第37話  — 田中先生 — 【part1】

私の旧制山形高等学校時代 ~慈父のような陸上競技部・部長 田中菊雄先生~

旧制山形高等学校

戦前の学校制度は、小学校6年,中学校5年,高等学校3年,大学3年であった。終戦後,アメリカの制度が取り入れられ、小6年,中3年,高3年、大4年になった。旧制高校は戦前の学制の中で唯一戦後に併合,吸収により消滅した学制である。

そのため、戦前の中学校と高等学校は旧制中学校,旧制高等学校と呼ばれている。

ここで、旧制高等学校について、その特性を解説してみよう。この項は、次の項まで飛ばしてお読み頂いても良い。

戦前の学制では、旧制高校は旧制帝大の予科として存在していた。旧制帝大の定員は旧制高校の卒業生数とほぼ同じだったので、大学の所在地とか、学科を選り好みしなければ、卒業生はどこかの帝大に入学できる特権があった。

そのため、旧制高校では三年間受験からの自由が保証され、受験勉強に青春時代を費やす必要がなく、有り余る時間とエネルギーすべてを精神的・肉体的成長の為に、所謂、全人教育(*註:知識・技術に偏することなく、人間性を全面的・調和的に発達させることを目的とする教育。:広辞苑)のために注ぎ込んだ。

また、寮があり、全国各地から集まった学生と、寮生活を通じて切磋琢磨する事ができた。寮生活では、文科系・理科系の区別無く、日夜討論が行なわれていたため、理科の学生も文学、哲学、宗教、歴史,倫理学,論理学などの本を読んで自ら学ぶようになった。

また、多くの学生は運動部に所属し、青春のエネルギーを発散させ、団体活動を学び、負けじ魂を鍛えることが出来た。

旧制高校生は、白線帽・朴葉の高下駄・黒マント・腰に長い手拭いを下げ、弊衣破帽スタイルに身を包んで街を闊歩し、酒が入ると寮歌を高歌放吟しつつ市街を練り歩いた。

このような現在では出来ないと思われる事でも、市民達は多少の尊敬の念を込めて大めに見ていてくれた。高校生も自覚を持って、それ以上の乱暴狼藉や喧嘩などはしなかった。

ドイツ語を初めて勉強した為か、リーベ(恋人,愛)、ゲル(お金)、ゾルorゾルダーテ(軍人,兵隊)、メッチェン(女の子,娘)、ドッペる(落第する)など、ドイツ語由来の独特の旧制高校用語を多用し、「白線生活」と呼ばれる蛮カラな3年間を過ごした。

私が驚いたのは、点取り虫のように勉強しないのに、いつもトップにいる男がいた。いつ勉強しているのか分からないのにトップである。頭の構造が違うのだと思う他無かった。勿論、東京大学にストレートで入学した。

私は、陸上競技部に入り、毎日運動に明け暮れた。その為か、学業成績は、いつも“びり”であったが、楽しい、有意義な高校生活を送った。

冬の旧制山形高校の正門と校舎

陸上競技部

旧制山形高等学校での私の指導教官は陸上競技部の部長・田中菊雄先生であった。指導教官とは1人の学生を1人の教授が指導する制度で、指導教官は学生の経済的な問題、個人的な悩み、勉強法などの相談にのってくれていた。

田中菊雄先生は次の項で述べるが立志伝中の人であった。山形県出身で上智大学教授の渡部昇一氏は“小学校から中学校にかけて、田中菊雄先生は私の心の中の英雄であった”と「知的人生に贈る」(田中菊雄著)という本の特別解説の最初に書いている。私は陸上競技部の部員だったので、その田中先生と大変親しく、また可愛がって頂いていた。そこで、今回は身近に接した田中菊雄先生と陸上競技部、そして私の山形高校時代の思い出をご紹介しよう。

1日の出来事を“はがき”に書いて両親に出しなさい

山形高校に入って田中先生の最初の英語の授業の時、先生は「皆さんは親元を離れてホームシックになっている人も多いでしょう。ご両親も君たちを手放して寂しいし、毎日、君たちがどうしているか、また何をしているか心配しておられます。諸君に私が勧めたいのは、毎日その日の出来事を“はがき”に書いて投函することです。両親は喜んで下さるし、このはがきを取っておくと君たちのよい記念にもなります」と“はがき”で手紙を出すことを勧められた。私は心に響くところがあったので、早速、翌日から実行した。私の両親は大変喜んで、週に1度両親からも返信をもらった。この文通は小さな私の親孝行であった。

立志伝中の人

田中先生の学歴は高等小学校中退であった。昔は小学校6年の後に、義務教育ではなく希望者だけが入れる2年間の高等小学校と言う制度があった。今は大学を卒業するのが普通だが、昔は殆どの人が小学校卒業で就職し、中学校に行けるのは50人のクラスで2人か3人であった。高等小学校に入る人は、学問はしたいが貧乏で、中学に入る資産はなく、学費の不要なこの道を選んだのである。先生は高等小学校中退後、鉄道の職員になった。食堂車のボーイだったと言われている。

職員として勤務しながら、猛烈に勉強をして、先ず、小学校の代用教員となり、次いで小学校の正教員になった。ここでも猛勉をして、そのころ、最難関といわれていた中学教師の免許を取得された。さらに猛烈な勉強をして旧制高等学校教師の免許も取得され、終戦後は大学の教授にもなられた。まさに立志伝中の人である。

やってみて納得したら引き受けます

私の入学する10数年前に田中先生が陸上部の部長になられた時のエピソードである。その当時、山形高校陸上部は全盛期であった。部員には100メートル競争の日本記録保持者がおり、400メートルリレーでは、当時日本一といわれた早稲田大学チームを破ったことがある。

また、昭和天皇が摂政のころ山形に行啓の折、山形高校のグランドで5人の陸上部部員の100メートル競争をご覧になられた。いわゆる天覧試合である。この天覧試合は全国の高等学校で初めてで最後の行事であった。

天覧試合:昭和天皇が摂政のころ,山形に行敬された折,山形高校のグランドで5人の100メートル競争をご覧になられた。

筆者もこのグランドで練習した。

このころ、田中先生を陸上部の部長にお願いしようと先生に白羽の矢が立った。先生は「名誉ある、陸上競技部の部長に推薦して頂くのは,まことに光栄ですが、残念ながら、私は陸上競技をやったことがありません。一通りやってみた後で、納得したら部長にして頂きます」

早速、先生はスパイク・シュウズやパンツなどを買い求め、100メートル走、走り幅跳び、槍投げ、円板投げなど、“走る”“跳ぶ”“投げる”という全ての種目を,部員の指導のもとに数日間続けられた。先生は、いわゆる“運動音痴”だったので、見ているほうは気が気で無かったようである。数日後、やっと納得されて部長をお引き受け下さったという。田中先生の真面目で、1つのことに熱心なお人柄がよくでているエピソードである。そのころから、先生は「菊さん」の愛称で部員だけでなく、全学生に親しみをこめて呼ばれていた。当然、私たちは、部員同士で話すときは「菊さん」という愛称で呼んだ。

菊雄の“菊”

田中菊雄の“菊”は母親が心を込めてつけた名前だと言う。母親は「人生は一生に一度だけ花を咲かせれば良い。春に咲く桜、梅、桃も良いが、十一月生まれだから、秋を待ってゆっくり咲く“菊”のように大器晩成であってほしい。」(田中先生の著書「私の英語遍歴」)

そういえば、先生には,決して派手なところはないが、“菊”のように清らかで、清楚で、そして毅然としていて、いつも香り高い、香り豊かな先生であった。

岩波中辞典

先生はOxford English Dictionaryをもとに、英和辞典の編集を始められた。若い時から難行苦行の多かった先生が7年がかりで、それも独学で辞書を編纂された。

その時、先生は“人生における絶大な修行であった”と言っておられる。よほどの困難・苦難の連続であったのであろう。その努力は岩波英和中辞典として完成し、田中先生の恩師2人と共に3人の共著になっている。

自分一人の著書とせず、連名とされたのは、いかにも謙虚な先生のお人柄をよく現している。

最も寒かった冬の日

1944年の冬である。女学生であった田中先生のお嬢さんが急逝された。先生は悲しみのどん底におられたと思うが、涙一つ見せず、泰然自若という感じで弔問客に接しておられた。旧制山形高校では1年上の2年生は勤労動員のため山形には不在であった。そのため、私は1年生で陸上部のキャプテンを命じられていた。

私は2人の部員とともに、先生のお嬢さんの棺を橇にのせて夕暮れどきの雪道を火葬場に向かった。雪の降りそそぐ、その冬の道のなんと冷え冷えとして心も体も寒かったことか・・・。私が山形で味わった、いや人生で味わった最も寒い日の1つであった。

そのころ、棺を橇に乗せて運ぶ習慣が山形ではあったのであろうか・・・・?