第10話 長野県S病院への手術応援【part3】

【T部長の転勤】

 ここ数年間に45例の手術を行なったが、全例成功し、死亡例はなかった。ただ、Ebstein病という三尖弁の付着異常と心房化右室のある先天性心疾患にHardy手術を行なったが、運動量の増加など予期した結果は得られなかった。Ebstein病は病態が複雑で1例1例病態が異なるため、現在でも手術の難しい心疾患の1つである。その他の症例は自覚症状の改善、運動量の増加など所期の目的が得られた。

 ちょうどこの頃、予定手術日の1週間前にT部長から電話がかかってきた。「大変長い間お世話になりましたが、私は1ヶ月後にほかの病院に転勤することになりました。先生とは1度もゆっくりお話しする機会がなかったので、土曜日の晩に来ていただいて、夕食を一緒にしたいのですが……」というので、私はすぐ承諾し、土曜日の夕刻、佐久の指定された料理屋に行った。部長はすでに席に着いていた。食事をしながら、木造の手術室時代のことや苦労した手術や退院した患者さんの様子などを話ながら、おいしい夕食をご馳走になった。

【2度としてはいけない“私のあやまち”】

 私は酒を1合以上飲まないことにしていた。午後8時頃、「明日、Op(手術)があるから、これでお開きにしましょ。」と、立ち上がろうとした時である。急に襖が開いて,椿の赤い花のついた花瓶のように大きい徳利を持っ人が現れた。何とW院長ではないか!! 院長は「新井先生、大変お世話になっています。こんどT部長は転勤しますが、その後もよろしくお願いします。」と挨拶された。続けて「まあ、一献」と徳利を持ち上げた。私は「もう十分にご馳走になりました。それに、明日手術がありますから……」と辞退した。しかし、院長は「そう言わないで」と勧めるので、「それでは1盃だけ」と注いでもらった。院長は酒豪と評判だった。酒豪の人は酒の勧め方も上手らしい。1杯だけがいけなかった。話術の上手な院長の話を聞きながら酒がすすんだ。院長は私の恩師・榊原先生とは東京大学の同級生であった。若い頃の榊原先生のエピソードなどを聞いているうちに酔いがまわってきた。延々と続きそうなので、10時頃、お開きにしてもらった。私はしたたか酔っていた。旅館に着くと、ゴクゴク水を飲んだ後、Yシャツとズボンを脱ぐと寝間着も着かえずにすぐ、ベッドにひっくり返った。

 朝、目が覚めると二日酔いであった。「これは、飲み過ぎた。しくじった!」と後悔したがすでに遅かった。冷たい水で顔を何回も洗ったが一向に良くならない。朝食後、迎えに来た車に乗って病院に着いた。手術室のスタッグは日曜日なのに、かいがいしく働いていた。T部長はかなり酒を飲んだ筈なのに、シャッキとしていた。この病院では、院長に鍛えられて皆さん酒は強いのであろう。

 準備状態を見ながら、私は手術着に着替え、手の指の爪から肘まで刷毛と消毒用石鹸でゆっくり入念に消毒をした。手術台の前に立って、“メス”と言って、執刀を始めた。すると、スー、スーと音を立てるように酔いが覚めるのが分かった。私は、こんな経験は初めてであった。一枚、一枚紙をはがすほど、悠長なものではない。適当な例えはないが、強いて例えるなら、斜めにしたガラス板に水を流した状態にたとえられよう。スー、スーという酔いの覚める感覚は数回でなくなった。心臓を露出した頃には、完全に二日酔いから覚めて、正常の私に戻っていた。これは時間がたったのと、緊張のためであろうか? この日の手術は、10歳のファロー四徴症であったが、AVブロックも起こさず、順調に手術は終了した。私はホッと胸を撫で下ろした。

 その日以後、私は手術前日には禁酒することにした。どうしてもと言うときも、1合以上の酒、アルコール類は絶対飲まないと決心し、70歳でメスを置くまでこれを続けた。

 現在、S病院の心臓外科は女子医大・心研出身のY部長が引き継いで、長野県では1、2の症例数と手術成績をほこっている。