の背広の肩から背中にかけて、白い“ ふけ ”が一杯ついるのに気がついた。随行した医局員が「先生,今日は“ ふけ ”が多いですね」というと先生は“ あ !?”と言ったそうである。
その種明かしは、歯磨きをポマードと間違えて、頭につけたのである。歯磨きの水分が少なくなり、“ ふけ ”のように、細かくなった白い歯磨きが落ちたわけである。
先生は若者と楽しむのも好きであった。医局員がマンボウの踊り方を先生に教えた。翌日,先生は足関節を太い絆創膏で固定して出勤された。家に帰ってから、早く上手になろうとマンボウの踊りを練習し、滑って捻挫されたのだという。
先生は手品、それもかなり手の込んだ手品を医局の忘年会や女子医大の卒業生の謝恩会で披露された。中国服と帽子、八の字髭をつけて、音楽のリズムに乗って、身振り,手振りよろしく出て来られる。これだけで聴衆は“やんや”の拍手喝采である。その時の先生は本当に楽しそうであった。手品もかなり高いレベルのものであった。
ゴルフもお好きで、スリー・ハンドレッド・クラブという300人しかメンバーのいないクラブのメンバーであった。メンバーは政財界の人が主で、医師は先生お一人であった。ホールインワンをされたこともある。
“ 絵は自分一人で楽しめて、人の邪魔をしない ”と言われて、学会の時などスケッチブックを持って行かれた。二科展に、鬼手仏心(50年)。キリストの見える丘(51年)。紅海を渡るモーゼ達(52年)。手術と人工心肺(53年)と4回続けて入選されている。
先生は学問だけでなく、趣味も一級品であった。
また、笑い上戸であった。あるテレビ局の番組で“ 夫と妻の記録”に出演された。まだ、ビデオ装置がなく、画面はモノクロであった。“ 夫と妻に記録”の表題の後は、直ぐライブ(生放送)であった。先生と奥様が並んで画面に現れた。榊原先生はケタケタ笑っていて、笑いが止まらない。画面を見ている私たちの方が気が気ではなかった。2〜3分くらいと思うが、随分長い時間のように私は思った。先生は緊張すると笑いが止まらなくなると言っておられた。
先生の人格は、あの厳しさと、ユーモラスなところが、上手に融合されている方であった。
先生は “ 広く 大きく さわやか ”に、前進!また前進の人生を生きられた方だと私は思っている。
翻って私は、恩師・榊原先生から実に多くのことを学んだが、私が最も感銘を受けたのは『神これを癒し給う』という精神であった。私は心臓外科医として終生、この言葉『神これを癒し給う』を座右の銘としている。
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本コラムは今回で最終回となります。
日本の医療に多大な貢献をされ、多くの学会の要職を務められた新井達太先生が、2022年9月15日にご逝去されました。
長きに渡り弊社のコラムを執筆し続けて下さった新井先生に社員一同、感謝の気持ちでいっぱいです。
天に召された新井先生の安らかな眠りをお祈り申し上げます。
シミックソリューションズ株式会社
代表取締役 Co-CEO
葛西 恵