第67話 —世界的ポップス・グループABBA(アバ)についての物語—【part3】

Part 3  ABBAの誕生とその後の活躍

スーパー・ポップス・グループABBAが誕生したのには、次のような経過がある。
1966年のある日、スウェーデンのビート・ポップ〜ソフト・ロック・バンドに在籍していた男性のベニー(Benny)とフォーク・ロック・ユニット、フーテナニー・シンガーズに在籍していた男性のビヨルン(Bjoern)が出会った。出会うとたちまち、彼ら2人は意気投合した。
そして1970年に2人は “デユオ”(duo : 二重唱者、2人組)を結成する。

そして、そこに、既にソロ歌手として活躍していた女性のアグネタ(Agnetha)とフリーダ(Anni-Frid)が加入し、ABBAの原型となるグループが出来上がった。そして1973年に4人は活動を開始した。

その年、この4人はユーロビジョン・ソング・コンテストに“リング・リング ”を演奏し3位を獲得し、1974年には“ウオータール”を演奏し優勝した。その後、彼らは世界的に通用するポップス・グループとして高い人気を獲得して行く。

グループ名の由来は、メンバー4人の頭文字をとったものであるという。
元々は
「 Bjoern&Benny ,  Agnetha and Anni-Frid 」という長ったらしい名前だった。ある日、マネージャーが何かの書類に彼らの名前を記入する際、適当にイニシャルを並べて『ABBA』と書いたことから、それがグループ名になったのだという。

ABBAの活発な活動期に、アグネッタとビヨルン、アンネフリーダとベニーは結婚した。この2組の夫婦は、ファミリーチームとしての親しみやすさと安心感から、健全なアーティストのイメージが定着し、彼らの世界進出に一役買ったといわれている。
ABBAはビヨルンとベニーが曲を作り、(一部にはこの2人も歌っているものもあるが、)アグネスとフリーダが歌っている。
ユーロビジョン・ソング・コンテストの優勝を切っ掛けに、「恋のウオータールー」が大ヒットし、ヨーロッパ中で知名度が高くなった。75年には、イギリスを含むヨーロッパで「悲しきフェルナンド」「SOS」がヒットした。また、オーストラリアは、早くからABBAの人気に火がついた地域で、「ダンシング・クイーン」が全世界にヒットするまで、“世界で一番熱心なABBAの熱狂者はオーストラリアだ ”と言われていた。「ダンシング・クイーン」は1976〜1977年にかけて、アメリカを含め全世界にヒットした。

「ダンシング・クイーン」ヒット前のABBA

ダンシング・クイーンがヒットする前のABBAはどう評価されていたのだろう。上記とは異なる文献から引用してみよう。ダンシング・クイーンのヒット以前のABBAは「一発屋」とか「中味が無い」等と散々な評価だった。(勿論、少数の肯定派もいたが・・・)
ダンシング・クイーン誕生の4年前、スウェーデンの音楽界に颯爽と現れた4人組。
キャッチー(catchy : 曲などが楽しく覚え易い)なメロディーに2組のカップルから成るという話題性も相まって、瞬く間に“ 時の人 ”となった。

だが、その一方では「商業的過ぎる」などの批判的な意見も多かった。1970年代といえば、反体制(その時代の国家・社会を支配する政治権力、政治体制に抵抗・反逆する立場の人々)を掲げるROCK  Bandが音楽界を席巻していた時代であったからである。
一方ABBAはきらびやかな衣装に身を包み恋愛や友情を題材に歌っていたので、「軽薄」だとか「メッセージ性がない」などとこき下ろす人々がいて、ABBAを聞くのは恥ずかしいことというような風潮が蔓延している時代でもあった。
とは言っても、ABBAはスエーデンでは初の世界に通用するグループだったのも事実で、特にスパンコール等を使った衣装が否定された1つの原因であった。

ABBAが目指していたのは、Beatles [ビートルズ :1960年代に活躍した英国のロックグループで、ロック音楽の全盛期(1960年代半から1970年代)への先導役を務め、世界の音楽や風俗に大きな影響を与えた] で、彼らのような世界中で愛される“POP  Song ”を作ろうとしていた。だが、新曲を出しても売れ行きは伸びず、評論家からも酷評されていた。
そんな時に生まれたのが “ダンシング・クイーン”である。しかし、簡単に出来た曲ではなかった。5ヶ月という歳月をかけて制作した。特に歌詞にはこだわった。

そんな時、女性演出家の「アン・マルグレート・ペテルソン」がグスタフ国王とシルビア嬢(翌日、結婚後王妃となる)の結婚前夜祭を王室オペラ座で企画した。白羽の矢が当たったのがABBAであった。
ABBAも期待に応えて “ダンシング・クイーン ”を「王女に捧げる歌」として前夜祭で初めて公開した。
前夜祭に少し遅れて会場入りしたシルビア嬢の表情は硬くこわばっていた。まだ国民の間には反対の声があり、国民に受け入れられるか不安があった。
だが、ABBAのダンシング・クイーンが流れ始めた途端、シルビア嬢の表情は変わり笑みがこぼれた。まさに奇跡という瞬間である。
その後、3人の子宝に恵まれ、国民から敬愛される女王になったことは前述した。


  『 最盛期のころのABBA 』

1976年から1977年にかけて「ダンシング・クイーン」がアメリカ合衆国を含め世界中にヒットした。彼らは1976年から1981年にかけて「ママ・ミア」「ダンシング・クイーン」「ザッツ・ミー」「テイク・ア・チャンス」「マネー・マネー・マネー」など、など世界的なヒット曲を連発した。「ダンシング・クイーン」「ヴァーレ・ヴー」「ギミー・ギミー・ギミー」などの曲はデイスコでも盛んに流された。
グループが活躍していた当時、アグネッタとビヨルン、ベニーとフリーダは夫婦であったが、前者は1979年に、後者は1981年に離婚した。グループは1982年に新曲として6曲を録音し、その年末に最後のテレビ出演を終え、1983年に事実上解散した。

解散から10年後の1992年に英国のグループ・イレイジャーによって発表されたABBA-ESQUE(アバエスクス:アバを引っ掛けた合成語、“アバ風の”とか、“アバ様式の”という意味。ABBAの楽曲の全面的なカバー盤)が火付け役となりリバイバルブーム、再評価の動きが起きた。1992年に発売されたベスト・アルバム「アバ・ゴールド」が全英1位と成り、世界中で3000万枚のロングセラーとなり、解散後も人気は衰えていなかったという。
また、ABBAの代表曲を網羅した “ミュージカル「マンマ・ミーア」” は、ロンドンでの初演以来世界各地でロングランを続けた。2008年には「マンマ・ミーア」として映画化もされ、世界各地で公開された。

2013年5月6日、ストックホルムのユールゴーデンに記念ミュージアム「ABBA  :The Museum」が開館した。
2018年4月、約35年ぶりに新曲2曲を収力したことを公式サイトで発表した。

参考文献 
1)NHKドキュメンタリー「ダンシング・クイーン」ABBAと王妃知られざる物語  
2)ダンシング・クイーンで知られる「アバ」。この曲にまつわる秘話

3)ABBA概要、来歴、関連事項など  
4)ABBA(アバ)プロフィール。などインターネットによる。