第23話 歌舞伎 ~猿之助(2代目)さんの母堂・喜熨斗さんとの出会い 【Part4】

このころから、猿之助さんは市川笑也を姫の役に登場させた。笑也は歌舞伎に縁のない一般家庭に生まれ、国立劇場歌舞伎養成所を卒業。

ヤマトタケルのみやず姫に抜擢された。門閥外で名題下(名題役者の下に位置する役者)の役者として異例の抜擢として注目された。

新橋ロータリークラブの会長となる

その頃、私は新橋ロータリークラブの会長(任期1年)をしていた。ロータリーとは会員間の親睦と社会奉仕を掲げた世界的な組織であった。

私が会長になると同時に、新橋に新しく建設された “第1ホテル東京“ が完成した。それまでの7年間は古い銀座第1ホテルで、ロータリークラブの例会は開かれていたが、第1ホテル東京の完成とともに例会をここに移した。約80名の会員は全員タキシード、夫人たちも正装で移転の祝賀会を大々的に開催した。新会場の天井は旧会場の2倍くらいの高さで、室内は豪華で美しく、種々の装置も完備し、昼食も品のいいおいしい食事で、旧会場と違って全てがゴウジャスであった。

ロータリークラブの例会は全員12時30分に集合。会長の開会の点鐘によって始まり、昼食が配られる。食事中、役員により報告事項などが発表される。1時から会員あるいは会員の友人により卓話が始まる。卓話の題目は政治、経済、自分の職業、趣味などその人の得意とする分野でよい。卓話が終ると会長は,その卓話に対して2、3分のコメントとお礼を述べて閉会の点鐘により閉会する。

その日の卓話は、松竹株式会社常務M氏の「歌舞伎入門」であった。その卓話のあとで私は次のようにコメントした。「歌舞伎は今、最盛期を迎えています。これは門閥家の方々が絶え間なく修練研鑽され、また息子さんが3、4歳になると舞台に立たせるほど修練を怠らないためと思います。

その上、一般家庭に育ち、歌舞伎養成所で勉強した人、 - 例えば猿之助一座の “笑也((ショウヤ))さん” のような方 - を抜擢して準主役にするなど、歌舞伎に新しい血を入れたことが、現在の隆盛につながっているのだと思います。」そしてM氏に卓話のお礼を言って閉会の点鐘をならして閉会した。

それから暫く後の話である。ある歌舞伎通の方と話をしている時、『笑也』はショウヤと読むのでは無く、((エミヤ))と読むのだと教えて頂いた。松竹株式会社常務のMさん、そしてロータリー・クラブ会員から何の苦情もでなかったが、私は卓話のコメントで大きなミスをおかしたのである。

その後、私は喜熨斗さんにこの話を紹介した。喜熨斗さんは「姓名を正しく読むのは難しいですね。私の姓のキノシは,時々誤って読まれたり、お読みになれない方も居られます。」と笑みをたたえて話された。

4人の京都の芸子と年増の芸妓

ある日、歌舞伎座での夕食を少し早く終え私と妻が座席についていると、喜熨斗さんが来られた。まだ、後ろの5人の方は帰っておられないので、喜熨斗さんは後ろの席の前に立って私たちと話をしていた。そこに京都弁で話をしながら4人の若い芸子さんが帰って来た。喜熨斗さんがちょうど芸子さんの座席の通路を塞ぐような形になっていて、芸子さんは入れなかった。すぐ喜熨斗さんは気がついて「失礼しました。」と,椅子の横から通路に出られた。それでも芸子さんたちは、気が済まないのか、入るのを邪魔されたとブツブツと聞こえよがしに文句を言っていた。そこに年増の芸妓さんが帰って来た。喜熨斗さんを見るなり、「あら!お姉さま、大変ご無沙汰していますが、ご機嫌うるわしく。」と京都弁で挨拶した。そして、若い芸子さんに「この方は、猿之助さんのお母さんの喜熨斗さんです。」と紹介した。今までブツブツ言っていた芸子さんたちは少し極まり悪そうに「お初にお目にかかります。」という意味のことを京都弁で挨拶した。その時、開演の拍子木が鳴った。喜熨斗さんは「ごゆっくりご鑑賞下さい。」と言って去って行かれた。芸子さんたちは「猿之助さんのお母さんだとは知らなかった。失礼をしてしまった。」と小声で話していた。

それから数ヶ月後に慈恵医大の事務員Mさんから、喜熨斗さんが入院されたことを知らされた。その数ヶ月後に猿之助さんが病気になったことが報じられた。

喜熨斗さんのご招待は12、、3年続いた。私たちはご招待頂く度に、喜熨斗さんの親切に接し、猿之助歌舞伎を堪能させて頂いた。心から感謝している。

東京熊高会の歌舞伎鑑賞会は2年に1度くらいの割合で今も続いている。2017年は団菊祭五月大歌舞伎を鑑賞した。話題となったのは、寺島しのぶさんとフランス人の夫君との間に生まれた4歳の寺嶋真秀君の初お目見得であった。酒屋丁稚与吉に扮する真秀君が物怖じせず花道を堂々と歩くと「待ってました」などの声があちこちから飛び、大きな拍手が満場から起こった。

その幕間にロビーで寺嶋真秀君の祖母にあたる冨司純子さんをお見かけした。その10年くらい前、私の友人の新橋の税理士が冨司さんの税務を担当していたので、彼の少人数の誕生パーティの時お会いし、話もしたことはあるが、お忙しそうなので声は掛けるのを遠慮した。

その時、私は急にいつもロビーで暖かく迎えて下さった喜熨斗さんを懐かしく思い出した。そして、ご馳走になったおいしい“鰻”のことも思い出した。その日一緒に観劇した娘と、帰り道に銀座三越に寄り、“ての字”の鰻弁当を賈って家に帰った。家での夕食は、観劇にご招待して頂いた時いつも出して頂いたのと同じ鰻弁当を食べながら、親切にして頂いた喜熨斗さんを偲んだ。

 

~次回コラム:ロシア訪問~