【Tコーチの略歴】
その後、左のエースという名称は定着して使われるようになった。73年にも23勝し2度目の沢村賞、ベストナインに選ばれた。その翌年から2勝、6勝と極度の不振に陥り、パ・リーグのN球団に移籍させられた。2勝、6勝のころは1点差負けのことが多かった。私は「あのころ、1点差負けが多かったですね。私はテレビを見ていて、打撃陣がもう少し頑張れば勝てたのにと,いつも思っていました。」と言うとTは「打撃陣のせいではありません。私の調子が極端に悪く、思うところに投げられず、打ち安いところに球がいってしまいました。」いかにもTらしい謙虚な真面目な答えであったTはN球団で再び復活し、80年に9勝、81年には14勝し、N球団の19年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献した。しかし、83年に左脚肉離れのため現役を引退し、引き続きN球団のコーチに就任した。この翌年、ヴァルザルバ洞動脈瘤のため手術目的で来院したのだ。
Tは「私には1つ、心残りのことがあるのです。私は現役時代に、まだ9人の先輩しか達成していなかった2000奪三振を目標に頑張ったのですが、3つだけ目標に足りませんでした。」と残念そうに話してくれた。
【G軍の優勝祝賀会】
99年から古巣のG軍コーチ、二軍監督に就任した。このころから、G軍はセ・リーグ優勝、あるいは日本選手権優勝の年に祝賀会をホテル・ニューオータニで開いた。そのつど私は招待状を頂き、出席した。ニューオータニの地下玄関を右に曲がると、3室をぶっ通しにした大きい広間で祝賀会は開催され、1000人くらいの人でごった返していた。Tを見つけることが出来ないので、中央に陣取っている球団幹部のところに行った。そこで、私は自己紹介をしてから、Tを見つけて欲しいと依頼した。3分もするとTが現れた。体調のことなど話し終るとTは「誰かG軍の監督や選手でお会いになりたい人がいますか?ご紹介します。」と希望した人のところに連れて行ってくれた。そして、私は1時間くらい祝賀会を楽しんだ。
その2、3年後、私は慈恵医大を辞し、埼玉県立循環器病センターの準備室に移ったため、Tを直接診察する機会はなくなったが、彼は律儀にも毎年盆暮れにYMというクッキーをたくさん贈ってくれた。
【山梨の大学硬式野球部監督に就任】
それから、数年して『山梨の大学の硬式野球部の監督になりました。若い学生と一緒に練習していると、新しいエネルギーを彼らから貰い、私も若者になったように元気で野球に打ち込んでいます。』という便りを頂いた。私は彼が元気で野球に打ち込んでいる姿を思い浮かべ喜んだ。それに、学生は何と幸せものだろう!彼のように、竹を割ったような真面目で謙虚で、責任感のある人に指導されたら、若い学生は多くのことを学ぶことだろうと,学生にも心の中でエールをおくった。
【衝撃のNHKのニュース】
このニュースが終わると私はテレビに向かってしばし黙祷した。高い身長。怒り肩。均整のとれた体格。横綱・柏戸の手形から指がはみ出したという大きな手。150kmを超えたという速球。謙虚で真面目で勤勉な性格などを思い出してご冥福を祈った。
その年の暮れに、T氏夫人から喪中のはがきを頂いた。「先生に執刀して頂いたおかげで、29年間、主人は好きな野球に携わることが出来ました。本当に有り難うございました。」と添えられていた。享年69歳であった。 合掌。
文献 高橋一三 Wikipedia