第62話 —私の贅沢な旅行 ~英国・ロンドンースペイン・マジョルカ島ーマドリッドーポルトガル・リスボンーロカ岬—【part6】 ポルトガル

ポルトガル

1993年9月にポルトガル・リスボンで開催された第21回国際心臓血管外科学会に出席した。日本とほぼ480年にわたり交易していたポルトガルについて、ここで少し勉強してみよう。

日本が西洋と初めて出会った國はポルトガルである。1543年種子島に1隻の船が漂着した。時の種子島島主・種子島時尭は、その船に乗船していたポルトガル人が所有していた、見慣れぬ火器に興味を示し、金2,000両で2挺譲り受けた。これが、所謂『鉄砲伝来』である。漂着したのは明(みん)の國の“蜜貿易船(倭冦)”で、ポルトガル商人は、たまたまこの船に乗船していたのだという。これを機会に日本とポルトガルの480年に亘る交易が始まった。

ポルトガルに大航海時代が始まった要因

15世紀の前半、ポルトガルのエンリケ王子はアフリカ西岸への進出を図り、大航海時代の先鞭を付けた。
この大航海時代が幕を開ける“内部要因”として次の4点が挙げられる。

1)ヨーロッパでは13世紀のモンゴルによるポーランド侵入と、マルコポーロによるアジアの旅行記“東方見聞録”が広く読まれ、アジアに対する知識が次第に拡大していった。
2)イスラムを介して伝わった羅針盤、頑丈な快速帆船キャラック船、キャラベル船が建造され遠洋航海が可能になった。
3)ヨーロッパでの肉食の普及により、アジアで生産される香辛料の需要が拡大した。
4)レコンキスタ(スペイン語Reconquista、国土回復運動ともいう:イスラム教の支配するイベリア半島を解放しようとするキリスト教徒の運動。711年イスラム軍の侵攻に始まり、1492年グラナダの陥落で終了した。)レコンキスタ(イベリア半島の解放)を達成したため、16世紀初頭には強固なカソリック教國であるポルトガルとスペインは、新興勢力のプロテスタントに対抗するため、両国の航海に使命感溢れる宣教師を同道させ、新しく発見した地域や新しく交流した國に対しカソリック(キリスト教)の布教活動を始めさせた。

また“外的要因”として、この時期に興ったオスマン帝国(イスラム教国)がバルカン半島・東地中海・西アジアに進出したため、従来のイタリア商人による東方貿易に不利な状況が生まれた。このため、ヨーロッパ商人たちはアジアから直接香辛料などを輸入するルートを開発する必要に迫られた。特に、ポルトガルは西のはずれにあるため地理的条件が悪く、地中海・北海・バルト海貿易の恩恵にあずかれなかったので、インドに到達するには遠洋航海によりアフリカを大きく迂回する道を選ぶよりほかなかった。
これらが、ポルトガルとスペインに大航海時代が始まった要因である。

大航海で活躍した初期の航海者

“東廻りでのポルトガルのインド航路”の開拓では、1488年バルトロメウ・デイアスが先ず挙げられる。彼はアフリカ南端に困難の末たどり着いた。さらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれ、さらに乗組員の反乱が起こった。帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名付け帰還した。後にジョアン2世は嵐の岬を『喜望峰』と改名した。

●1497年7月ヴァスコ・ダ・ガマは、先人たちの経験をもとにして、僅か4ヶ月で喜望峰に到達し、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡から1498年5月にヨーロッパ人としては初めてインドのカリカットに到着し、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。
●ポルトガルの軍人フランシスコ・デ・アルメイダは1509年遠征艦隊を牽きいいてイスラム勢力と戦い(デイーウ沖海戦)、インドとの直接交易を獲得した。
●ポルトガルはマレー半島、セイロン島にも侵略、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。

●“西廻りでの大西洋横断、新大陸の到達”では、クリストファー・コロンブスが西周りインド航路を開拓しようとスペイン王の協力のもと、パレス港から西に出港し、1492年に西インド諸島に属するバハマ諸島に到達した。
●アメリゴ・ヴェスプッチは新大陸を探検しアメリカ大陸の存在を明らかにした。
●スペインの派遣したマゼラン船団は西回りでは初めて世界を周航した。

南蛮貿易  〜日本ポルトガルの貿易〜

鉄砲伝来を機に、当時・南蛮人と言われていたポルトガル人と日本の貿易が始まった。ポルトガルの貿易の方針として、上述したように、キリスト教布教と抱き合わせの関係にあったので、貿易商人と共に宣教師も日本を訪れた。1549年にはフランシスコ・ザビエルも来日し、初めて日本にキリスト教布教活動を始めた。
1557年ポルトガルはマカオに要塞を築き、居留権を獲得した。その頃、織田信長の庇護のもと、南蛮貿易は盛んとなった。ポルトガルからは鉄砲、火薬(硝石)。中国からは生糸、絹織物、陶磁器などが輸入され、日本からは銀、日本刀、硫黄、南蛮漆器などが輸出された。
これと共に、宣教師による布教が九州を中心に行なわれ、大友、有馬、大村のキリシタン大名が誕生し、宣教師の勧めで1582年に天正遣欧少年使節4名がローマ教皇に謁見すべく派遣された。彼らはリスボンに入港し、サン・ロケ教会、ジェレニモス修道院、などに滞在し、スペインを経由して1585年にローマに到着し、教皇グレゴリオ13世に謁見し、8年の後、1590年に一行は長崎に帰還した。 
一時、良好な関係にあったが、1587年豊臣秀吉によりバテレン追放令が出され、20日以内の宣教師国外追放を定めた。秀吉は長崎教会領の現状が支配機構を危うくすると見なしれたためであると言う。しかし貿易は自由であった。江戸時代に入ってからもこの政策は踏襲された(1614年のキリスト教禁止令)。家康の晩年には、ポルトガル人の寄港地は平戸と長崎に制限された。

1620年には平山常陳事件(*註)が起き、幕府のキリスト教に対する不信感は決定的となり、幕府はポルトガル及びスペイン両国との関係を断ち切り、マカオに対しては宣教師を乗船させないように要求した。
 *註 平山常陳事件:堺の朱印船船主でキリシタンの常陳がマニラから日本に潜入を諮る2名の宣教師を乗せて帰国する途中、オランダとイギリスの防衛船隊に拿捕され、2人の身分が分かり1622年常陳と1人の宣教師は長崎で火刑に処せられた。この事件は鎖国強化の一因となったという。
家光時代には鎖国が次第に強化され第3次、第4次鎖国令が発令された。この「鎖国」中、日本とポルトガルの直接的な接触は行なわれなかったが、東南アジア各地にあった日本人町ではポルトガル人との交易が暫く続いていた。
1854年日米和親条約が結ばれ日本は開国した。1860年日葡和親条約が締結され、215年ぶりに通商が再開され、正式な外交関係が結ばれた。

日本とポルトガル交流の足跡

ポルトガル人との交流は、それまで日本になかった文物とともに、日本語に新しい語彙をもたらした。例えば、コップ、パン、ボタン、タバコ、シャボン、コルクなどは現在でも日本語に残り、日常使われている。
食べ物においてもポルトガルにルーツを持つ食べ物が日本に伝わっている。カステラ、金平糖、丸ボーロ、てんぷらもポルトガル語を語源とすると言われている。

もう1つの例は “南蛮屏風”である。南蛮屏風は当時南蛮人と呼ばれたポルトガル人が日本に来訪した時の様子を描いた絵で、現在、リスボンの国立古美術館に狩野内膳作の桃山文化の最高傑作といわれる南蛮屏風が展示されている。インドのゴアで出港準備をするキャラック船と、その船が長崎・平戸に到着した時の様子が対の屏風に描かれており、16世紀末から17世紀の様子や風俗を知る貴重な資料となっている。狩野内膳はその時の新鮮さと感動を後世に伝えようと考え、当時のポルトガル人とその服装を丹念に描いている。日本人には馴染みのなかった動物の姿も描かれている。
尚、屏風のことをポルトガル語でbiomboというが、日本語を起源とした言葉だと言う。