私の恩師 榊原 仟先生
手術を終られた直後の写真で、手術が成功し、ホットした雰囲気がよく出ている、私の最も好きな写真です。
榊原外科開講70周年記念
(諸君 ! 今日は、心の窓を大きく開いて、日本の心臓外科の英雄・榊原 仟先生の息吹を胸一杯吸おうではありませんか!)
2019年9月に「榊原外科開講70周年」を記念する祝賀会が、新装なったばかりのホテル・オークラ・平安の間で、東京女子医大心臓血管外科学講座主催で開かれた。私は1954年から16年間 榊原外科にお世話になったので、この会の計画にも参画し、祝賀会では乾杯の発声を指名された。
私は榊原先生の思い出の一部を話した後、次のように付け加えた。
『フランスの作家ロマン・ローランは“ ベートーベンの生涯 ”という著書の最初に 「諸君!今日は、心の窓を大きく開いて、英雄・ベートーベンの息吹を胸一杯に吸おうではないか!」と書いています。この言葉を借用して 「皆さん!今日は心の窓を大きく開いて、日本の心臓外科の英雄・榊原 仟(シゲル)先生の息吹を大きく胸一杯に吸おうではありませんか!」と言った後、乾杯の祝杯を上げた。
また、祝賀会の途中で、ネツゲン(NHKのファミリー・ヒストリーなどを作成している会社)が作成した、榊原先生の履歴:「神、これを癒したもう」の動画が上映された。この動画作成前に、私はネツゲンのプロデューサーから、約2時間半、榊原先生についてインタービューを受けたので、今回はこれを元に、榊原先生の思い出をお話しよう。
榊原先生の胸像が見守るなかで行なわれた『榊原外科開講70周年』の記念パーティー。
菅・官房長官、加藤・厚生労働大臣(当時)をはじめ,350人の方々が出席された。乾杯の音頭をとっているのは筆者。(写真は産経新聞社提供)
榊原仟(しげる)先生が東京女子医専(当時)に赴任されるまで
榊原仟先生が東京大学の外科に勤務していたある日、東大の外科学主任教授から「東京女子医専で外科の教授を求めているので直ぐ行って来なさい」と命令され、直ちに背広に着替えて、そのころの交通機関・市電、省線電車を乗り継いで、大森にある帝国女子医専に直行した。
病院の事務長に会って用件を話すと「本学では外科の教授は既に居られるので、間に合っています」と言われた。榊原先生は、『あっ!そうだ。東京女子医専だった』と間違えに気づき、慌てて新宿の東京女子医専に駆けつけた。東京女子医専で外科の教授を求めていることは分かったが、病院周辺は戦争中の空爆により焼け野原となっており、病院は古い煉瓦作りの1号館しか残っていなかった。しかも、外科の研究室には試験管が3本あるだけだった。
“この環境では、とうてい外科手術や外科学の研究は出来ない”と考え、断って帰る決心をして病院の外に出た。
そこで、偶然4,5人の女子医学生に出会った。彼女達は、榊原先生の容貌などから「今度来て頂ける外科の先生ですか?」と質問した。続いて「私たちは外科の授業も実習も全く受けていません。先生!! 是非、東京女子医専に来て私たちに外科を教えて下さい」と懇願された。榊原先生は学生たちの熱意にほだされて、外科教授として赴任することを決意したという。
榊原外科学教室の開講とボタロー氏管開存症の手術に成功
榊原先生は、1949年 38歳の若さで、東京女子医専、外科の主任教授に就任された。
そのころ、ようやく終戦後の虚脱状態から国民は少し立ち直りつつあった。多くの医師も同様であった。
また、少しずつ米国の進歩した心臓外科の現状が医師の耳にも入って来た。榊原仟先生の兄、榊原 亨(とおる)先生の耳にも、その進歩の様子が入って来た。
亨先生は戦前、心臓を匕首で刺された患者を生還させた経歴のある外科医である。岡山在住の先生の耳にも、1938年にBostonのDr. Grossがボタロー氏管開存症の閉鎖手術に成功したというニュースが入って来た。早速、九州・中国地方一体でボタロー氏管開存症の患者を見つけようと、いろいろ努力したが見つけられなかったという。
そんなある日、台湾・中華民国の武官が突然、享先生を訪ねて来た。その趣旨は、中華民国の政府の要人、葉氏の令嬢がボタロー氏管開存症なので、手術をして欲しいとの要望であった。
亮先生はボタロー氏管開存症の患者の診断をしたことがなかった。そこで、早速、東京大学内科教授で内科学の権威・沖中重雄先生に、この患者の診察を依頼した。
沖中先生は「成書に書いてある通りの症状だが、断定する自信はない」と言われたという。
そのころの日本では、聴診器で心臓部に雑音が聞こえると弁膜症、心臓部に痛みがあると狭心症という時代であった。そこで、享先生は女子医専の教授であった弟の仟先生と相談し、女子医専の生理学の教授に心臓カテーテル用の機械を作ってもらい、この機械で診断を確定した。
享先生と仟先生はアメリカの手術書を勉強し、1939年5月にボタロー氏管開存症の結紮手術に成功した。新聞は、この手術の成功を「手術が結ぶ日華親善」と大々的に報じた。Grossの成功から12年の歳月が経っていたが、戦後、日本では初めての輝かしい心臓血管外科手術の成功であった。
本邦初のボタロー氏管(動脈管)開存症に成功
新聞は「手術が結ぶ日華親善」と大々的に報じた。(写真は患者さん,葉氏夫人,榊原先生)
患者さんを紹介してもらうのに、頭を下げ過ぎることはない。
榊原仟先生が赴任されて最も困ったのは、外来患者、入院患者が極端に少ないことであった。外来患者は1日に2人か3人。そこで、先生は患者さんを紹介してもらうために、新宿区の病院や診療所を1軒1軒回って、「どのような患者さんでも結講ですから、患者を紹介して下さい」と、毎日のように頼んで歩いたという。
“患者さんを紹介して頂くためには、どんなに頭を下げても、下げ過ぎることはない”と榊原先生は言っておられた。
その為,患者さんが紹介されると紹介医に、患者さんの現在の病状と今後の治療計画を自筆で書いて、その日のうちに便送した。若し、手術の必要のある患者に対する返信は、手術方法や入院予定期間などを含めて返事を書かれた。手術の後は、手術所見、現在の病状、服用している薬、退院予定日などを書いた手紙を送った。
だから、一人の患者さんに対して数通の返事を必ず自筆で書いて、紹介医に発送された。私も慈恵医大に移ってから、榊原先生の真似をして、紹介医に数通の手紙を書いて便送する方針を徹底した。