第50話 —Donald Nixon Ross— 【part3】

超美人のTさんにホテルまで送ってもらう.

Dr. Rossに挨拶してから、Tさんについて行くと、玄関のそばに真っ赤なスポーツ・カーが止まっていた。さすがレーサー夫人だけあって立派なスポーツカーであった。私は助手席に乗った。沈み込むような低いシートで、背もたれは背中を包み込んでくれるような感触で、相当値段の高い高級車だと思った。

Tさんは運転しながら次のような話を始めた。“Tさんのご主人はF1レースのレーサーであった。結婚2、3年後にレース中の事故で死亡した。その後2、3年の間、何も手につかなかったが、そのうち、”何か人の為になることをした“と思うようになった。その時、国立心臓病院のパンフレットを見て応募した。初めは、亡くなった人の心臓を処理する仕事なので、この仕事が出来るだろうかと心配だったが、前任者がいい人で親切に教えて下さったので、そのうちだんだんに仕事になれ、また、作った生体弁が弁膜症の患者さんのお役に立つことを知って元気づけられ仕事を一生懸命しています。仕事を始めて4、5年になりますが、今では楽しく働いています”。この話が終ったころホテルに到着した。私は送って頂いたお礼を言って別れた。

団員は次々にラストオーダー前に帰って来て食事をした。その後、みんなで話がしたくなり、ホテルのバーに移った。そして、今日の手術やカクテルパーテイの話や、小太りで親切なMさんの話で盛り上がった。勿論、あの超美人のTさんのことも話題にのぼった。楽しい一日であった。

その2、3年後に私は一人でロンドンに行った。その日、風邪を引いてしまい、少し熱もあるので、約束の日の朝、電話で欠席する旨断った。Dr. Rossはわたしの病状を細かく質問し、“1、2時間後に秘書にホテルまで処方した薬を届けるから、今日はゆっくり静養しなさい。”と言ってくれた。1時間後くらいに、顔見知りの秘書が薬を届けてくれ、“何かお困りのことがあったら、直ぐ電話を下さい。”と親切に言ってくれた。翌日は、その薬のお陰で熱も下がり、Dr. Rossの手術を見学することが出来た。

自分の持ち物を、他人(ひと)に差し上げる時は、自分がもったいないと思うような品物を差し上げなさい。(私の母の教え)

手術の見学のため、1人でDr. Rossの手術を見学に行った時の話である。手術が終った時、彼は私に“今夜、私の家で30人くらいのパーティを開くから、6時頃、私の家に来て下さい。”というお誘いを受けた。

6時少し前に彼の家に伺うと、もう10人くらいの人が来ていた。そして、次々に来るお客は誰も花束やリボンで飾られた箱などを持っていて、彼に挨拶する時、何か言ってから、花束や箱を直接手渡していた。彼はそれをもらうと直ぐ開いて、花束は奥さんに渡し、箱も直ぐ開いていた。彼をよく見ると、背広の襟に3、4本の金色のメッキしたネクタイピンが挟んであり、首には数本のネクタイが首に1本1本軽く巻かれていた。どれも、お客からの頂き物であった。来るお客、来るお客、何か彼に渡す時に“お誕生日お目出度うございます”と言っていた。

私は今夜のパーティは何のパーティか聞いていなかったので、誕生パーティであることを知らなかった。そして、私は何のお祝いの品を持っていないことに気がついた。“若し、日本を立つ前に知っていたら何か持ってきたのに・・・”と思ったが後の祭りだった。これから、パーテイを中座して何か買いに行こうかと思ったが、ロンドンの街を殆ど知らない。何処で何を売っているか全く知らない。思案してもよい案は浮かばなかった。私は私より遅く来たお客、次に来たお客を先に行ってもらって、一番後に立っていた。

私の身に着けたものではずせるのは、ズボンのベルト、ネクタイとネクタイピンであった。“そうだ!ネクタイピンならはずしても大丈夫だ”と思った。しかし、そのネクタイピンは、香港に旅行に行った時に買ったもので、18金か20金の少し分厚い板の真ん中に、ハート型のグリーンの石がはめ込んであった。そのころ私はネクタイピンに凝っていて10数個持っていた。今私が付けているタイピンはその中で私の最も好きな物だった。“うーん!これをプレゼントするのはもったいない。”と思案した。

その時、母の言っていたことを思い出した。“若しあなたの使っているものを、他人(ヒト)に差し上げる時は、「もったいない」とあなたが思う物を差し上げなさい。あなたが、もういらないと思う物を差し上げても、その人は全く喜びませんよ”という言葉であった。

そこで意を決して、香港製のタイピンをはずしてDr. Rossのところに行って、“誕生日おめでとうございます。”と言って手渡した。彼は“ありがとう!”と言って、無造作にメッキのタイピンの一番下に挟んだ。

それから、ハピー・バスデーの歌や、大きなバスデーケーキのローソクの火を吹き消したり、2、3人の夫人がそれぞれ得意の歌を独唱したりと、パーテイは盛り上がった。この日は、シャンパン、葡萄酒、ジュースの他に美味しいサンドイッチがたくさん用意されていた。そして、10時近くに、おおいに盛り上がったこのパーティは終った。

それから、1、2年後にアメリカのサンヂエゴの学会で彼に会った。彼は“私のバスデーパーティの時、ネクタイピンを有り難う!私は気に入って、毎日愛用しています。”と言って、背広のボタンをはずし、背広の裾を開いて例のタイピンを見せてくれた。私は大変嬉しかった。そして、母の教えを、再び思い出した。

「他人(ひと)に何か差し上げる時は、“もったいない”と思う物を差し上げなさい。きっと、その方は喜んで下さいますよ。」

Dr. Rossの略歴     

ここで、簡単にDr. Rossの略歴を簡単にお話しよう。

彼は1922年にKimberley, South Africaでスコットランド人の両親から生まれた。彼の医学の経歴はCape Town大学から始まった。大学を1番で卒業し金メタルを授与された。世界で初めて心臓移植に成功したChristiaan Barnardとは同級生であった。Dr. Rossは海外奨学金を受けたので、英国で研究を始めることが出来た。彼は最初Bristolで胸部・食道外科医として働き、2年後に胸部外科主任に任命された。その後、Guy`s HospitalのBrock卿に見出され、後に心臓血管外科の上級胸部登録官Senior Thoracic Registerに任命された。そして彼はGuy`s Ross低体温心肺バイパス装置を開発した。4年後彼はGuy`s病院の心臓胸部外科医となり、その後Consultant外科医に就任し、次いで国立心臓病院のSenior Surgeonとなり、7年後に心臓究所の外科部長に任命された。

 1968年に世界で10番目の心臓移植を行い46日間生存した。

 1967年に次に紹介する“Ross法”を開発した。

 1972年に第25回日本胸部外科学会、1988年私の主催した第41回胸部外科学会で招請講演し、

 1998年に日本胸部外科学会で名誉会員の称号が贈られた。

日本の大学や病院(主として関西・中部地方)から毎年留学生を引き受けて教育し、その数は10数人になっている。