第32話  — 南米3カ国、ペル−、アルゼンチン、ブラジル訪問 — 【part2】

在ペルー日本大使館公邸訪問

大使館公邸は、幅30メートルくらいある、かなり幅の広い2つの道路の交差する角地に建っていた。公邸の周囲は3メートルくらいの高さの分厚い白塗りの塀で囲まれ、道路の交差する角地にはトーチカのように厚いコンクリートで堅固な駐在所が建てられ、その中に5、6人の銃を持った兵士か警官が外敵に備え目を光らせていた。その横に鉄格子と思われる堅固な扉の門があり、私たちは、ここから公邸に入った。

この高くて分厚い塀、トーチカのような堅固な駐在所があれば、広い道路から外敵は攻めて来られないだろうと私は想像した。公邸の中に入ると小学校のグランドくらいの広さのよく整備された広い庭があった。そこの入り口に高さ2メートルくらいの白地の布が2、3メートル間隔の支柱に紐で奇麗に吊りさげられていた。大使館員によると、日本の紅白の垂れ幕と同じで、パーティーの時など,この白い垂れ幕を庭の四方の側面全体に飾るのだという。ペルーは1年中、雨が降らないから、大きなパーティーもこの広場で行なわれる。庭に立って見ると、道路に面していない、数十軒ある隣家との境界はブロック塀で境がされていた。私は、道路に面した塀は堅固で、外敵を防ぐことは出来るが、隣家とのブロック塀の境界では外敵を防ぐことは出来ないだろうと危惧した。後にこの危惧が現実のものとなった。このことは次章でお話する。

公邸は日本風の2階建ての木造家屋であった。玄関の右側は大使とご家族の居室があり、左側は広い応接室とその隣に会議室や食堂に使われる広間があった。ここに1週間遅れの日本の週刊誌や雑誌を入れる本棚があった。私たちはここを暫く自由に使わせてもらった。

昼食の時は、A大使が挨拶に来られた。身長1m80cmくらいの長身で堂々たる偉丈夫であった。曾祖父は明治時代に外務大臣を務めたと自慢していた。昼食の料理は大変おいしい日本料理だった。聞いた話だが、ある人が大使や公使に任命された際、任地に連れて行く料理人かコックを選ぶのは大使か公使の役割である。一流の料理人を選ぶのはその人の腕の見せどころで、料理人が優秀であればあるほど大使や公使が評価される。だから大使たちは競って優秀な料理人を選ぶのだという。

私たちはペルー滞在中に公邸に2度招かれ、ペルー在住の日本の商社の支店長や会社の社長にお会いし、現地の商取引の問題点などの話を聞くことが出来た。A大使夫妻には大変お世話になった。そして翌日、次の目的地ブエノスアイレスに向かった。

駐ペルー日本国特命全権大使・青木 盛久氏(中央の背の高い方)を表敬訪問。

この大使公邸がトウバク・アマル革命運動(MRTS)のメンバーによって占拠された。

ペルー日本大使公邸占拠事件

私たちが南米の視察旅行から帰って約2ヶ月後、とんでもない大ニュースが飛び込んできた。私はテレビのニュースに釘付けになった。

それは、ペルー・リマで大変お世話になった日本大使公邸に、隣家の塀を爆破して、覆面をした武装集団が乱入し、制圧・占拠したというニュースであった。その日、1996年12月17日は、日本より少し早いが、恒例の天皇誕生日の祝賀レセプションが、大使公邸の中にある、あの広い庭で行なわれた。

小学校校庭くらいの広さの庭の周囲は、あの白い垂れ幕で囲まれていたであろう。そのレセプション会場にトウパク・アマル革命運動( MRTA )の構成員14名が,その会場にいたA大使をはじめとする大使館員、ペルー政府の要人、各国の駐ペルー大使、日本企業の駐在員など、約600人を人質にした。侵入した武装集団は空き家となっていた隣家の塀を爆破して侵入した。私が初めて大使公邸に入った時、公邸の道路に面した塀は頑丈で侵入は不可能と思われたが、隣家に面する塀はブロック塀で、ここから侵入される危険があるのではないかと私は危惧していた。その危惧が現実に起こってしまったのだ。若しかすると、私たちが公邸を訪れた2ヶ月前には侵入集団は隣家の空き家で、既にうごめいていたのではないだろうか? 私たちの訪問が2ヶ月後だったら、全員人質になっていた可能性があると思うと人事(ヒトゴト)ではなかった。A大使、大使館員、お会いした商社の駐在員の顔を思い出し、今どうしているだろうと心配であった。

侵入者の要求は「逮捕、拘束されているMRTA構成員全員の釈放」「フジモリ政権の経済政策の全面的転換」「身代金の支払い」などであった。また、軍や警察による武力開放作戦に備えて、侵入者は公邸敷地内に対人地雷などを設置した。

人質の数が600人と余りに多かったため、犯人は翌日、婦女子、老人200人を釈放した。釈放されて白い垂れ幕をくぐって出てくる大勢の人質が日本のテレビのニュースで映し出された。私は食い入るようにその画面を見た。すると、杖をついた大統領の母親が、大統領の姉さんに助けられるように一緒に急いでというか、あわてて出てくる映像が映った。犯人はきっとこの2人の女性が,大統領の母親と姉であるのを知らないのだろうと私は思った。それは、この2人を人質として拘束しておけば、大統領はかなりの要求をのまなければならないと思ったからである。

日本のテレビは毎日、かなりの時間、この事件の速報を流した。この事件は次第に膠着状態に落ち入った。最終の人質は政府の高官、軍人、A大使、日本の大使館員、日本の代表的な会社の役員など72人になった。このころ、ペルー政府と犯人の交渉役としてカトリックの神父さんが従者にキャリーバックを引かせて、毎日定期的に公邸を訪問していた。そして、犯人と人質の相談や要求を聞いて、その解決に務めた。人質からの要求でリマの日本料理店から日本料理やインスタント・ラーメンや医薬品が 届けられたこともある。これは後に分かったことだが、神父は交渉役だけでなく、政府側の意を汲んで、密かに無線機を人質のペルー高官に手渡し、差し入れた医療器械、コーヒーポット、聖書などの中に多数の盗聴器が仕込まれていた。これで、政府側は犯人の行動が分かるようになった。

事件発生から約3週間後に政府側は隣家から公邸の地下まで7本のトンネルの掘削を始めた。掘削の騒音をカムフラージュするために、大音量で軍歌が流された。

そして、事件発生から127日後の4月22日にペルーの特殊部隊がこのトンネルから突入し72人の人質(日本人人質は24人)のうち71人を救出した。A大使は脱出の際怪我をしたが(脱出後しばらくは車椅子)、日本人は全員無事に脱出した。

公邸の2階の屋根を伝わって、身をかがめて脱出する人質の様子がライブでテレビ放送された。私は気が気でなかったが、日本人全員無事に脱出の報を聞いて安堵した。

この日、MARTAの侵入者は全員射殺され(これが後になって問題となったが)、この事件は解決した。