宇宙医学とは?宇宙を舞台に活躍する医師「フライトサージャン」についても解説

宇宙医学 フライトサージャン

日本でも宇宙ビジネスの可能性が期待されていますが、「宇宙医学」や「フライトサージャン」といった言葉を耳にしたことはありますか。

「宇宙医学」とは、宇宙で人間の体に起こる様々な変化や影響を研究し、宇宙での健康維持を目指す医療です。そして、宇宙医学を研究し、宇宙飛行士の健康を支える専門家を「フライトサージャン」と呼びます。

宇宙医学は、宇宙だけでなく、私達の日常生活にも大きな影響を与えており、多分野での活用が広がっています。

そこで今回の記事では、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が取り組む宇宙医学研究の最前線と地上への応用例などを紹介していきます。宇宙医学が拓く新たな医療の可能性と宇宙から学ぶ「究極の予防医学」についてもまとめていますので、最後までご一読ください。

1. 宇宙医学とは

宇宙医学は、宇宙空間特有の環境が人体に与える影響を研究し、宇宙での健康と体力の維持を目的とする学問分野です。地球上とは大きく異なる宇宙環境下で、人間の身体がどのような変化を受けるのか、変化に対してどう対処すべきかといった探究を通じ、宇宙空間で安全かつ健康に過ごせる健康管理や治療法を研究します。

宇宙医学は「究極の予防医学」と言われており、宇宙飛行士の健康管理にとどまりません。宇宙環境が人体に及ぼす影響を研究することで、その結果を地上の健康問題の解決につなげています。

1-1.宇宙医学が関わる重要な2つの業務

宇宙医学は主に2つの重要な業務に関わっています。
下記で、一つずつ見ていきましょう。

1.宇宙飛行士の健康管理をサポートする

宇宙医学は、過酷な宇宙環境下で宇宙飛行士の健康を維持し、宇宙でのミッションの成功を支える重要な役割を果たしています。その中核となるのが健康管理運用です。

健康管理とは医学分野だけではなく運動や食事も含まれているため幅が広く、宇宙医学は運動生理学、神経生理学、精神・心理学、放射線防護、環境衛生学、栄養学など多くの分野が関わります。各分野の専門家は、打上前から宇宙滞在中、帰還後まで、3つの段階に応じて宇宙飛行士の健康を継続的にサポートし、宇宙滞在に伴う様々な健康問題に対処します。

宇宙飛行士の肉体的・精神的な健康を維持するために適切な栄養摂取が出来るよう、長期保存可能で栄養バランスの取れた宇宙日本食を開発し、国際宇宙ステーション(ISS)への輸送にも取り組んでいます。

さらに、快適な宇宙生活を実現するため、無重力環境に適した生活用品の開発も行っています。衣類や日用品など、地上とは異なる環境で使用する製品の改良や新規開発を通じて、宇宙飛行士の日常生活をサポートしています。

2.宇宙医学分野の研究開発を推進する

宇宙医学分野の研究開発を推進する取り組みは、宇宙環境が人体に与える影響に対して医学研究の観点から対策を講じることを目的としています。宇宙医学研究では、宇宙飛行士が地球と宇宙を往復する際に起こる生理的変化を観察します。その変化のスピードは地球上での生活と比べて全てのプロセスにおいて短期間で観察することができます。

主な研究内容として、宇宙環境下での生理機能や精神面の変化の調査、健康維持対策の効果検証、将来の長期宇宙滞在に向けた新技術の開発などが挙げられます。地球低軌道を超えたより遠い宇宙での人間の生理学的・精神心理学的変化とその対策に必要な要素の研究開発も進んでいます。

また、国際宇宙ステーション(ISS)では、微小重力環境を利用した様々な医学研究が行われており、宇宙滞在時の健康維持に役立つだけでなく、地上医療への応用も期待されています。飛行前後の宇宙飛行士から収集された医学データに基づき、宇宙環境が人体に及ぼす影響に関する詳細な研究が可能です。

参照:宇宙医学_JAXA有人宇宙技術部門

1-2.JAXAにおける宇宙医学研究の現状と課題

宇宙飛行士の健康管理や宇宙医学研究を進めていくには、様々な課題があります。現状を踏まえながら下記で見ていきましょう。

1.研究データの少なさ

研究の高い壁として、まずは実験機会が限られるということがあります。また、被験者(宇宙飛行士)の数が少ないため、個人情報保護の観点からデータ共有に制限があることや、応募から実施までに長期間を要すること、などが挙げられます。

2.軌道上用医学研究の計画作成プロセス

宇宙医学研究では、軌道上実験機会の確保が難しいため、計画立案が課題となっています。

研究では、機材の搭載、軌道上実験、サンプルの回収までの一連の作業を踏まえなくてはなりません。さらに、国際宇宙ステーション(ISS)に搭載する装置に関わる技術的要件、実験運用中の変化への対応策、サンプル処理と対照実験の実施方法をはじめ、限られた被験者数で有意なデータを取得するための工夫も重要です。

本研究の前に地上でも様々な模擬試験も行われますが、航空機による微小重力環境は25秒ほどしか維持できず、国際宇宙ステーション(ISS)での本実験にそのまま適用することが難しいのです。また、3か月ベットの上で寝たままの状態で過ごすベッドレスト実験も被験者・対象被験者・管理スタッフの費用や人員などの問題が発生するため、頻回には行うことができません。

このように、計画立案をするための様々な実験機会が少ない点が大きな課題になっています。

3.宇宙医学研究用設備・装置の準備と開発

宇宙での医学研究に使用する設備や装置には、搭載安全性の厳しい基準を満たす必要があります。そのため、開発から実用化まで多大な費用と時間がかかります。さらに、複数の宇宙飛行士が交代で操作しやすい設計も必要なほか、宇宙・地上間の輸送手段や宇宙船の保管容量の制限もクリアしなければなりません。

こうした課題に対処しながら、JAXAでは国際宇宙ステーション(ISS)での実験や地上での模擬実験を通じて、宇宙医学研究を進めています。将来の長期宇宙滞在や月・火星探査に向けて、これらの研究成果が重要な役割を果たすことが期待されています。

参照:宇宙医学の背景_JAXA

2. 究極の予防医学としての宇宙医学

宇宙医学はなぜ「究極の予防医学」と呼ばれるのでしょうか。その理由や重要性について見ていきましょう。

2−1.「究極の予防医学」と呼ばれる理由   

宇宙医学が「究極の予防医学」と呼ばれる理由は、宇宙環境の人体に与える変化が、地上の高齢者や長期入院患者が抱える課題・リスクと非常に似ており、宇宙環境ではより短期間で変化が現れるため、効果的な対策を迅速に研究・開発することができるからです。

宇宙環境が人体に与える影響

  • 骨量減少
  • 筋萎縮
  • 放射線障害
  • 精神的ストレス

次の章で、宇宙医学研究の成果が地上の社会生活にどのように還元されているか、具体例を見ていきましょう。

参照:宇宙医学研究の重要性_内閣府ホームページ

2−2.社会生活に広がる宇宙予防医学の成果

宇宙医学の研究成果は、地上の社会生活に様々な形で応用されています。次の表で、宇宙医学の技術や研究が地上社会にどのように還元されているか、具体例を紹介します。

分野

宇宙医学の技術・研究

地上社会への応用

生理対策技術
(生理機能維持)

ベッドレスト実験などの地上模擬試験や宇宙長期滞在による骨量減少や筋萎縮の予防

• 高齢者の健康維持のためのプログラム開発
• 健康増進や予防医学への活用や応用

精神健康管理

• 人間心理学研究
• 心理リスク管理

• ストレス対策
• 不眠症治療
• メンタルヘルスケア

遠隔医療技術
(軌道上遠隔医療)

• 高精細(HDTV)画像診断
• ポータブル医療機器
• 生体機能モニタリング

• 遠隔地医療の普及
災害医療や救急医療

宇宙食の開発
(宇宙日本食)

• 和食の宇宙食化
• 機能性宇宙食研究

• 健康機能食品の開発
• 災害用食品の改良
• 食品安全性の向上

健康管理技術
(地上からリモートによる健康管理)

• 過酷環境下の健康管理
• 長期宇宙滞在時のパフォーマンス維持

• 長時間労働者の健康管理
• 有害環境からの保護
• メンタルヘルスケア

出典:健康長寿ネット『「究極の予防医学」である宇宙医学から学ぶ(大島 博)(第2回)』を参考に当社にて作成 

宇宙医学研究の成果が地上の医療に応用されたわかりやすい例として、骨粗鬆症の予防法があります。宇宙環境では、骨量は1ヶ月あたり12%減少し、骨粗鬆症患者の約10倍の速さで進行することが分かっていますが、この減少率は骨粗鬆症患者の1年間の骨量減少に匹敵します。そのデータから骨粗鬆症治療薬「ビスホスホネート」を宇宙飛行士に主1回、予防的に投与する実験が行われました。その結果、宇宙滞在中の骨量減少を効果的に抑制できることが確認されています。薬剤の投与に加え、適切な食事、運動を組み合わせる事で必要最低限薬剤で骨粗鬆症のリスク軽減を行うことが出来ています。この研究成果は、地上の高齢者医療に直接的に貢献できる好例と言えるでしょう。

出典:「究極の予防医学」である宇宙医学から学ぶ(大島 博)(第2回) _ 健康長寿ネット

3. 国際宇宙ステーション(ISS)での宇宙医学研究

ISSでは、様々な分野で宇宙医学研究が行われています。その中から、特に注目される研究分野と最新の研究内容を1つずつ紹介します。

▼主要な研究分野と最新の研究内容

主要な研究分野最新の研究内容
骨・筋生理学ビスフォスフォネート剤を用いた骨量減少・尿路結石予防対策に関する研究(Bisphosphonates)
心血管・呼吸器系長期宇宙飛行時における心臓自律神経活動に関する研究(Biological Rhythms)
行動とパフォーマンスISSクルー用ヘルメット装着型生体信号計測装置の検証試験(HMD)
免疫・微生物系宇宙環境における健康管理に向けた免疫・腸内環境の統合評価 (Multi-Omics/MHU-2)
神経系/前庭神経系前庭-血圧反射系の可塑性とその対策(V-C Reflex)
放射線研究ライフサイエンス宇宙実験のための受動積算型宇宙放射線計測技術(PADLES)
その他長期宇宙滞在宇宙飛行士の毛髪分析による医学生物学的影響に関する研究(Hair)

    例えば、「宇宙環境における健康管理に向けた免疫・腸内環境の統合評価」研究では、2016年から2018年に宇宙飛行士とマウスの腸内細菌叢や免疫系の変化を調査しました。飛行前後と飛行中のサンプルを分析し、宇宙環境の影響とプレバイオティクスの効果を調べたこの研究成果は、宇宙飛行士の健康管理やライフサイエンス研究への応用が期待されています。

    研究内容の詳細はこちら▼
    参照:宇宙環境を利用した医学研究_JAXA有人宇宙技術部門

    4. 宇宙×医師の仕事:フライトサージャン

    医師が活躍する宇宙関連の仕事には、様々な分野がありますが、その中でも特に重要な役割を担うのがフライトサージャンです。宇宙開発において、宇宙飛行士の健康管理は最重要課題の一つであり、医学的知識と宇宙環境への深い理解が求められます。

    ここでは、宇宙医学の最前線で活躍するフライトサージャンについて紹介します。

    4−1.フライトサージャンとは

    フライトサージャン(FS)は、航空宇宙医学の専門知識を持つ医師で、宇宙飛行士の健康管理を担当します。通常の医師とは異なり、基本的に健康な宇宙飛行士を対象に、過酷な地上訓練や宇宙環境での安全な任務遂行をサポートするのが特徴です。したがって、診察・治療に携わる臨床医ではなく、産業医学や予防医学に近い役割を担う専門医です。また、医師と患者といった立場を超えて、チームの仲間のような連帯意識を持つ関係性にもあります。

    フライトサージャンは、宇宙飛行士の健康管理だけでなく、医学運用や航空宇宙医学に関連する研究開発も行います。JAXA(宇宙航空研究開発機構)では、2020年時点で5名のフライトサージャンが日本人宇宙飛行士の健康管理運用で活躍しており、宇宙飛行士健康管理グループの一員として、他の専門家たちと協力しながら、宇宙飛行士の健康と安全を総合的に管理しています。

    4−2.フライトサージャンの役割と仕事内容

    フライトサージャン(FS)の主な役割は、宇宙飛行士の健康を長期的に管理することです。下記のように、航空宇宙医師としての責任と仕事内容は多岐にわたります。

    1. 宇宙飛行士の選抜から引退後まで
    • 医学基準の設定と運用手順の国内外調整
    • 定期的な医学検査と医学審査の実施
    • 日常的な健康管理
    • 特定訓練時の立ち会いと安全管理
    • 宇宙飛行士候補者の医学・心理学試験の実施
    • 宇宙飛行士健康管理技術の研究開発
    1. ミッション中の専任フライトサージャンとしての業務
    • 専任フライトサージャンとして、打ち上げ約1年前からヒューストンに赴任
    • 打ち上げ前の最終健康確認
    • ミッション中の24時間体制での健康モニタリング
    • 週1回のビデオ遠隔医療面談(PMC)の実施
    • 船外活動時の生体データのリアルタイムモニタリング
    • 帰還後のリハビリテーションサポート

      また、フライトサージャンの業務を支える重要な役割として、BME(Biomedical Engineer)がいます。BMEは遠隔通信機器や管制業務に詳しく、医療機器の状況把握、健康管理スケジュールの調整、遠隔通信の準備などを担当し、フライトサージャンの業務を技術面からサポートします。

      フライトサージャンの勤務地は主に日本(筑波宇宙センター)ですが、宇宙飛行士の健康管理や国際調整のため、米国やロシアでの長期滞在も含まれます。

      また、フライトサージャンの年収イメージは「平成 22 年度 航空宇宙医師(Flight Surgeon)候補者 募集要項」によると35歳程度で900万円となっています。

      参照:フライト・サージャン_JAXA

      5. フライトサージャンを目指すための一歩

      フライトサージャンには、従来の医学知識に加え、宇宙環境特有の課題に対応する能力が必要とされます。日本の学会としては、日本宇宙航空環境医学会が認定する宇宙航空医学認定医資格があります。取得には下記の要件が必要になります。

      • 医師免許を有する日本宇宙航空医学会の正会員または名誉会員であること
      • 3日間の講習(実習含む)を受講すること
      • 5年ごとの更新が必要(活動実績に基づくポイント制で評価される)

      宇宙医学研究は基礎医学の応用分野として、日本のJAXAをはじめ世界各地の研究機関で行われています。宇宙飛行士の健康管理を学ぶ宇宙航空医学について、軍医向けには米国、フランス、ロシアなどにコースがあり、民間医師には米国のオハイオ州ライト州立大学とテキサス州立大学ガルベストン校の卒後教育プログラムがあります。

      参照:これから宇宙医学を学びたい_JAXA 有人宇宙技術部門
      参照:日本宇宙航空環境医学会認定医制度_日本宇宙航空環境医学会

        6. まとめ

        この記事では、「宇宙医学」と「フライトサージャン」という宇宙に関連する医師の仕事を紹介してきました。

        宇宙医学に対しての認知度は、医学会でさえ高いとは言えず、フライトサージャンも耳慣れない言葉だと感じる方が多かったかもしれません。しかし今後、人類がより宇宙に進出していく時代になることを考えると、どちらも重要なキーワードになると考えられます。今回の記事が参考になりましたら幸いです。