モスクワからサンクトペテルブルクへ
モスクワからサンクトペテルブルクへの移動は夜行寝台列車を利用した。この夜行寝台列車は観光客には人気があるのだという。20輛の長い列車のほぼ中央の指定席に入った。私と若い知事秘書との2人部屋で、窓側の机の上にはピンクのバラが10本くらい、その左右にビスケットやジュース、紅茶などが用意せれていた。ベッドの上に座って2人で談笑していると、知事が来て仲間に加わった。列車は大きな揺れもなく,快適に走った。8時過ぎたころ、ボーイがベットメイキングに来てくれた。私は次のようなことを思い出しながら、翌朝までぐっすり眠ることができた。
私は日本でも、上野・秋田間の夜行寝台列車を、たまに利用することがあった。まだ、新幹線の出来る前の話である。秋田のN病院で心臓の手術を依頼され、初めのうちは飛行機を使ったが、それだと、時間の関係で大学病院を2日休むことになる。余り病院を休めなくなったので、土曜日の夜行列車で秋田に行き、日曜日の午前中、ホテルで休息して、午後に心臓の手術をした。三弁置換と言って、大動脈弁、僧帽弁、三尖弁を人工弁で置換する、当時としては難しい手術をしたこともある。(この患者さんは、代々の秋田の城主の墓のある古くから続く住職の奥さんであった。)そして手術日の夜行列車で東京に帰り、月曜日の朝から大学病院で働く強行スケジュールであった。帰りの東京行きの夜行列車は朝の5時に大宮に着くと、そこで約2時間停車し、時間調整をしてから7時ころ上野駅に着くようになっていた。列車が動いているときは、揺られながら“ウトウト”寝ることが出来るが、一旦列車が止まってしまうと、目が覚めて眠れないものである。往復、夜行寝台列車で移動し、翌日からフルに働くとかなり疲れた。こんなことを思い出しながら、寝ているうちにサンクトペテルブルクに到着した。
寝台列車の2人部屋
サンクトペテルブルク
ここは、主に観光が目的だったので、観光した所を私の感想を交えながらお話しよう。
1924年、革命家レーニンの名にちなんでレニングラードと命名され1991年まで、200年近く続いた。1991年に市民の投票により帝政ロシア時代のサンクトペテルブルクに名称が変わった。サンクトペテルブルクとは、1712年ころ建都を命じたピヨートル大帝が自分と同名の聖人、聖ペテロの名にちなんでつけたのだと言う。
『レーニンの立像』 :市庁舎の前の2メートルくらいの高い台の上に立つレーニンの高さ約3メートルの立像は,右手を水平に挙げ、人差し指の示す方向に顔を向け、威厳のある容貌であった。
彼はこのような姿勢で講演(アジテイト)をしたのであろう。
市庁舎前のレーニンの立像
『エルミタージュ美術館』:入館すると、金をあしらった建物の内部装飾に目を奪われた。この美術館はエカテリーナ2世をはじめロシア皇帝の住居として実際に使われたのだと言う。歩を進めると、レオナルド・ダ・ヴィンチの“ブノアの聖母”“リッタの聖母”の2枚が,手の届きそうなところに飾られている。パリのルーブル美術館にある、盗難予防のために物々しく飾られている“モナリザ”とは違って、なんと親しみのあることか!! ダビンチの絵を私は十分な時間をかけて鑑賞した。ダビンチの絵をこんなに身近に鑑賞できるのは、この美術館をおいて外にはない。
案内人は中年の婦人でロシア語で解説をしてくれた。これを日本人通訳が訳してくれるので分かり易かった。日本の絵画の本にも出てくる有名な画家の絵が順序よく配列してあった。ラファエロの“聖家族”、チィチュアーの“ダナエ”、エルグレコ,ゴヤ、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどなど、有名な絵のオンパレードである。都合で日本人通訳が居なくなると、案内人はロシア語からすぐ流暢な英語に変えて説明をしてくれた。有名な絵を見学した後で、案内人は日本の絵画が収蔵されている、小学校の教室くらいの部屋に案内してくれた。片言の日本語を話す職員が一人居た。部屋の中はやや雑然としていたが、浮世絵は数段ある引き出しに整理されて収蔵されていた。何枚かの浮世絵を見せながら、職員は 「喜多川歌麿や葛飾北斎のような、超有名な人の浮世絵は、まだ収蔵されていません。これから、徐徐に収蔵しようと思っています。浮世絵は展示するのが大変です。少し明るい照明だとすぐ色彩が変わってしまうからです。」 と話してくれた。この美術館に日本の絵画が収蔵されていることを知って、私は親しみを覚え、嬉しかった。日本の優れた絵画が収蔵され、展示されることを私は願っている。
写真は遊覧船の上から見たエルミタージュ美術館。外から見るとその大きさが分かる。
『ネヴァ川と運河クルーズ』:サンクトペテルブルクの水路(運河)は市内に張り巡らされ、 “北のヴェネツィア”と呼ばれている。私たちは1時間の遊覧船に乗った。2階は屋根がなく360度見渡せ50人くらいの観光客が乗っていた。名前は分からなかったが、ドーム状の大聖堂や尖塔の建物など見ながら船は進んだ。いくつもの橋をくぐった。
船上風景
『夏の宮殿』 :ピョートル大帝の后である、第2代ロシア皇帝エカテリーナ1世が夏の避暑用の離宮として建てた宮殿である。この宮殿の名前はいくつかあり、“ピョートル大帝の夏の宮殿” “エカテリーナ宮殿”場所の名前をとって “ペテルコフ夏の宮殿”などと呼ばれている。
全長325メートルの壮麗なロココ調の建物である。
この宮殿で最も有名なのは“琥珀の間”である。琥珀の間は、最初珍しい物好きのビヨウトル大帝を喜ばせるための贈り物であったが、エカテリーナ2世によって
夏の宮殿に移築された。6トンの琥珀と金で装飾された100平方メートルの豪華な部屋である。琥珀は樹脂の化石と言われ、形成には1000万年以上かかるといわれている。
第2次世界大戦の時、琥珀はドイツ軍に持ち去られたが、1979年に修復作業が始まり2003年に修復は完了した。
琥珀の間にはこんな歴史が残っている。1782年伊勢を出発して江戸に向かった 大黒屋光大夫 は烈しい嵐に会い漂流してアリュウシアン列島に漂着する。大黒屋は帰国を願い出るためにシベリアを横断し、夏の宮殿の琥珀の間でエカテリーナ2世に謁見したと伝えられている。
もう1つ、この宮殿で有名なのは150以上ある噴水である。建物の内から見たとき中央の大きな噴水が高く水を噴射されており、その向こうにフインランド湾に通ずる水路とその左右に整理された道と林を見ることができた。その噴水の全容を見ようと建物の外に出ると、残念なことに噴水は止まっていた。3、40分おきに噴射するのであろう。
そこで水路に沿った道を歩きながら、美しい庭園の散策を楽しんだ。
宮殿の脇の広場には、帝政ロシア時代の服装をした男女がしゃなり、しゃなりと歩いていた。
いくばくかの金を払うと、一緒に写真におさまってくれた。
夏の宮殿内部から海の方向を眺める。この時は噴水が噴射されていた。
宮殿の外側の斜面には階段が設けられ、左右の階段と中央部から数十の噴水が噴射される。20くらいある男性の裸体像は全て金箔が塗られていて、噴水となる。残念なことに、この時噴水は止まっていた。上に見られる建物が夏の宮殿である。