第11話 出発を待ってくれた甲府行き特急列車【part1】

【笹子餅

 1971年ころのある日、J医大のW教授にお会いした。教授は「新井君は、大福餅が好きだってね」と言われた。私はもう20年くらい大福餅を食べていなかったので、怪訝に思い「大福餅ですか?」と聞き返した。教授は少し考えて「うん! 大福餅ではなかった。なんだったかな。そうだ、笹子餅だ!」と言った。笹子餅なら覚えがある。しかし、甲府に行く列車の座席で食べた笹子餅のことを、どうしてW教授が知っているのか謎が残った。

 それより数年前から、女子医大心臓血圧研究所の同門I部長が勤務している甲府のK病院に1〜3ヶ月に1度心臓手術の応援に行っていた。私は女子医大・心研で朝の用事をすませて、10時少し過ぎの列車で甲府に向かった。グリーン車の座席に座るとすぐ、私は鞄から原稿のゲラ刷り(校正刷り)を取り出して、赤ペンで誤字や脱字、自分の文章の不備な点などを校正した。私は原稿を書くより、この作業が好きで楽しみであった。ちょうどこのころ、南江堂の月刊誌「胸部外科」に6ヶ月間、ついで月刊誌「外科」に6ヶ月間、1ヶ月に1本の割合で『心疾患の手術手技』の原稿を書いていたので毎月ゲラ刷りが送られてくる。新宿から甲府までの約2時間は、電話や来客などに煩わされることもなく、校正に打ち込むことができた。隣の座席にどんな人が座っているか気にしたこともなかった。

 少し腹の空いたころ、笹子峠に差し掛かる。すると、車内販売の青年が大きな箱を首から吊って笹子餅を売りにくる。私は一袋買って、その包装を解き始める。大きな竹の皮の“へぎ”を開けると、いっぱい粉のかかった一口で口に入る餅が8つ現れる。左手で粉をトントンと落としてから、口に入れる。うすい皮の餅と、その中にいっぱい詰まった甘すぎず、よく練られた餡がマッチして大変おいしかった。私は笹子峠でこれを食べるのが楽しみであった。食べながら、右手に持った赤ペンで校正を続けた。

 目が疲れると、窓の外を眺めた。私はいつも、進行方向、左の窓側の座席に座った。窓外の景色は私の目を楽しませてくれた。春の新緑、桜や果樹園のピンク色や白い花、夏の深くなった緑の山々、秋の紅葉、冬の遠い山々の雪、その時々の景色が美しかった。新緑と言っても一色ではない。特に新芽が芽吹いたころは、茶色が混ざったり、黄色がかったり、あわい緑だったり、遠い山は“ぶち状”の緑色のオン・パレードである。そのなかにところどころ山桜が咲いている。早春だなあ! と感ずるひと時である。紅葉も赤、黄、茶など色とりどりの“まだら”の山々が美しかった。私には甲府までの2時間は至福の時であった。

【やっと解けた謎

そう、そう、話をもとに戻そう。私が笹子餅を好きなことを、なぜW教授が知っていたのか? その謎がやっと解けた。数ヶ月後にお会いした時に、この謎のことを質問した。初めは「それは秘密、秘密!」と言って謎をなかなか明かしてくれなかったが、そのうち「実は、ある日、私の家内が甲府に行くおり、列車で新井君の隣の席に偶然座ったのだ。そこで、おいしそうに笹子餅を頬ばっている新井君を見て、それを私に報告してくれたわけだよ」とW教授は謎を明かした。そう言われれば、いつだったか、初老の和服を着た夫人が隣に座っていたような気がする。それがW教授夫人だったのだ。私は夫人を知らなかったので、挨拶もせず、笹子餅を食べながらゲラの刷りの校正を楽しんでいたのを思い出した。

【初期の手術

 

 駅に着くと I 外科部長が出迎えてくれた。「手術時間も長くなりますから、ビフテキでも食べて、エネルギーを満タンにしましょう」とビフテキをご馳走になった。今思うと、笹子餅を食べてから、ビフテキを食べたのだから驚くが、若かったから食べられたのだろう。

 病院は駅から徒歩で10分くらいの場所にあった。古い木造の2階建てだった。手術室も古く、小ぢんまりとしていた。初期のころは,ボタロー氏管開存症やファロー四徴症のブレロック手術、僧帽弁狭窄症の用指交連切開術など比較的やさしい手術であった。この手術室の入り口は準備室で、ここに大きな古い机と小さな丸椅子が2つあった。手術が終ると、この机の上に駄菓子が用意されていて、中年の看護婦長さんが「ご苦労さんでございました。お茶でもいかがですか」とお茶を入れてくれた。婦長さんの親切な心の籠ったお茶は本当においしかった。都会ではなかなか見ることのない、温かいおもてなしで、私を喜ばせてくれた。

 初期のころは、手術が早く終るので、午後6時か7時くらいの列車に乗って帰京した。