第16話 泣きべその哲学~陸上競技部の恩師から贈られた詩 —私の小・中学校時代— 【part3】

【作文の添削】

 私のクラスに作文の上手なM君がいた。彼は国語の教師で競技部監督であった兼折先生に頼んで作文の添削をしてもらっていた。彼は私にその作文を自慢げに見せてくれた。その作文を見ると、彼の書いた作文の最後の400字詰め原稿用紙一杯に赤ペンの細かい字で,評価と注意すべき要点が箇条書きに書かれていた。これなら、作文の下手な私にも役立つと思い、私は兼折先生に作文の添削をお願いした。先生は心よく承諾して下さった。

 自分の記録として書くのなら日記だが、作文は初めから人にも読んでもらうことを目的としている。先生は,“文の初めの2、3行で人は読むか、読まないか決めてしまう。だから、初めの2、3行が勝負だ。また、文章には起承転結が必要だ ”などと教え,添削をして下さった。

 この作文の勉強が思わぬところで役にたった。それは、旧制高等学校の入学試験に算数、物理、化学と並んで作文があった。その年の高校入試は戦時中のためか文部省で作成した全国一律の問題で、作文の題は“わが命”であった。私は落ち着いて、起承転結を考え、文章を3つに分けて、それぞれに山場を作り、結論へと導いた。戦時中なので、“御国のために、わが命を捧げる覚悟である。”と結んだ。私は先生の作文の指導を感謝した。試験終了後、先生に報告すると喜んで下さった。このお陰で旧制山形高校に合格することが出来た。

【埼玉県主宰陸上競技大会で優勝】

 最終学年の5年生になった。今年こそ,県大会の100メートル競走で1位になろうと練習に励んだ。兼折先生の指導で記録も向上し、その可能性は十分にあった。しかし、太平洋戦争はますます激しさを増していた。このため、6月に“本年の埼玉県主催の陸上競技大会は個人競技ではなく集団競技にする”との通告があった。1校7人のチームで5種目(100メートル、走り幅跳び、土嚢かつぎ50メートル、手榴弾投げ、2000メートル)の競技を全員で行い、その合計点で争う方式であった。このため、以前とは練習方法を変えて、5種目を万遍なく行なうこととした。とくに不得手の競技に力を入れた。

 大会は大宮の県営グランドで行われた。その前日、各校の選手全員、大宮氷川神社の杜で野営をし、蚊に食われて十分な睡眠のとれないまま試合に臨んだ。私は短距離走が専門だったので100メートル競走、走り幅跳びは大きく得点を稼いだ。しかし、最後の2000メートル競走では、初めのうちはトップ集団にいたが、1000メートルを過ぎたころから脇腹が痛みだし、脇腹を押さえながら、棄権だけはするものかと(棄権をすると得点は0点になる)トップから半周遅れで、なんとかゴールに倒れ込んだ。この大会で、熊谷中学は最高総合得点で優勝した。戦時中のため、優勝旗もなく、メタルもなく、“優勝”と書いた賞状1枚をもらっただけだが,7人の選手は歓喜の雄叫びをあげた。

 当時、監督だった兼折 博先生は卒業の時、つぎの詩を私に贈ってくれた。

   “泣きべその哲学”

  

  床の間に祭るべき

  神聖な思いでひとつ

  それは  大宮の日だ

  

  いや、勝利のそれではない

 

  苦痛に引きつった顔をゆがめ

  あえぎながら  半周も遅れて

  とぼとぼと走った  あの2キロレースである

  

  七人の団結が  血で築いた勝利

  それに無残な泥を塗れるか?

  後へはひけない

  絶対絶命

  悲痛な背水の陣だ

 

  今でも   生き生きと浮かぶ

  あの姿である

  しかし   それは輝く姿だった

  泣きべその顔から   尊い光が流れた

 

  背水の陣の哲学

  それを お前は思わないであろうか

  のっぴきならぬ  絶対絶命の場

  そこを通らなくて何が生まれよう

 

  達太よ

  輝かしいお前の門出だが

  お祝いには  この『 泣きべその哲学 』を贈ろう

 

  達太よ

  今も  

  泣きべそをかく程にがんばっていようか?(原文のまま)

 

 『人生で尊いのは、勝利することだけではなく、“泣きべそ”をかきながらでも、くじけず走り続けることである』という恩師の教えは、私のその後の人生に、大きな影響を与えた。この詩は、今でも、私の心を励まし、勇気づけてくれるのである。