第8話 南米で抱いた夢【part3】

【ブラジル・サンパウロ】

 ブエノスアイレスからヴァリグブラジル航空でサンパウロに向かった。翌日、サンパウロ大学で、旅行団の団長・中山恒明先生の“食道癌の手術”についての講演会が開かれた。約200人のブラジル人外科医が中山先生の英語の講演に耳を傾けた。大変盛況で、私も教えられることが多かった。

 この講演の後、榊原先生と私は、サンパウロ大学心臓外科のZerbini教授を訪ねた。丁度、教授はお部屋に居られた。「中山恒明先生の講演を聞いてから,急に教授にお会いしたくなり,アポイントもとらずにお訪ねしました」と来意を告げた。教授は「先生たちの来られることが分かっていたら、講演会を開いたのに……」と残念そうであった。

 

【建設中の心臓病センターと私の夢】 

 教授は「実は今、国立サンパウロ大学付属の心臓病センターを建設中です」と、大きな図面で説明してくれた。「もし、ご希望でしたら、建設中のセンターをご案内します」と言われたので、私たちは喜んで教授の後に従った。ヘルメットをかぶり、マスクをし、手袋をはめて、コンクリート打設後の塵煙のたちこめる中、階段を登って行った。教授は、コンクリートの部屋を指差して、「ここは手術室」「ここはICUになります」と、嬉しそうに説明してくれた。この建設中のセンターを見ているうちに、私は “いつの日か、このような心臓病センターを作ってみたい”という夢が膨らんだ。

 その夜は、教授の自宅に招かれた。大きな玄関を入ると、目に入ったのは、金や赤や緑で風景が描かれた古い大きな日本の扇子と、大きなケースに入った日本人形であった。その左右には、九谷焼と古伊万里の大きな壷と花瓶、それに大きな皿が数個飾られていた。教授夫人は「私たちは日本の陶器が大好きで、日本に行くと、金沢や佐賀県の有田には必ず行きます」と、親日家ぶりを話しておられた。おいしいブラジル料理をご馳走になった。その時教授は、「明年、心臓病センターが完成します。そのお祝いの後で、アマゾン川中流のマナウスで私が主催する学会を開きます。明年初めに招待状をお送りしますから、是非ご参加下さい」と親切なお招きをいただいた。

【サッカー観戦】

 

 翌日、私の友人が紹介してくれたブラジル駐在の商社マンH氏が迎えに来てくれた。私は、友人を通じてサッカー観戦をお願いしておいた。私たちはタクシーに乗ってサッカー場に向かった。そのころ、日本ではプロ・サッカー・チームは無く、もちろんJリーグもなかったので、本場のサッカーが見られると私は胸をワクワクさせていた。

 サッカー場に近づくと、次第に道路は渋滞してきた。窓から小さな旗を振っている車が多くなるとともに、渋滞はひどくなった。そのうち、たたみ3、4畳くらいの旗を竿に付けて、窓から上半身を乗り出して、何かの歌(たぶん応援歌)を歌いながら、旗を振っている車が現れた。その大旗をもった車が次第に多くなるにつれて、けたたましいクラクションが絶え間なく響いてきた。H氏は「もう戦いは始まっているのです。会場に入ると、もっと応援合戦は激しくなるから、驚かないで下さい。あの大きな赤い旗はA軍、あの黄色と緑の旗はB軍です」と解説してくれた。周囲の車をのぞくと、大人も子供も赤の縦縞のユニホームか、黄色と緑の横縞のユニホームを着て、大声を出していた。

 サッカー場に入ると、もう応援合戦が始まっていた。あの、たたみ4、5畳の旗が10数本ずつ、A軍とB軍に分かれて、それぞれ応援歌に合わせてリズミカルに振られていた。

 “キックオフ”の笛とともに、歓声は一層大きくなった。私たちの席は、正面中央の10段目くらいの見やすい場所で、丁度、A軍とB軍の応援団の真ん中に位置していた。かなりの時間、0対0の攻防が続いた。一瞬、B軍のゴールの前に、守備の選手のいないスペースができた。“アッ!危ない”と思った瞬間、A軍の選手がスルスルとそのスペースに入り込み、シュートすると,見事、ゴールに突き刺さった。A軍の応援団は全員立ち上がった。そして、大声の声援と拍手が場内に響き渡った。

 後半戦は1対0のまま一進一退の攻防が続いた。攻撃陣も守備陣もさすがはプロだと思わせる働きをしていた。30分くらいたった時、かなり後ろの座席から罵声が聞こえて来た。後ろを振り返って見ると、数人の殴り合いの喧嘩が始まっている。数人から瞬く間に20人、30人と広がっている。私たちの周囲の人たちも全員立ち上がって、殺気立っている。喧嘩はさらに広がって乱闘になった。

 座っていた私は身の危険を感じて立ち上がった。H氏も立ち上がって、「先生、危険だから逃げましょう!」と通路を走って、観客の少ない場所まで逃げた。そこでも観衆は殺気立ち、ゲームを見ている人は一人も居なかった。乱闘は広がるばかりだった。H氏は「この乱闘は治まりませんから、ゲームを見るのは諦めて帰りましょう」とサッカー場から外に出た。ちょうどタクシーが来たので、ホテルに帰った。

 その夜はH氏に肉の料理をご馳走になった。「何が原因で乱闘になったのですか?」と尋ねると、「原因は分かりません。サッカー場では些細なこと、例えば、ヤジが気にいらないとか、自分のひいきにしているチームがなかなか点を入れないとか、負けてしまったことが原因で乱闘に発展することがあります。さらに火災を引き起こすことさえあるのです」。H氏はビールを一口飲んでから、「ブラジルは多民族国家ですから、昔は民族紛争が絶えませんでした。政府は紛争のエネルギーを何かに向かわせるために、サッカーを国技にしたのです。そして、エネルギーをサッカーに向かわせました。サッカー場での乱闘なら民族紛争まで発展しませんから、政府もこの乱闘を大目に見ているようです」。

 続いてH氏は「どこのサッカー場にも、興奮した観客が2mくらいの高さの観客席から飛び降りて、グランドに雪崩込むのを防ぐために、グラウンドの外周に深さ2、3mの堀が全周に掘られています。興奮した観客のグラウンドへの突入を防ぐためです。」

 私たちのサッカー談義は食事中延々と続いた。H氏は「デザートにしましょう。2つ切りにしたパパイヤにバニラアイスをのせてお食べになったことはありますか? これは最高に美味しいですよ。これを注文しましょう」。確かにこれはおいしかった。私はそれ以来、今でもレストランではこのデザートを注文している。機会があったら、是非賞味していただきたい。

 

 

 

Tさんの墓に詣でる】

 

 翌朝、手紙で約束した時間にTさんの弟さんと、Tさんの息子さんが自家用車で迎えに来てくれた。Tさんの墓はブラジル式の石で作られた寝棺のような形の立派な大きい墓であった。病弱であった母を助けて、私を育ててくださったTさんのお墓に、お礼と感謝の気持ちを込めて花束をささげ、ご冥福を祈った。

 その帰りにホテルまで送ってもらった。そこで、私は「ペルーに味の素の工場があるのを知らなかったので、お土産に味の素を持ってきました。ブラジルでも容易に手に入る物でしょうが・・」と、持参した“味の素”を手渡した。Tさんの弟さん達は「ブラジルでは貴重品です」と喜んで受け取ってくれた。旅行中、重い味の素を持ってきた“かい”があったと思った。

 その夕方、Tさんの弟さんは、筒状の袋に入ったコーヒーを10本持ってきて下さった。私のトランクには入り切らないので、2、3人の団員にお裾分けした。

 

 翌日、バリグ・ブラジル航空で帰途についた。機中で“いつか、大きな心臓センターを作ってみたい”という私の夢は少しずつ膨らんでいった。

 

 このときサンパウロで抱いた夢は、10数年後に実現した。そのときのエピソードは機会をみて次回ご紹介したいと思う。