第53話 —Francis Fontan教授— 【part2】

迎えのフランス人ドクターから、急にドイツ語で話し掛けられる。

団員はバスで、私は迎えのドクターの車の助手席に乗り込んだ。このフランス人のドクターは英語を全く話せないらしく一言も喋らず運転をはじめた。5分くらいたった時だろうか、彼は私に突然ドイツ語で「あなたはドイツ語を話せますか?」と尋ねた。私は旧制高等学校の授業でドイツ語は勉強したが、全くと言っていいほど忘れていた。しかしほんの少しは覚えていたので「ドイツ語は話せますが、とてもpoorです。」と言い始めたが、poorとうドイツ語が浮かんで来ない。そこでやむなく「ドイツ語は話せますが、非常に“短い”です」と答えた。それでもお互いの意志の疎通ができ、それからは私の幼稚園の子供の如きドイツ語と、彼の上手なドイツ語で会話が始まった。“何分くらいでホテルに着きますか?” “手術の始まるのは何時ですか?”などと、私はもっぱら質問した。質問に答えてもらうと、大体意味が分かる。彼から質問されると私は答えられないからである。30分間くらいホテルに着くまで話し続けた。そこで分かったのは、手術は7時30分に始まり、5例の手術が予定されていることなどであった。若し、30分の乗車中ずっと無言であったら、それは、それは長い時間であったと思う。こんな幼稚なドイツ語であったが、お互い気持ちが通じ親しくなった。そしてauf wieder sehen(さようなら!またお会いしましょう。)と言って別れた。

旧制高等学校のドイツ語の副読本の思い出。

ドイツ語というと、いつも思い出す短編小説がある。それは旧制高校2年のときに学んだドイツ語の副読本の短編小説である。題名がDas Weg zu Heidelberg(ハイデルベルクへの道)という短編小説だ。要旨は次のごとくで、初めは恋愛小説の如く甘い感じで始まる小説であった。

『一組の若い恋人は、夕刻になるとハイデルベルクの霊園に来て、海の一番美しく見える墓地の階段に腰を掛けて“恋”と将来の夢を語り合った。彼らは大学を卒業したら結婚し、海外に出て、一生懸命働き、巨万の財産を蓄え、大豪邸に住み、高齢になったらハイデルベルクに帰り、海の最も美しく見えるハイデルベルクの墓地を買い、死んだらその墓に埋葬してもらい、2人は永遠の眠りにつきたい。と言うのが、彼らの夢であり、希望であった。
そして、2人は大学を卒業し、結婚した。そして海外に出て一生懸命働き、大豪邸に住み、何不自由の無い生活を送り、彼らの夢は満たされて行った。そして、ハイデルベルクの海の美しく見える一等墓地も入手した。残されているのはハイデルベルクに帰ることだけであった。
彼らは老年になったので、ハイデルベルクに帰ることにした。そして、豪華客船の特等船室に泊まりクルージングを楽しんだ。平穏な広い海原、晴れ渡った広大な空。2人はハイデルベルクに着いたら、また、あの美しい海の見える墓地の階段に座って、“来し方、行く末”を楽しく語り合おうと、老夫婦は夢見ていた。
天候は毎日平穏で、2人は船旅を楽しんで居た。ハイデルベルクに明日は着くという日に、天候が急変し巨大台風が発生し、豪華客船は台風に巻き込まれ、転覆し、木っ端微塵となり、沈没してしまった。助かった乗客は一人もいなかった。』
以上が、丁度20歳の時に学んだドイツ語の短編小説の要旨である。

“人間とは、こんなに寂しいものなのだろうか!?”今でも心から離れない、ドイツ語の短い小説である。

学長と10人の教授に出迎えられる

ボルドーに着いた翌朝、M嬢に案内されて講堂に入ると、学長初め10人の教授が整列して出迎えてくれた。先ず学長の歓迎の挨拶があり、次いで私は歓迎して頂いたことを感謝し、素晴らしいアイデアのFontan手術を見学するために、態々東京から来ました。とFontan教授の素晴らしさを強調した。そして、アルコール抜きのジュースで乾杯しセレモニーは終わり、私たちは手術室に向かった。

しかし、連絡が不十分だったのか、Fontan手術の症例は用意されておらず、ファロー四徴症と心室中隔欠損など5例の手術が用意されており、朝から夕方まで、それらの手術を見学した。私たちは残念だったが、手術室の休憩室でコーヒーをご馳走になっている時に、私は“5年後にアテネで国際心臓血管外科学会が開かれるので、その帰途にまた来訪します。その時は是非Fontan手術を見せて頂きたい”とお願いし、確約を頂いた。

その夕、Dr.フォンタンの自宅での歓迎夕食会に招待された。彼の家の門をくぐると、庭で2人の白い帽子、白い衣服のシェフがカモを焼いており、その香ばしい匂いが漂ってきた。M嬢は“シェフに出張してもらい、カモ料理をご馳走するのが、この地方での最高のおもてなしです。”と教えてくれた。その晩はカモ料理をたらふくご馳走になった。

ボルドーについて

ここでワインの生産地ボルドーについてお話しよう。ローマ帝国の属州であった時代から良港をもつ街として発達した。三日月形に湾曲したガロンヌ川沿いの「月の港」は世界遺産に登録されている。現在も街には古典様式の重厚な建物が多数残されており、その美しい街並もボルドーの人達の誇りであるという。

ボルドーの人口は約25万人。フランス南西部にあり、パリーから高速鉄道TVGに乗ると約2時間である。この地方の文化・経済の中心地であり、ガロンヌ川沿いにある港町で、ワインの生産地として世界に知られている。
紀元前からローマ帝国の主要な貿易港として栄え、12世紀にはイギリス領となったことがある。1152年、この地(アキテーヌ公領)を相続していたアリエノール・ダキテーヌ(1132〜1189年)が、後にイギリス王ヘンリー2世になるアンリープランタジュネと結婚し、ボルドーを含むフランス南西部を嫁入りの財産として持って行ったためである。以来イギリスがフランスワインの最大の市場となり、貿易の中心地ボルドーに富をもたらした。フランスがイギリスからこの地を取り戻すまで300年を要した。その間、ボルドーのワイン産業は、より上質なワインを求めるイギリスのおかげで大発展した。
18世紀には西インド諸島との中継貿易の拠点となり、ボルドーは黄金時代を築いた。ボルドーはフランス革命時には革命の引き金となったジロンド派(党)を生み出し、モンテスキュー(1689〜1755)やモンテーニュ(1533〜1592)を世に送り出し、歴史的にも興味のある街である。
ボルドーは北緯45度に位置し、北海道最北端と同じ緯度にあるが、大西洋岸にあり海洋性気候なので、1年を通して温かく、冬は北海道のように寒くはない。夏は暑くなるが、乾燥しているので過ごし易い。

現在ボルドーは11万haのワイン畑が広がり、世界最大のワインの産地である。

ボルドーの街を観光。無料でワインのボトルを何本でも開けて試飲させてくれる店に案内される。

翌日のパリーまでの帰り列車は午後だったので、午前中、ボルドーを小型バスで観光した。フランスの田舎都市という感じの街で、何世紀か経過した古典様式の重厚な教会や建物の外観を見物した。
M嬢は私たちを一軒の店に案内してくれた。そこには色とりどりのラベルの数百本のワインが陳列されていた。M嬢は「お好みのワインを注文して下さい。この店は無料で1本ワインを開けて、試飲させてくれます。何本でも大丈夫です」と説明てくれた。ワイン通のI教授が注文すると、大きなワインの瓶のコルクを抜いて、いくつかのワイングラスになみなみと注いでくれた。次の人が異なったワインを注文すると、又、新しいワインのコルクを抜いて、試飲させてもらった。3本くらい、開けて試飲させてもらった。全部無料であった。

今回、このことを書こうと思い、その店の名前を調べてみたが、ワイングラスに1杯だけ無料で試飲させてくれるという店の記事は見つけたが、無料で1本ワインボトルを開けてくれる店は見当たらなかった。
多分私たちの行った頃は、各地からワインを仕入れに来た仲買人の寄る店だったのであろう。仲買人はここで試飲し、気に入ったワインを何十本、何百本と仕入れていったのであろう。
あの当時、一般の人でボルドーのこの店を訪ねる人は少なく、ツアーコンダクターのM嬢だから知っていて案内してくれたのだと思う。