第33話  — 南米3カ国、ペル−、アルゼンチン、ブラジル訪問 — 【part3】

<アルゼンチン・ブエノスアイレスの目次>

・ブエノスアイレス・カソリック大学を見学

・大学の医師・学生・看護師によるオペラ・カルメン(抜粋)を見学

・クリニークとアルゼンチンタンゴ発祥の地カミニートを見学

・厚生大臣を表敬訪問

ブエノスアイレス

ブエノスアイレスに着いて,ホテルに荷物を預けてから、T知事の友人のY海軍大将の家に向かった。大将の応接室には、海軍大将の礼服とたくさんの勲章が飾られていた。大将一家では私たちを大歓迎して下さった。

大将の長男K君がブエノスアイレスのカソリック大学(UNIVERSIDAD  CATOLICA  ARGENTINA、医学部も併設されている。)の職員をしていた。私が医科大学の教授をしていたのをK君が知り、K君と私は急に親しくなった。

翌日、K君は私一人を彼の車に乗せて街を案内してくれた。「南米のパリー」と言われるだけあって広い道の両側には銀行、証券会社、ホテルなど個性的な美しい建物が整然と並んでいた。こんな立派な建物を建てることのできた国家が,現在極度の財政難にあえいでいるという。私にはとても考えられないことであった。この立派な建物を見ながら国家財政の厳しさ、恐ろしさを思い知らされたような気がした。よく見ると、これらの立派な建物はかなり老朽化していた。日本も財政難にならないように為政者は頑張って欲しいと心の中で願った。

アルゼンチンの国会議事堂

カソリック大学で歌劇カルメン(抜粋)を見学

その後、K君はカソリック大学の医学部の構内を案内してくれた。男子学生より女子学生の方が多かった。そのころ日本でも流行していた“臍だしルック”の女子学生がたくさんいた。大学はまだ新しい建物で、教室も整備されていた。

K君は「今夜6時半から、大学の講堂で学生と医師・看護師の共同で、ダイジェストですが“オペラのカルメン”が上演されます。私は夜、用事があるので一緒に聞くことはできませんが、もしご希望なら6時半前に講堂までお送りします。オペラが終了したら私の友人が,先生をホテルまでお送りします。」という提案があった。私は喜んで提案を受け入れた。

6時半少し前に講堂に着くと、すでに200人くらいの聴衆が坐っていた。K君は私をかなり前の見易い席に案内してから帰って行った。壇上には左にピアノ、中央少し後ろにバイオリニスト用の椅子、その奥に進行説明役の椅子とその右に大きなドラムセット(ドラム大1・中3・シンバロ2の組み合わせ)が置かれていた。

定刻少し過ぎにピアニストなど4人が入場。一礼の後、聞き慣れたカルメンの前奏曲が始まった。いつ聞いても心が躍るようなリズムの曲である。

前奏曲が終ると、進行役の女性が演壇中央に進み出て、カルメンの冒頭の粗筋を詩を読むような語り口で説明した。スペイン語なので私には分からなかったが、私は大体筋書きを知っていたので理解できた。粗筋の説明が終ると深紅のフラメンコ用のドレスに黒のマフラーのように柔らかいベルトを腰にしめたカルメンがフラメンコを踊りながら舞台中央に進み出て、踊りながらメゾソプラノでハバネラを歌った。アルゼンチンは昔スペイン領だったのでフラメンコの踊りは一級品だったし、歌もセミプロ級であった。読者の皆さんはほとんど筋書きをご存知と思うが、ここで、粗筋をお話しょう。

第1幕  

タバコ工場で働く大勢の女工の中で、男に人気のあるジプシーのカルメンは「ハバネラ」を歌って、男たちを誘惑する。この時カルメンが原因で喧嘩騒ぎが起こる。そのためカルメンは捕らえられる。護送を命じられた衛兵のドン・ホセはカルメンに誘惑されて、彼女を縛った紐をゆるめる。彼女は逃げ去ってしまう。

第2幕  

カルメンを逃がした罪で禁固となっていたドン・ホセは、以前カルメンから貰った花を手に持ってカルメンに愛を告白する。色香に迷ったホセは,カルメンにそそのかされて、脱走兵として、密輸をするジプシーの群れに身を投じる。だが、カルメンの心はすでに闘牛士エスカミーリョに移っていた。

(ここで20分の休憩があった。3幕の前にフルート奏者の美しい間奏曲が入る。)

第3幕  

ホセの故郷から、ホセの婚約者のミカエルが訪ねて来て、切ない気持ちを一人告白する。この時、ホセはミカエルから母親が危篤であることを聞き、カルメンに心を残しつつ、窃盗団から去り故郷に向かう。

第4幕  

1ヶ月後、闘牛場の前に闘牛士エスカミーリョと、彼の恋人になったカルメンが現れる。ここで2人の歌が入る。エスカミーリョが闘牛場に入った後、一人でいるカルメンの前にホセが現れ,復縁を迫る。復縁しなければ殺すと迫るホセに対し、カルメンはそれなら殺すがいいと言い放つ。激昂したホセはカルメンを刺し殺す。

この筋書きの流れに沿って、カルメンの歌うハバネラ、ジプシーの歌、セギデーリャの歌がフラメンコの踊りとともに歌われる。ミカエルの歌う手紙の歌、アリア「何が出ても怖くない」。エスカミーリョの歌う闘牛士の歌など、セミプロ級の歌手の歌はかなり知っている曲なので楽しく聞くことが出来た。アルゼンチンは昔スペイン領だったので、フラメンコの踊りも上手だった。バイオリンもピアノもドラムもセミプロ級の人であった。

2~3回のアンコールののちオペラ・カルメンは終了した。私は2、3分座席で待っていると、中年のご夫妻が「K君に頼まれているので、ドクターをホテルまでお送りします。」と迎えに来た。そして、宿舎であるホテルまで送ってもらった。

その夜は、在アルゼンチン日本人会がT知事の歓迎会を開いていた。その会場に行くと歓迎会は終わりに近かった。日本人会の幹事が、私のために厨房に頼んで鍋焼きうどんを作ってもらった。この日は日本人会の婦人部の人たちが厨房を手伝っていたので、鍋焼きうどんができたのであろう。

アルゼンチンで食べた鍋焼きうどんは,思いのほか美味しかった。

クリニークとカミニートを見学

翌日、私は係長と2人で、日系2世の経営するクリニークを見学した。丁度、リマのクリニークと同じくらいの規模であった。この診療所には、日本船舶振興会の笹川良一氏の銅像はなかった。院長の話では、アルゼンチンでは振興会からの援助は余りうけていないとのことであった。診療の方法や患者の対象もリマのクリニークとほとんど同じであった。約2時間、視察をした。

クリニック見学

予定時間より早く視察が終ったので、私の前回の旅行で印象的だったアルゼンチンタンゴ発祥の地カミニートに係長を案内した。

カミニートは原色の赤、黄、青、ピンクなど色とりどりの家々が並んでおり、広場には無名のアーチストたちの絵画が展示されていた。ここは、昔、港街として栄え、荒くれた男たちが酒場の中で男同士が荒々しく踊ったのがタンゴの始まりで、次第に娼婦たちと踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型ができていった。2〜3階建てのカラフルな建物はイタリア系移民の文化の名残で、今でもレストランや土産物屋として営業している。

私たちは1時間くらいカミニートを散策し、その雰囲気を楽しんだ。一緒に行った係長は、ほかの団員は見ていないアルゼンチンタンゴ発祥の地カミニートを見ることができたと喜んでいた。

タンゴ発祥の地カミニート。

カラフルな建物はイタリア系移民の文化の名残りでレストランや土産物屋として営業している。

 

まだ無名の画家達の絵が展示され、多くの観光客で賑わっている。

雑多な雰囲気の街である。

厚生大臣を表敬訪問

その翌日、T知事と私は厚生大臣を表敬訪問した。大臣と知事との懇談後、私はアルゼンチンの英雄で狭心症・心筋梗塞の冠動脈バイパス手術のパイオニアである世界的に有名な心臓外科医・Rene Favaloloの手術をクリーブランド・クリニーク(CCと略す)で見学し、10数年前にペルーで開催された国際外科学会の折、同じパネルヂスカッションで討論をしたことを話すと、大臣は相好を崩して、「ファバロロ先生をご存知でしたか。

彼はCCからアルゼンチンに帰ると、CCに負けないクリニークを作ると張り切って1975年にファバロロ(F)財団を設立し、450人以上のレジレンドを我が国とアメリカから招き、大きな成果を上げておられます。

今では南アメリカとアメリカ合衆国の心臓病学における最も大きな研究所の1つになっています。お知り合いなら今日、ファバロロ先生にお会いになりますか?」と大臣は言った。私は「今日は他に用事があるので失礼します。」とお断りした。

これは後日談であるが、2000年になってからF財団は深刻な経済危機に落ち入った。その経済危機は絶望的な状態に落ち入り、ドクター・ファバロロは同年7月自ら命を絶ったという。そのニュースを聞いて、あの立派な体格とバイパス手術の名手、豪快な生き方をしたファバロロ先生がと、私は絶句した。そして、ご冥福を祈った。

CCで見学したファバロロ先生の手術は素晴らしかったが、これについては機会をみてお話しよう。(既に“偶然からの大発見”にファバロロのことは紹介した)