【好事、魔多し】
好事、魔多しというのであろうか。このころ、S氏に脳腫瘍が見つかった。病床日誌によると「今日は、強化練習の日だ。シンドイがやらねばならない。団員にさとられないようにしなければ。でもいつもの冗談はでない。練習後みんなと食事に行ったが1時間も居られなかった。」この日誌は上記の会合のころである。だれもS氏が病気であることは知らなかった。
S氏は第1回演奏会を控えていたので,開頭手術を避けガンマーナイフ治療(約200本のガンマービームを虫眼鏡の焦点のように病巣部に集中的に照射する治療法)を行なった。そしてS氏の指揮で第1回アンサンブルKヴィルトウォーゾの演奏会は盛況裏に終了した。その7日後に第1回の開頭手術をうけた。手術前日の病床日誌には「KAKUGOを決めた。さあこい。」術後の日誌には「10数時間の大手術。生きて帰れた。」とある。
この手術で少憩を得たが、大学病院での入院が続き、一時外泊の許可を得て、半年毎に第2回、第3回、第4回の演奏会がS氏の指揮により、全て成功裏に終了した。闘病中なのに、演奏会7日前から練習に入り、4回もの演奏会のタクトを振ったとは驚くべき精神力である。また、体力もよくもったものだと思う。S氏夫人の話によると“舞台の袖から指揮台まで自力で歩いて行けるかどうか心配でなりませんでした。それでも演奏が始まると、約1時間半タクトを振ることができました。主人は指揮台の上で倒れても本望だと思っていたと思います。”死力をつくすとは、まさにこのことであろう。日誌には「第4回演奏会も無事終了した。“もう止めたほうがよい”と思いながら、リハビリを続けていると“またやらねば”と思うようになる。皆さんに支えられ、続けてこられた。私は幸せものだ。感謝。感謝。」とある。
約2年半少憩をえていたが、その間にも病状は進行し、第4回演奏会半年後に2回目の開頭手術、その2ヶ月後に3回目の開頭手術をうける。悪性腫瘍なので医師団も治療法に苦慮したらしい。病状はさらに進行し,惜しくもS氏は61歳の若さで亡くなられた。
【座右の銘】
この“常に喜べ、……”の言葉を年賀状に書いて発送したのは2003年である。この言葉がS氏の目に止まったのは、2回目と3回目の開頭手術の間の期間である。この聖書の言葉がS氏の心にどのように響いたのかは推測するしかないが、氏は体も弱り、心も暗く、最悪な状態の時であったであろう。このような状態の時に、この言葉が氏を励まし、力づけ、また慰めたとすれば、私にとって望外の喜びであった。S氏がこの言葉を座右の銘とされたことは、私の全く予期していなかったことであった。
聖書の言葉に「あなた達は、苦しみにあったとき、それを喜びとしなさい。」という意味の言葉がある。私はこの言葉を読んで、私には苦しみを喜ぶことなど、到底できないと思っていた。ところがS氏は、2度も開頭手術をしてもよくならず、3度目の手術が予定されており、氏が極限の苦しみを味わっておられた時期と私の年賀状の到達した時期とが一致する。このような時に“喜びと感謝”を座右の戒めとされたのは敬嘆すべきことである。まさに神の恩寵というべきであろう。
【ヴィルトウォーゾ】
私は追悼文を次のごとく結んだ。「私はS氏の全快されることを心から祈ったが、残念なことにS氏は亡くなられた。しかし、S氏の情熱がなければアンサンブルKヴィルトウォーゾは組織されなかったし、Kコンサート・ホールでの素晴らしい演奏は聴くことはできなかった。S氏はK市の人たちと私たち友人に大きな贈り物を残してくれた。氏の一周忌にメモリアルコンサートが開かれる。“喜びと祈りと感謝”に満ちた、S氏の人生のような素晴らしいコンサートになることを心から祈っている。」
S氏は“ヴィルトウォーゾ”という名称をアンサンブルKの後につけることを熱望しておられたが、ヴィルトウォーゾ(選び抜かれた人)とはS氏であり、S氏こそヴィルトウォーゾであると私は思っている。
尚、アンサンブルKヴィルトウォーゾはその後も年2度の演奏会が続けられ2016年10月15日に第20回演奏会が行なわれた。