第7話 無駄になった遺書

背の高いS氏が慈恵医大内科教授Y先生の紹介状を持参して来院された。氏は慈恵医大から徒歩2、3分の距離にあるY社の常務であった。1975年ごろである。

S氏は「ここ2、3年私の自覚症状は次第に強くなってきました。今では横断歩道橋を上るのに途中で2、3回休まないと上れません。そこでT大学の循環器内科H教授に診察をお願いしました。」

診察の結果、H教授は“病気は僧帽弁狭窄症です。薬を飲んで、寝たり起きたりの生活が最も良いでしょう”との診察でした。

“手術をすれば良くなるのではありませんか?”と質問しました。

“あなたの場合、手術をしても良くならないと思います。”というお話でした。

私はT大学なら多数の心臓の手術が行なわれているし、H教授なら手術後の患者をたくさん診ているはずだ。私は怪訝に思い、「H教授がそう言われたのですか?」と聞き返した。S氏は「H教授は寝たり起きたりの生活をするのがあなたには最も良いと話されました」とH教授の話を繰り返した。

S氏は言葉をついで、「寝たり起きたりの生活では生きている値打ちがありません。そこで慈恵医大内科のY教授に相談しました。Y先生には会社が近い関係で風邪などで時々診察をしていただいています。先生は診察の後、「数年前に、女子医大心研から新井教授が帰って来ました。彼は手術が上手だと評判です。私も10数人の患者さんを紹介し彼に手術をしてもらいました。全例が成功し、症状も格段に良くなっています。紹介状を書きますから新井教授に相談してみては如何ですか」と言われてやって来た次第です」と話した。

一息おいて、「寝たり起きたりの生活では生きている価値はありません。一か八かと言っては失礼ですが、先生に命を預けますから手術して下さい」と沈痛な面持ちで言った。

【心臓手術が幸運のつきはじめ】

 種々の検査の結果、僧帽弁狭窄症で、幸いなことに、まだ洞性調律(正常の脈拍)なので2、3週間後に人工心肺装置を用いて直視下交連切開術を行なった。結果は良好で、3、4ヶ月後には横断歩道橋も一気に上れるようになった。1年後には若い頃やっていたゴルフを再開した。症状がよくなるとともに専務取締役に出世し、遂に社長になった。その頃から年に1度か2度ゴルフに誘われた。長身の上、若い頃、相当鍛えたのであろう、ゴルフは上手だった。ドライバーは220から230ヤードは飛んでいた。池越えの180ヤードくらいのショートホールはアイアンで楽にオンをしていた。

ある日、ゴルフの帰りに社長車に同乗させてもらったところ、S社長は感慨深げに次のような話をしてくれた。

「私は背も高いせいか、若い時から目立っていて社長の器だと将来を嘱望されていました。ところが出世競争が烈しくなった頃から、心臓病による症状が次第に強くなってきました。会社の階段を上るのも息切れがし、あえぎながら上るほどでした。上層部はそれを見ていたのでしょう。あれでは社長の激務には耐えられないと判断され常務取締役止まりでした。ところが先生に手術をしていただいてから、みるみる健康が回復して来ました。その後、早い速度で昇進し、社長になったわけです。一か八かで手術を決心したのと、先生に巡り合ったのが私の好運のつきはじめでした」。 

【ゴルフ・ギアの開発】

 Y社からも慈恵医大からも徒歩6、7分の東京プリンスホテルのフランス料理のランチをアルコール抜きで、たまにご馳走になった。ある日ランチを食べながらの話である。「2、3人の社員が社長室に来ましてね、“今度、会社でゴルフのクラブを作らせて欲しい”と申し込まれました。Y社はゴム屋ですから作ろうと思えばゴルフのクラブは作れます。そこで、作ってもよかろう。2年までは赤字を覚悟する。しかし3年目も赤字なら潔く撤退する。その約束が守れるならと許可するということにしました。まあ、期待をしないで見ていて下さい。」

 半年後にお会いした時「ゴルフ・ギアを販売したら評判が上々です」と言い、1年後には「ゴルフ・ギアの利益率が会社のトップになりました」と言って、紙袋に包んだドライバーを1本持って来た。

「これは自慢のドライバーです。1度使ってみてください。これは先生に謹呈します。しかし、先生といえども値引きはいたしません。一人に値引きをすると次第にダンピングになりますから」とS社長は意気軒昂であった。そのうちユーテリテーというクラブが出た。評判がよかったので買って使ってみると、曲がらないで150ヤードくらいは飛ぶ。しばらくの間、私の有力な武器になっていた。チタン・ヘッドのドライバーを作ったのも日本では早い方であった。

【無駄になった遺書】

 それから数年後、社長から会長になられたある日、S会長から電話があった。

「今、プレジデントという月刊誌から“人間邂逅”という欄にお2人で登場して下さい。1人の方は経済界に関係のないご友人、例えば指揮者、小説家、哲学者、カメラマン,科学者など異業種の方です。よろしくお願いします。とのことなので、ぜひ先生に一緒に出ていただきたいのですが……」。

私はすぐお引き受けし、日時を約束した。場所は六本木にある会員制クラブであった。

そこは年一度、私たちのクラス会が開かれるクラブであった。建物の裏側には立派な庭園があった。そこに行くと、S会長、プレジデントの女性記者、カメラマンが待っていた。立った姿勢の写真では会長と私の身長差が15cmくらいあるので、大きな石に腰掛けた。カメラマンは数枚の写真を撮影した。その後、私は夕食をご馳走になった。1ヶ月後、プレジデント誌(1992年)に1頁の5分の4はカラー写真、その下に“無駄になった遺書”という題でS会長の一文が載っていたのでこれを引用してみよう。

『昭和42年頃、私は心臓の変調に気がついた。当時は名古屋支店長で、多忙な毎日に追われてそのまま過ごしてしまった。その後症状が悪化し、51年には歩道橋を登るのがきついほど体力が落ちていた。この時55歳。「どうしょう。これが私の寿命なのか。いっそ会社を辞めようか……」。思い悩んだ。私は手術を受ける覚悟を決め。遺書をしたためて息子に渡した。この時、私の胸を開いて、血液の流れを止めていた堰の部分を取り除いてくださったのが新井達太先生である。3時間に及ぶ手術の後、文字通り堰を切ったように温かい血液が私の体中にゆきわたる気がした。

 退院後の回復は自分でも驚くほどで、その後、社長の激務も自信を持ってこなすことできたことを心から感謝している。今でもゴルフは230ヤード近くを飛ばし、好きなマージャンも結構楽しんでいる。

先生は私の「命の恩人」であり、日本の心臓外科の第1人者だが、その後は医者と患者という立場を離れて、親しくおつきあいをさせていただいている。お互い人生を語り合ううちに、体の奥だけでなく、心の中まで知られてしまうようになった。

 先生は平成6年に完成する埼玉県立循環器病センターの総長に就任される。これからもお元気で心臓病に悩む人を1人でも多く救ってほしいと願うばかりである。』