第27話 ロシア訪問 ~モスクワ —— サンクトペテルブルク —— イルクーツクの旅~ 【part4】

 『血の上の救世主教会』 

“血の上の教会”を見学しますと言われた時に、私は何か不吉な予感がした。正式名はハリスト復活大聖堂という。通訳の説明によると、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された “皇帝遭難” の地に、アレキサンドル3世が先帝を弔うために建てた教会だという。そのため、内部の壁画は“聖書”のなかの悲劇的場面をとってモザイク画にして飾られているという。公式名はハリスト復活大聖堂と言い、この建築は他とは異なる建築様式だと言う。私たちは時間の関係で、内部には入らなかったが、ほかのモスクワで見た、ネギ坊主状の教会の建物とは異なる建物で、落ち着いた色彩の美しい建物であった。

血に上の救世主教会の外観(一部)

 『バレー鑑賞』 

千人くらい入れる劇場(名前を失念)で、日本でも見たことのある“白鳥の湖”を2階の貴賓室で鑑賞した。貴賓室の前例は人の頭で遮られることはなかったが、舞台から最も遠いのでバレリーナが小さく見え、オペラグラスを持ってくればよかったと後悔した。バレーの本場と言われるだけあって、プリマドンナの踊りは優雅で美しかった。王子役の男性バレリーナの動きも素晴らしかった。幕間に芸術監督が日本人のバレリーナを一人連れて、T知事を表敬訪問した。監督は背のすらっとした方で、思慮ぶかそうな60歳前後のダンディーな紳士であった。彼は「“知事閣下”にご来場頂いたことを感謝します。」とお礼を言った。「この日本人のバレリーナは、7年前に私たちの劇団に入りましたが、大変練習熱心で素質のある方です。今、セミ・プリマドンナの地位を得ています。」と日本人バレリーナを紹介した。彼女は身長160センチメートル、体重は40キログラムと均整のとれた痩せ形の美人であった。私は彼女に『何歳からバレーを始めたのですか?』と質問した。「私の母が、東京でバレー教室を開いますてので、小さい時から練習しました。ここに来て、大変勉強させて頂いています。監督さんに可愛がって頂いており感謝しています。」と顔を監督の方に向けて軽く会釈した。私は “バレーの本場でセミ・プリマドンナとは素晴らしい。よい修行をしてプリマドンナになって欲しい。頑張れ!”と心の中でエールを送った。次の幕が開くので、2人は会釈して帰っていった。

(ここで、思い出したことが1つある。それは、ロシア人がT知事に挨拶する時、知事閣下と “閣下” をつけて呼ぶことである。これは日ロ知事会議の時も同じであった。この閣下は通訳が訳した言葉でロシア語で何というのかは知らないが、日本では死語になっている“閣下”に相当する言葉をロシア人は今も使っているのであろう。面白い言葉だったので、埼玉県庁に帰ってから、この“知事閣下”を職員に披露した所、暫くの間、T知事の前で“知事閣下”が埼玉県庁内で流行した。)

終演の挨拶

芸術監督と日本人のバレリーナ(当時、セミ・プリマドンナ)と筆者

『ホテル』 :私たちの泊まったのはビジネスホテルであった。冷房のついているのは特等室のみである。サンクトペテルブルクは北緯60度と高い緯度にあるので、夏でも過ごしやすい気候であると聞いていたが、その年は東京に近い高温であった。冷房が付いていない一人部屋だったので、扇風機を借りて使った。風をまともに受けては体に悪いので、ベッドの2mくらい上の壁に扇風機の風をあて、そこから降りてくる風が体にあたるようにした。これで、かなり涼しくなった。最近、サンクトペテルブルクを訪れた人の話では、今はどこのホテルでも冷房は完備しているという。地球温暖化の影響であろう。

『ディナー』 :ある夜、一流ホテルのデイナーに招かれた。広いエントランスを通ってレストランに向かう途中に透明な4方ガラスばりの20畳くらいの部屋に10数人の派手な衣装の女性がたむろしていた。通訳は声をひそめて、「彼女たちは、高給娼婦で、このホテルに来る“鴨”を手ぐすね引いて待っているのです。1晩1千ドル以上するので気をつけて下さい。皆さんでは彼女たちは相手にされませんが・・・」とウインクした。

余り広くないレストランだったが、料理は絶品で、日本の一流のレストランより美味しかった。数人いるウエイトレスは、いずれも20歳くらいのすらっとした細身の美人であった。ロシアでは中年以上の婦人方はかなり肥満体であるが、20歳代までは細身の美人であった。

ここの美味しい料理の由来は通訳によると、帝政ロシア時代、皇帝は金に糸目を付けず、パリーやローマの一流のシェフを招いたので、今でもその味の伝統は守られているとのことだった。このレストランだけでなく、サンクトペテルブルクでは街の小さなレウトランでも食事は全て美味しかった。

イルクーツクへ

1997年の秋、橋本・エリツイン日ロ首脳会談が開かれたイルクーツクに飛行機で到着した。T知事とNイルクーツク州知事との会談が行なわれた。N知事は背が高く、東洋人的な顔であった。

その後、ヴァイカル湖に案内され、州所有の大きな船に乗って,湖の中央に出た。湖は琵琶湖の46倍の広さで、アジア最大の湖である。 “シベリアの真珠” と言われており、水質は世界最高の透明度だという。

N知事は職員に船の上から湖の水を採取させて、それをコップにとり私たちに「ここの水は美味しいですよ。」と振る舞ってくれた。確かに美味しく飲める水だった。広大な湖の周辺は美しい緑に包まれていた。N州知事は「最近、アメリカの大資本が、この湖周辺を開発し、一大リゾート地にしようと触手を動かしています。確かに、経済的には恵まれるでしょうが、リゾートになると治安も乱れます。開発が進むと、この美味しい水が飲めなくなります。そのため、私は反対しています。」と言った。私もこのままの自然を残した方がよいとN洲知事の意見に賛成だった。

船の上から見たバイカル湖。 琵琶湖の46倍の広さだという。

翌日、民族資料館を案内された。イルクーツク州独特の珍しい建物がいくつか建てられていた。その中央に、板張りの広場があり、美しい民族衣装を着た10数人の男女が,民族舞踊を披露してくれた。

民族舞踊

お土産やの少女

その日の午後、ヴァイカル湖を見下ろす小高い丘の上にある墓地に詣でた。この墓地には第2次世界大戦で犠牲になった日本人60人が眠っている。私たちは、この墓地内にある慰霊碑に献花して、冥福を祈った。

全日程を無事に終え、私たちはロシアの飛行機アエロフロートに乗り、一路新潟に向かった。