【ズボン】
ある日、朝寝坊をしてしまった。その日は静岡に手術に行く日であった。あわてて、洋服を着替え、家を飛び出した。そのころ、千代田区一番町に住んでいたので、駆け足で2分もすると四谷からの大通りに出る。すぐ来たタクシーに飛び乗って、「東京駅の大丸側に行ってくれ」と指示した。少し落ち着くと、座っている尻の辺がゴワゴワと違和感がある。ズボンの裾を見ると、パジャマのズボンがはみ出ているのに気がついた。“ウワー!失敗した!どこでズボンを履きかえようか”と考えた。列車に乗ってからトイレに行って履きかえようか?しかし、パジャマのズボンを持って通路を歩くのも気が引ける。いっそ、タクシーの中がいいだろうと履き替えはじめた。すると、運転手には挙動不審と思われたのだろう。運転手の怪訝な顔がバックミラーに写っていた。それでも、なんとか履きかえることができたので、パジャマのズボンを鞄の中にしまった。俺も随分うかつものだと、心の中で苦笑いをした。もちろん、静岡の病院では,このことはおくびにもださず、普段と同じに落ち着いて手術をした。
これに似たエピソードを思い出す。これは文化系の学者とある会社の社長など7〜8人が集まる、ある私的な勉強会の時である。私もその1人に入っていた。討論が終って夕食となった。K大学のK教授がT大学の評論家でもあるM教授をからかった。「Mさん、この間、狐狸庵(遠藤周作)の随筆を読んでいたら、Mさんのことが書いてあったよ。蝶ネクタイをしめて、タキシードを着て,迎えのハイヤーに乗り込んでから、ズボンを履いていないのに気がついたとあったよ。あれ本当?!」M氏は言いにくそうに「ウン!あれは本当だよ。しかし、あんなことを書く奴も書く奴だが、あいつの随筆など読む奴も読む奴だ。」一同爆笑となった。しかし、私だけは笑うことができず一人苦笑いをしていた。
【注射アンプル。愛のリレー】
静岡の病院では1年後に人工心肺装置が購入され、心臓手術も本格的になった。初めのうちは、心房中隔欠損、心室中隔欠損など比較的易しい手術を行なったが、次第に難しい手術を行うようになった。
これは7歳男児のファロー4徴症の患者さんの手術をしたときの話である。この病気は、大動脈騎乗、心室中隔欠損(VSD)、肺動脈狭窄、右心室肥大の4つの奇形のある疾患で、その当時の全国の平均手術死亡率は20〜30%と、かなり難しい疾患の1つであった。
手術は人工心肺装置を用い、直腸温を30℃に下げ、まず、右心室を切開し、VSDをテフロン布のパッチで閉鎖し、肺動脈狭窄を解除し、右心室の切開創を閉鎖した。手術は順調に終ったかに見えた。次第に体温を温め、直腸温33℃くらいの時、電気ショックをかけると心拍動が再開した。しかし、脈拍が遅い。モニターを見ると1分間に50回(以後50回/分とする)の脈拍で、2:1の房室ブロック(AVブロック)である。私は、“アッ、いかん!刺激伝導系を傷つけてしまった!”と思った。人工心肺装置で補助循環をすると、正常のリズムに戻ることがあるので、しばらく補助循環を続けた。しかし、一向に良くならない。
この症例はVSD閉鎖のさい、刺激伝導系を傷つけてしまったため2:1の房室ブロックを引き起こしたのだ。
この房室ブロックの治療には2つの方法がある。その1つは体外式のペースメーカーを用いて、脈拍数を必要な数に増加させる方法。2つ目はイソプロテレノールという薬剤を用いて脈拍数を増加させる方法である。そのいずれも静岡の病院にはまだ無かった。
そのころ、イソプロテレノールは一般の病院には市販されていなかったが、女子医大・心研には治験のために試供品として製造元からスーナーという薬品名で提供されていた。私は「そうだ!スーナーを女子医大から取り寄せよう。」と考えた。まず、女子医大に電話を掛けて、事情を話し、スーナーを東京駅に運び、駅長の許可をえて、静岡に一番早く到着する東海道線の列車の車掌に渡してもらう。
30分くらいすると電話が医局長から掛かってきた。「スーナー20アンプルを車掌に渡しました。渡して2分くらいで発車したので、列車はもう横浜駅に近いと思います。」私は「もう2時間くらいで薬は到着します。」と手術室にいるスタッフに報告した。スタッフから笑みがもれた。
2時間くらいすると、列車の車掌から引き継いだ2人の医師は大事そうにスーナーの箱を抱えて帰ってきた。すぐスーナー1筒を100ccに薄め、
10滴/分くらい、ゆっくり点滴を開始した。15〜20分くらいたつと、脈拍は70/分くらいに増加した。点滴の数を少し増やして1時間くらいすると脈拍は100/分と目標の数に到達した。血圧も100mmHgを保っている。私は「脈拍数を100/分前後に保つようにスーナーを調節して下さい。4、5日、脈拍数が100/分前後に保ったら、徐々にスーナーを減量しましょう。私は毎日連絡します。」と言って最終列車で東京に帰った。
その後、朝、夕に連絡をとったが、状態は落ち着いていた。そこで、5日目から徐々に減量を始めたが、状態は変わらず、7日目に完全にスーナーを中止した。その後も状態は安定していた。そして1ヶ月後に患者さんは無事退院した。
注射アンプルは女子医大の救急車の運転手と医局長ー列車の車掌ー静岡の病院の医師を乗せたタクシーと次々とリレーされた。リオデジャネイロ五輪の400mリレーで日本チームは日本の陸上競技の短距離界では初めて銀メタルに輝いた。このアンプルのリレーも小さな、小さなメタルがいただけるのではないだろうか?
その後、この病院には1、2ヶ月に1度手術のために参上した。まだ女子医大で手術を経験していない総肺静脈還流異常のSupracardiac typeという比較的珍しい先天性心疾患の手術も行なった。時には、かなり難しい症例が2例組まれ、1例が午後9時頃終了し、10時近くに2例目を始め、終了は深夜だったこともある。私は10年くらいに渡り全部で100例くらい手術をさせていただいた。夜遅い列車で帰ったり、静岡に早朝5時頃着く岡山発の夜行列車に乗り、妻の好きな岡山の“吉備団子”を買って東京に帰ったこともある。私は手術の指導に行ったのだが、私自身大変大きな勉強をさせていただいた。
現在この病院は、スタッフの努力と研鑽により心臓・大血管の手術数、手術成績とも全国で10の指に入るほど、成長している。初期から中期のころの私の小さな奉仕が実を結んでこの病院が成長、発展したことを私は心から喜ぶとともに、私が勉強させていただいたことを心から感謝している。