第9話 G軍V9に貢献した左のエースT投手【part2】

 【Tコーチの略歴

 TコーチをこれからしばらくTと呼ぼう。Tは広島県の出身で、高校時代、中国大会には出場したが、甲子園には出場出来なかった。そのころG軍の中国地区担当がKスカウトであった。TはKスカウトに見いだされてG軍に入団することができた。このころから、TはKスカウトに可愛がられたのだろう。これで、私はKスカウトがTの初診時に付き添いとして来院したり、病気見舞いに時々来られた理由が分かった。私はTの手術後Kスカウトとも親しくなったG軍に入団すると4月には一軍の公式戦に起用された。しかし、5月の試合で連続ホームランを浴びたため二軍に降格させられた。二軍での練習は厳しいものであったらしい。「若い時、毎日、地獄を見たおかげで、その後19年という長い現役生活ができました。」と後に述懐している。1966年から一軍に定着し、69年には22勝5敗で最高勝率、最多勝利、沢村賞、ベストナインに選ばれた。その後も5年間二桁勝利を記録し、G軍V9時代の投手陣の主力として活躍し、「左のエース」と呼ばれるようになった。左のエースという呼称は、Tに初めて使われるようになったのだという。

その後、左のエースという名称は定着して使われるようになった。73年にも23勝し2度目の沢村賞、ベストナインに選ばれた。その翌年から2勝、6勝と極度の不振に陥り、パ・リーグのN球団に移籍させられた。2勝、6勝のころは1点差負けのことが多かった。私は「あのころ、1点差負けが多かったですね。私はテレビを見ていて、打撃陣がもう少し頑張れば勝てたのにと,いつも思っていました。」と言うとTは「打撃陣のせいではありません。私の調子が極端に悪く、思うところに投げられず、打ち安いところに球がいってしまいました。」いかにもTらしい謙虚な真面目な答えであったTはN球団で再び復活し、80年に9勝、81年には14勝し、N球団の19年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献した。しかし、83年に左脚肉離れのため現役を引退し、引き続きN球団のコーチに就任した。この翌年、ヴァルザルバ洞動脈瘤のため手術目的で来院したのだ。

 Tは「私には1つ、心残りのことがあるのです。私は現役時代に、まだ9人の先輩しか達成していなかった2000奪三振を目標に頑張ったのですが、3つだけ目標に足りませんでした。」と残念そうに話してくれた。

【G軍の優勝祝賀会

 99年から古巣のG軍コーチ、二軍監督に就任した。このころから、G軍はセ・リーグ優勝、あるいは日本選手権優勝の年に祝賀会をホテル・ニューオータニで開いた。そのつど私は招待状を頂き、出席した。ニューオータニの地下玄関を右に曲がると、3室をぶっ通しにした大きい広間で祝賀会は開催され、1000人くらいの人でごった返していた。Tを見つけることが出来ないので、中央に陣取っている球団幹部のところに行った。そこで、私は自己紹介をしてから、Tを見つけて欲しいと依頼した。3分もするとTが現れた。体調のことなど話し終るとTは「誰かG軍の監督や選手でお会いになりたい人がいますか?ご紹介します。」と希望した人のところに連れて行ってくれた。そして、私は1時間くらい祝賀会を楽しんだ。

 その2、3年後、私は慈恵医大を辞し、埼玉県立循環器病センターの準備室に移ったため、Tを直接診察する機会はなくなったが、彼は律儀にも毎年盆暮れにYMというクッキーをたくさん贈ってくれた。

【山梨の大学硬式野球部監督に就任

 それから、数年して『山梨の大学の硬式野球部の監督になりました。若い学生と一緒に練習していると、新しいエネルギーを彼らから貰い、私も若者になったように元気で野球に打ち込んでいます。』という便りを頂いた。私は彼が元気で野球に打ち込んでいる姿を思い浮かべ喜んだ。それに、学生は何と幸せものだろう!彼のように、竹を割ったような真面目で謙虚で、責任感のある人に指導されたら、若い学生は多くのことを学ぶことだろうと,学生にも心の中でエールをおくった。

【衝撃のNHKのニュース】 

 2015年7月、偶然、NHKのニュースを見ていると、G軍のV 9に大きく貢献した左のエース、TM氏都内の病院で死去というニュースが流れた。そして、V9時代の華麗な投球ホームが紹介された。このダイナミックな投球ホームはアニメ「巨人の星」の主人公・星飛雄馬のモデルになったのだという。私はT氏は元気で活躍していると思っていたので、エッ!と驚いた。それは、まだ10日前にお中元として、例のYMのクッキーを贈って頂き、4、5日前に「お元気で,大学の野球部の監督を続けておられると思います。若い学生のエネルギーをもらって、若々しく野球を楽しんで下さい。くれぐれも無理はしないように!」とお礼状を書いたばかりであった。青天の霹靂という感じであった。

 このニュースが終わると私はテレビに向かってしばし黙祷した。高い身長。怒り肩。均整のとれた体格。横綱・柏戸の手形から指がはみ出したという大きな手。150kmを超えたという速球。謙虚で真面目で勤勉な性格などを思い出してご冥福を祈った。

 その年の暮れに、T氏夫人から喪中のはがきを頂いた。「先生に執刀して頂いたおかげで、29年間、主人は好きな野球に携わることが出来ました。本当に有り難うございました。」と添えられていた。享年69歳であった。  合掌。

文献  高橋一三  Wikipedia