第24話 ロシア訪問 ~モスクワ —— サンクトペテルブルク —— イルクーツクの旅~ 【part1】 

ロシア訪問

~モスクワ —— サンクトペテルブルク —— イルクーツクの旅~

これは、私が循環器病センターの総長を定年で退職し、埼玉県庁につとめていた1997年のことである。

私は、何かの用事でT埼玉県知事室に伺った。要件が済むと知事は、ロシア知事会のモスクワ洲知事の招待で、日本全国知事会代表団の団長として、1週間後に日露知事会議のためロシアを訪問すると言う話になった。私もその話は聞いて知っていた。“どうぞ、お体に気を付けて行ってらっしゃい。”と言うような、決まり文句を言った。知事はこの会議の日程などを細かく説明される。私は私が同行するのではないので、詳しい日程を聞く必要はないと思った。それでも,知事はこの会議でモスクワに滞在した後、サンクトペテルブルクからイルクーツクに行きバイカル湖を見てから帰国する予定などを延々と話された。私に“同行しませんか?”という要請や、“同行しなさい!”という命令は一言もないのだが、何だか同行せざるをえない雰囲気に次第になって行った。そのうち、「私も同行させて頂きます。」と言わざるを得ないような状態に追いつめられた。仕方なく私がOKすると、知事は直ぐ、知事室長を呼んで「新井先生にロシアに同行して頂くことになった。直ぐ、切符その他の手配をするように。」と命令した。

T知事と私の関係

ここで、T知事と私の関係を説明しておこう。

私の家は、秩父にある薬屋で、T知事の参議院時代の選挙区になっていた。その薬屋では知事のスポンサーに当たるT製薬会社の製品を販売していた。その関係で知事は、たまに、私の家に寄られることがあった。その時、母は私が慈恵医大に勤務していることを話したのであろう。

私が慈恵医大教授をしていたころである。教授室のドアーをノックして 『Tです。入ります。』という大きな声とともにT氏が入って来られたことがある。T氏が知事になられたのは、暫く後なので、知事になられる前はT氏としよう。T氏は挨拶の後、 『私のおじさんにあたるT製薬会社の社長が、内科の特別病室に入院しているのでお見舞いに来ました。そのついでに先生をお訪ねしました。』と来意を告げた。T氏はそのころ、埼玉県出身の参議院議員であった。四方山の話の後、 『これから見舞いに行きますが、先生もお暇な時、見舞に行ってやって下さい。』 と席を立たれた。私は時間があったので、一緒にお見舞いに伺った。

その2,3ヶ月後、T氏は同じようにノックをして入って来られた。その時は、参議院議長になっていたので、SPを連れていた。 『このSPの方は、S首相のSPをされた、大変、優秀な方です。』と紹介した。この時も、私はT製薬の社長を一緒に見舞った。

その後、私は埼玉県人会の事務局の方々と一緒に参議院議長公邸を訪問した。それは、赤坂にあったと思うが、広い庭がある豪邸であった。その後もT氏と私の個人的な関係は続いた。

暫く後、私は慈恵医大を辞し、浦和の県庁内にある埼玉県立循環器病センター準備室に移った。

その1年後に埼玉県知事選挙が行なわれることになった。T氏は,この選挙に立候補された。

T氏の街頭演説会にぶつかる

ある朝、浦和駅で衛生部長に偶然出会った。彼は私の上司であった。駅の階段を登って行くと、準備中のT氏の街頭演説会にぶつかった。私がその側を通るころ、T氏は向こう側を向いていた。私のような県の職員は “選挙には中立でなければならない”と聞いていた。その上、衛生部長が隣にいる。T氏に挨拶しようかどうか一瞬迷ったが、あんなに親しかったT氏に挨拶しないのは失礼だ。県からお咎めがあったら、その時はその時だと心に決め挨拶に行った。T氏は喜んで握手の手をなかなか離さなかった。部長は少し離れて所で私を待っていた。結局、県からは何のお咎めもなかった。

T氏は圧倒的な勝利をおさめ、知事に就任された。ここからT知事と呼ぼう。

モスクワに出発

話を元に戻そう。

私は1週間後のロシア行きの準備で忙しかった。知事特別秘書が来て「知事に命令されて直ぐJALにビジネスクラスを申し込んだのですが、満席だと言われました。東京・モスクワ間は約10時間かかりますが、エコノミークラスで我慢して下さい。」と知らせに来た。「全国知事会からの参加者は、K府、T県とH県の3人の副知事とH県の企業管理者1人と埼玉県からは、担当部長と若い知事秘書、それに先生、知事を入れて計7人で,ロシア語の通訳が1人はいります。この通訳は年に数回ロシアに行くベテランで,ツアーコンダクターも兼ねます。」 10数人の団体を予想していたので私は「私の想像より少ない人数ですね。」と答えた。

出発の夜、JALの飛行機のエコノミークラスの窓側の指定席に座った。隣の席は空席だった。2,3時間すると,就寝の合図のように、機内は暗くなった。その時、スチュワーデスが来て、「お客様のベッドを用意致しました。そちらにお移り下さい。」と言って、その席に私を案内した。椅子を4つ利用してベッドが作られていた。“このベッドの方が、ビジネスクラスより快適だ。”と、一人悦に入って、このベッドに横になった。そこで十分な睡眠がとれた。

パトカーが先導  

モスクワに着くと、数人のロシア人が迎えてくれた。3,4台の自動車が用意されており、私は知事と同じ車に乗った。ソ連時代のB首相の乗っていた車だというだけに、後部座席には補助椅子が2つあり、後部座席に5人座れる大きな車だった。パトカーの先導で走り出した。ラッシュアワーなのだろうか、道が次第に込んで来た。パトカーはサイレンを鳴らし、パトカーの助手席の警察官は右手に持った警棒を振り回して、込んでいる車を追い払うようにして6、70キロメートルのスピードで突走しった。たくさんの荷物を積んだトラックが1台、ヨタヨタと走って、容易に道を空けなかった。パトカーは、このトラックに近づいた。警官は何か怒鳴りながら,窓から身を乗り出して、トラックの横についている細長いバックミラーを警棒で叩き割った。

ガラスが飛ぶのが私にも見えた。新生ロシアと言っても、秘密警察(KGB)があり、警官の傍若無人な振る舞いを目の当たりにした。KGBと言えば、この時から50歳前後と25歳前後の2人のロシア人が、いつも私たちに同行した。

車は大きな立派な迎賓館に滑りこんだ。通訳は7人の団員を集め「この迎賓館は、外出するのは容易ですが、再び入場する時は手続きが大変です。外出する時は団体で行動します。その時はパスポートを忘れないように・・・。また、部屋と部屋の電話も、日本にかける電話も全て盗聴されていますから、注意して下さい。」そして、各自割り当てられた部屋に向かった。 

パトカーの先導で迎賓館に向かった。右座席の警官は道路が込んでくると、半身を窓の外に乗り出し、車を追い払うように警棒を振り回して、時速60〜70キロメートルで突っ走った。途中で荷物をたくさん積んでノロノロと走っていたトラックに近づき、何か叫んだ後、警棒でトラックのサイドミラーを警棒で叩き割った。