第4話 1つのきっかけ【part1】

【1つのきっかけ】 

 
1977年ころのことである。

「診断書をいただきたいのですが……」と3ヶ月前に心臓の手術をしたYさんが私の外来を尋ねて来た。Yさんは僧帽弁狭窄症という病気で、私は人工心肺装置を用いて、目で見ながら手術をする直視下交連切開術を行った。0.7cmくらいの僧帽弁狭窄を約3.0cmに切開拡大した。弁膜の動きも当初の予想より柔軟で可動性も良好であった。当然、術後の自覚症状の改善と運動量の増加が見込まれる症例であった。Yさんは「実は」と少し口ごもってから「山形への転勤命令が出てしまいました」とやや不満そうに私に訴えた。私は「山形ですか?」と聞き返した。

 【私の母校・(旧制)山形高校】

 
私は旧制山形高等学校(現・山形大学)出身だから山形はかなりよく知っている。ここで、どうして埼玉県立熊谷中学校からあの遠い雪国の山形まで行ったのか、その経緯を少しお話しよう。旧制高校に若者が憧れた理由はたくさんあるが、その1つは旧制高校の卒業生と国立大学の募集人員がほぼ同じで、高校を卒業し大学を選ばなければ、どこかの国立大学に推薦入学できる制度もその理由の1つであった。

 私は子供の頃からかけっこが速く、熊谷中学時代は陸上競技部に入った。                                     埼玉県主催の競技大会の100m競技ではいつもベスト3には入っていた。毎日猛練習で勉強は二の次で、そのため成績はちょうど真ん中くらいであった。3年生の時の父兄会から帰った父はニコニコしながら、「達太は担任のS先生は好きか?」と聞いた。私は「それほどでも」と答えた。S先生は東京大学出身の国語の先生で、優しい学者タイプの方だった。私は体操とか剣道の先生のような活発な先生が好きだった。 父が父兄会に行って面接室に入ると、S先生は立ち上がって、「新井くんのお父さんですね。どうぞ、どうぞ」と言って席を勧めてくれたという。そのあと、達太のことを『スポーツマンは純真だ』など大変褒めて下さった。そこで俺は達太も、もう中学3年生(この頃の中学は5年制)ですから運動部は止めさせて勉強をさせ、高等学校から大学の医学部に入れたいと思います。先生からも部活動は止めるように達太に勧めて下さいとお願いした」と父は言った。 それに対してS先生は「お父さん、運動部を止めて勉強だけすれば、誰だって高校くらい合格しますよ。部活動をやりながら高校に合格するようでなければ、将来、有為な人材にはなりません。新井君は陸上競技に才能があるのだから陸上を頑張らせましょう。私は山形高校の出身です。山高の陸上部は全国でも名門です。

(昭和)天皇が摂政のころ山形に来られた折、高校の校庭で5人の競技部の部員の100メートル競争をご覧になられました。いわゆる天覧試合です。このようなことは全国の高校で例がありません。また、全国のインターハイでトラック優勝やフイルド優勝もしている名門校です。新井君を山高に入学させて競争部で活躍させましょう」とおっしゃった。「S先生の話にも熱が入っていたよ」と父は話してくれた。

これ以後、父は“将来、有為な人材”という言葉が気に入ったのか、口癖のように言っていた。“運動部は止めて勉強をしなさい!”とは言わなくなったし、我が家で高等学校といえば山形高校を指していた。一方、私はといえば部活動優先で勉強は二の次の状態が続いていた。

5年生の時、熊中陸上部は秋の県大会で優勝した。このため、部活動は中止して勉強に専念することができた。   そのためか、いつも150番くらいだった模擬試験の成績は10番くらいに跳ね上がった。その勢いを継続させて、16倍の倍率と当時としては難関だった山形高校に合格した。合格した時、打ってもらった山形の後藤又兵衛という旅館からの電報は『理乙、2263、トイマシル』であった。父と母は“トイマシル”とは、“通りました”、“合格しました”という意味の山形弁だろうと言って私を祝福してくれた。理乙とは理科乙類のことで第一外国語はドイツ語、第二は英語で医学部、薬学部、農学部を目指す学生のクラスで、2263は私の受験番号である。

山形高校でも陸上部に入り、3年時にキャプテンと陸上競技部・ふすま寮の寮長に任命された。終戦後初めて開催された復活第1回全国インターハイの100m競技で3位に入賞した。また磐上会という山高キリスト教青年会の幹事、山形のY町キリスト教会で毎週礼拝を守り、青年会にも入会し、日曜学校(現・教会学校)の校長を押し付けられた。それらの仕事が多忙で学問は相変わらず低迷していた。

これが山形高校に入った経緯と高校時代の生活である。

【Yさん 山形への転勤】

話を元に戻そう。Yさんは「あんなに雪が多く、冬は寒く、夏は暑い(その頃,山形は40℃を超えて全国1位の高温記録を持っていた)山形は、病気のそれも心臓の手術を受けた私にはとても無理ですよね。“山形への転勤は無理”と診断書に書いて下さい」と懇願するように言った。

私は少し時間をおいてから「それなら、北海道の患者さんはどうなるんですか!」と少し語気を強めて反論した。

私の頭には数年前の2月に訪れた北海道・旭川の深い積雪と烈しい吹雪を思い出していた。一瞬、Yさんは驚いたような顔をした。短時間だったが2人の間に沈黙の時間が流れた。私はYさんを少し慰める意味を含めて学生時代に感じた山形の話を始めた。「山形の人は人柄がよく、人情に厚く、親切ですよ。私は一時期山形に一生住んでもよいと思うほどでした。寒いといっても私たちは学寮の5人部屋で小さい火鉢1つだけで我慢できました。そのころは戦争中で空腹というより“ひもじい”日々が続いたがこれも我慢しました。今では山形でも冬は暖房,夏は冷房が完備されているでしょう。米はうまいし、果物は豊富です。それに何よりあなたの僧帽弁狭窄は十分に切開拡大されています。手術前とは見違えるくらい自覚症状は改善し、運動量は多くなります。余り心配しないで山形に転勤してはいかがですか。少し心配なら、あと半年後に山形に行かれたらどうですか。その診断書なら書きましよう」。

Yさんの顔は次第に明るくなった。そして半年後に山形に着任した。

3、4年して専務取締役に昇進した頃である。Yさんはスピーカーを主とする音響製品メーカーのT社の社員だった。(実は私はYさんがどんな役職で転勤命令が出たのかを知らなかった。平社員だと思っていたが、すでに専務だったのかも知れない。)T社の製品を販売している小売店の代表を集めて、戦略会議のような講習会が開かれた。会場は大きな温泉旅館の大広間で約200人が集まり、有名な評論家や経済学の大学教授の講演の後、私は生活習慣病予防の話を1時間講演した。その後、宴会となったが、この会は小売店への販売促進の依頼とT社の製品を販売している代表者へのお礼と感謝の会でもあったように思われた。この会はYさんの企画であったかも知れない。この会は3、4年続き、Yさんは次第に貫禄が付き、挨拶も堂にいってきた。