第12話 ジャカルタ大学外科部長Dr.Sの夢【part2】

【OKサインの交換】

 翌朝、私はICUにA君の診察に行った。気管チューブはすでに外されていた。A君は私を見つけてニコッと笑い、インドネシア式に親指でOKサインを出した。それに応じて私は“もう大丈夫だよ”と、親指と示指で丸をつくり日本式にOKサインを送った。これを見守る両親の顔には、昨日の心配そうな顔とは違って、にこやかな感謝の眼差しがあった。

 第1例の成功に続いて、チームワークは強くなり、第2例目のFallot四徴症、第3例目の大動脈弁置換手術、第4例目のFallot四徴症と順調に手術が行なわれた。

 インドネシアの3大新聞は、それぞれ写真入りで、「日本の援助による、この手術の成功は、我が国の医学を大きく前進させた」と大々的に報道した。

【Dr.Soerarso アジア胸部外科学会を主宰】

 これは、後日談である。

 1992年、第10回アジア胸部心臓外科学会がDr.Sを会長として、バリ島で開催された。数百人の会員を擁する大きな学会を開催できるほどインドネシアの心臓外科は発展していた。200人を超す日本の胸部外科医(呼吸器外科医と心臓外科医)も参加した。学術会議は3日間に及んだ。私は“骨格筋の心臓への応用“というシンポジウムで英国のDr.Yacoub、アメリカのDr.Chuなど,世界の5人のエキスパートにごして講演をし、ディスカッションに加わった。

 本来骨格筋の心臓への応用は、慈恵医大・心臓外科のDr.森田が実験した研究であるが、彼がアメリカに留学中だったので、彼のデーターとスライドを借りて私が代わって報告した。

そして、この学会でDr.Sとの旧交を温めた。    

【インドネシア国立HARAPAN KITA(われらの希望)心臓病センター】

 Dr.Sは、彼の夢であった国立HARAPAN KITA心臓病センターを彼が主導し、1985年に完成させた。

 それから6年後、1991年、HARAPAN KITA病院から1通の手紙が私に届いた。この手紙は、その病院の小児心臓外科スタッフとして働いている日本人のW医師からであった。

 『今、インドネシアの心臓外科の歴史を調べています。これを論文にまとめようと思っていますので、ご協力のほどお願いいたします。この国でファロー四徴症の根治手術の成功は先生が1969年に手術された症例が第1例目です。そこで、その時の様子をお書きいただきたいのですが……』とあったので、私はその時の様子を書いてすぐ返送した。

 これが機縁となって、1993年に私は、インドネシア好きのT医師と共に同センターを訪問した。

 空港からジャカルタの中心部に入ると、ジャカルタの市街は高層ビルが立ち並び、広い道路の中央分離帯は芝生とヤシが植えられ、近代都市となっていた。前回手術に来た20年前は、道路の両側は2階建ての木造家屋がひしめき合い、その狭い道路を古い中古車がけたたまし音を立てて、のろのろと走っていたが、そのころとは一変していた。昔は道路を歩く時、腕時計を腕にしてはいけないと注意された。それは、腕時計を引ったくられるのならまだしも、自動車が近づいて来て、窓から鉈(なた)で腕ごと腕時計が持って行かれるからといわれたていた。これは作り話であろう。しかし、この話を真(ま)に受けたくなるような、車道も歩道も雑踏と喧噪で満ちていた。

 昔の狭い道路は色の剥げた中古自動車で渋滞しクラクションが鳴り響き、歩道も人で溢れ返っていた。今は、車道6車線、歩道も広く、昔の喧騒はなくなっていた。

 心臓病センターは鉄筋コンクリート5階建てで、設備は完備し、全館エアコンでコントロールされていた。手術室もよくコントロールされ、汗びっしょりで手術した手術室の面影はどこにもなかった。外科医、看護師、技術職員はキビキビと働き、活気にあふれていた。3日間、センターのゲストハウスに滞在し、数例の心臓手術を見学した。このころ、インドネシアの心臓外科医は、主にオーストラリアに留学していた。心臓外科部長も2年間オーストラリアで修行した人だった。彼の技術は素晴らしかった。日本でもそのころ導入された低侵襲心臓外科(MICS)もすでに取り入れられていた。このセンターは、ベッド数350床、年間1500例(うち小児700例)の心臓手術が行われている。1992年ころの統計では、Fallot四徴症の根治手術252例では手術死亡は0、人工弁による僧帽弁置換術152例のうち病院死亡率は3.8%など、優れた成績が発表されている。

【Dr.Sの自宅に招待される】

 このセンター見学中の1夜、Dr.Sの自宅に招待された。門の周辺には、数人の青年がたむろしていた。全員彼の家の守衛というか見張り番だと言う。玄関から応接室に通された。その応接室と庭の間には、ガラス戸もなく、開放的な建物であった。激しいスコールの来たときはどうするのだろうと私は小さな心配をした。

 数人の家族と心臓病センターの数人のスタッフに迎えられ、おいしいインドネシア料理をたくさんご馳走になった。天井を数頭のコウモリが飛びかっていた。彼はコウモリを飼っているのだそうだ。

 彼は20年前の女子医大からの援助を感謝してくれた。その援助がきっかけとなって、現在の立派な心臓病センターが完成したことを語ってくれた。

 私は約20年前の私たちの小さな援助が実ったことを、私は大変嬉しく思った。そして、Dr.Sの「これからはインドネシアでも心臓外科の時代だ」という先見の明と,彼の絶え間ない努力によりセンターが完成し,大きく発展していることを賞賛した。

 楽しいジャカルタの1夜であった。

 翌日、私とT医師はバリ島に行き、1日ゴルフを楽しんでから帰国した。

 文献)新井達太:外科医の祈り、マリンブルーのインド洋、メディカルトリビューン、2001