第60話 —私の贅沢な旅行 ~英国・ロンドンースペイン・マジョルカ島ーマドリッドーポルトガル・リスボンーロカ岬—【part4】 ショパンとジョルジュ・サンド愛の逃避行

ショパンとジョルジュ・サンド (マジョルカ島、愛の逃避行)

マジョルカ島での第3日目は、ショパンとジョルジュ・サンドが、パリから逃れて、マジョルカ島で短い期間であったが愛の巣を結んだヴァルデモーサの修道院を訪ねた。島の中心部から約17キロメートル離れた山の中腹にある小さな街であった。
ガイドのMさんは、運転しながら、ショパンとサンドがマジョルカに来るまでのいきさつや、島での生活について話してくれた。それを総括するとつぎのようであった。

20歳のころ、ポーランドからパリに出てきたショパンは、社交界で活躍し「ピアノの詩人」と賞賛されるようになった。程なくパリの社交界で、次々と恋人を替える男装の麗人・小説家のジョルジュ・サンドと出会う。初めショパンはサンドに好意を持っていなかったが、サンドの熱い視線に負けて急接近し、深い恋に落ち入る。

サンドは数多い恋人たちを清算し、パリの社交界に渦巻く喧騒を逃れ、ショパンと新しい愛の巣を築くために、サンドの2人の子供と一緒にマジョルカ島に移り住むことにした。ショパン28歳の時だったという。マジョルカ島は通常、冬も温暖な気候のため、肺結核を煩っているショパンの健康のためにも良いと考え、「転地療養」を兼ねて11月に到着した。一説には、サンドの昔の恋人がショパンに決闘を申し込む輩まで現れ、これも逃避行の原因の一つと言われている。

ショパン一行が島に着いてみると、その年は天候不順で、雨が多く、寒い日々が続いた。その上、島民たち(このころ、スペイン本土に内乱が起こっており、多くの難民がこの島に避難していた)に結核患者が来たと噂が立ち、パルマの町に住むことを拒否された。また、食料も足元を見られて高く売られ、仕方なく本土から食料品を取り寄せても、途中で略奪されてしまう。散々な目にあったようである。
仕方なく、ショパン一行は、島の中心地から10数キロメートル離れた山の中腹のヴァルデモーサの空き家となっていた修道院に住むことになる。
この修道院は1399年にマジョルカ王家の宮殿を改修し、カルトウジオ会の修道院として使用されていた。1835年に法律の改正により修道会が解散したため、住居として一般に貸出されていた。
ショパンらは、この修道院の僧室を4つ借りた。
ここに来た頃、なかなか届かなかったプレイエルのピアノが、ようやく届いた。

雨と寒さ、困難な食料の入手、島民のあざけり、山間部での不便など、この劣悪な状態にあっても、ショパンの創作意欲は衰えることなく、届いたこのピアノで24のプレリュード作品28、スケルツォ変ロ短調作品31、ポロネーズイ長調作品40—1など多数のショパンの代表曲を作曲した。
サンドも滞在中に修道院を舞台にした哲学小説「スピリデイオン」を脱稿し、紀行文「マヨルカの冬」を帰国後発表している。

私たちがこの修道院を訪ねると、修道院の脇にショパンの銅像があり、2人の生活した部屋の保存状態は良好で、その室内を見学することができた。プレイエルのピアノ、ショパンの自筆の楽譜、サンドゆかりの品々も展示されている。
修道院に併設された音楽ホールでは、専属ピアニストによる20分間くらいのミニ・コンサートが開かれた。音楽ホールは60〜70の席が用意されていた。ピアニストは背のあまり高くない30代の金髪の女性であった。「雨だれ」など4、5曲演奏してくれた。特に、感動するほどの演奏ではなかった。

ヴァルデモーサという山間部の不便さ、例年にない雨の多さと冬の寒さで、ショパンの病状は到達時よりも悪化した。島の滞在が不可能であると悟ったサンドは、病状の重くなったショパンを抱え、3ヶ月の後に島を脱出して、パリに帰った。

ここからはショパンの後日談である。フランスに無事にたどり着いて静養したショパンは、少憩を得て、彼の30代に、次々に傑作を生み出した。1840年からサンドとの破局を迎える1847年までの7年間、夏はノアン(Nohant)の館(サンドの相続した大豪邸)で生活し、冬はパリで生活していた。

この7年間、彼は本業である作曲に専念することができ、ポロネーズ5番,7番「幻想」、スケルツォ4番、英雄ポロネーズ、ノクターン第13番,美しいマズルカなどが作曲された。サンドの愛も真実の愛で、サンドのその献身ぶりは、かつて数々の男性遍歴をしていた女とは思えないほど優しさがこもっていたという。
しかし、1845年ころから、ショパンとサンドに不協和音が生じ次第に深刻なものになっていった。それには、サンドの2人の子供が大きく関与していた。上の息子はサンドの側にまわり、下の娘はショパンの側にまわり、これがショパンとサンドの間に深い亀裂が入る原因の1つになった。さらにサンドは多くの愛人を持つ未亡人と年下の貴族(ショパンがモデル)の恋の物語「ルクレチア・フロリアーニ」を小説にして発表し、これが決定的な破局の原因になったとも言われている。

その後の3年間、ショパンはイギリス、スコットランドへ演奏旅行をするが、すでに魂の抜け殻となっていたショパンは何事にも情熱を失っていた。スコットランドの演奏旅行は成果が乏しく、気候と過酷な演奏スケジュールが彼の健康をうばい、ぼろぼろな状態でパリに戻り病床についた。そして、1849年10月何人かの人に看取られながら、39歳の若さで天に召された。
彼のデスマスクと左手を模した石膏は今もワルシャワ・ショパン協会に収められているという。
ショパンの遺体はパリの北方のモンマルトルに近い「ペール・ラシューズ」の一画に埋葬されている。これは、故国ポーランドに埋葬することを許可されなかったためである。ショパンの帰還はロシアの圧政に苦しむポーランド民衆の愛国心に火をつけることを危惧したためであるといわれている。

彼の心臓は姉ルドヴィカの手によって祖国ポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の奥深く埋められ安置されていると言う。

文献
1ショパンの生涯〜第3章〜ジョルジュ・サンド〜マジョルカ島逃避行,ノアンの館
2ショパンとジョルジュ・サンド  インターネットなど
3川田志明:故国に帰ったショパンの心臓,  かていてる 2018年10月号