第5話 静岡S病院の手術応援【part1】

【自衛隊機が東海道本線線路に墜落】

静岡の病院で第1例目の心臓手術の執刀を依頼されて東海道線の列車に乗った。まだ新幹線のできていない1962年ころのことで、私は東京女子医大に勤務していた。私は女子医大の関連病院で手術の執刀をしたことはあるが、今度のように心臓手術を全く経験していない他大学出身の医師と手術を一緒にする、いわゆる他流試合は初めてであった。私にも多少の緊張感があった。乗車してから1時間くらい経ったころだろうか。窓際の席に座っていた私は、ふと空を見上げた。すると垂直に降下してくる飛行機が見え、すぐ視界から消えた。こんな垂直飛行訓練をすることがあるのかと不思議に思った瞬間、ドンという大音響とともに列車は何か大きな物にぶっつかったように大きく揺れてガックンと急停車した。私の体も大きく前後に振られた。室内の電灯も同時に全部消えた。車内放送は無く、何が起こったのか全く分からない。10分たち20分くらいたった頃、口伝えに、状況が分かった。上り列車と私たちの乗っている下り列車の距離は200mくらいで、自衛隊機がその真ん中の電線を切断して線路上に墜落した。もし墜落が10秒遅れたら上・下の列車がすれ違うちょうど真ん中に落下して、あわや大惨事になったであろうという情報が流れた。私は“あの垂直に急降下していた飛行機は練習ではなく墜落したのだ”と納得した。

1時間経っても2時間経っても列車は動かず、車内放送も無い。腹が空いたので食堂車に行った。スタッフは「申し訳ありません。材料はあるのですが、停電のため焼くことも煮る事もできません。」と謝っていた。

3時間4時間経っても列車は動かない。私はこんなに動かないのでは、静岡に着くのは午後4時か5時になる。これでは手術は中止になるだろう。何処かの駅で上り線の列車に乗り換えて東京に帰ろうと思った。5時間近くたってようやく列車は動き出した。車内放送は「大変ご迷惑をお掛けいたしました。ようやく架線工事が終りました。次の停車駅は富士宮。富士宮です。」と通常、急行列車の止まらない駅を告げた。

列車が駅に到着するのを待っていたかのように「東京女子医大の新井先生!この列車で静岡までおいで下さい」という駅構内の拡声器からアナウンスが3度流れた。静岡に着くと2人のドクターが迎えてくれた。「お疲れのところ申し訳ありませんが、少しお休みいただいてから、予定通り手術をしていただきたいと思います。」そして午後5時ころ、昼食にサンドイッチを食べて手術に入った。

患者さんは僧帽弁狭窄症だったので、用指交連切開術で狭窄を解除した。手術は1時間半程度で終わり、患者さんはすぐ目を覚まし、血圧も正常であった。自衛隊機墜落後の手術は、あっけないほどスムーズに、そして成功裏に終了した。

【S病院A部長との初めての出会い】

 私が静岡のS病院に手術を依頼されたのは、次のような経緯からである。

女子医大・日本心臓血圧研究所では年に1度、開業医を対象に2日間の“心臓病講習会”を開いていた。内科のH教授が主導し、ほとんどの講義をH教授が担当したが、心臓手術の見学、小児心臓病、アンジオカルヂオグラヒー、心臓カテーテル検査は別の講師が担当した。その年、私は2日目の最終講義として心臓カテーテル検査を担当した。講義が終ると3、4人の聴講者が残って、一人ひとり私に質問をした。最後に残った聴講者は、名刺を差し出して「私は静岡のS病院の呼吸器(肺)外科の部長をしているAと申します。私はこれからS病院で心臓の手術を始めたいと思っています。ご迷惑とは思いますが、先生に静岡に来ていただいて、ご指導いただけないでしょうか。」という申し出であった。私は「心臓の手術を始められる方は、3、4ヶ月から半年くらい心研に内地留学をされ、心研のa班とかb班に配属されて、そこで勉強されてから始められます。先生も内地留学をされては如何ですか。」と返事をした。A部長は「私も内地留学を考えたのですが、S病院では週4、5例の肺外科手術があり、私のほかはまだ1人で手術のできる外科医はおりません。私が内地留学をして留守になると肺の手術ができなくなります。そのため、先生にご足労でも静岡に来ていただきたいのです。」「私は、まだ多数の手術を経験していませんから・・・」と言うと、部長は「昨日、手術の見学の時間に、中2階の手術見学室から先生の手術を拝見し、ぜひこの方に来ていただこうと心に決めました。先生を見込んでのお願いです。ぜひお願いします。」と懇願された。ここまで言われてはと思い、承諾した。A部長は「最初、1度、患者さんを数人集めておきますので、その診察に静岡までおいで下さい。その時、手術第1例目の患者さんを選んでください。」と言われた。

その1ヶ月後に私はS病院に行き、数人の患者さんを診察した。その中の1人が自衛隊機の墜落した日に僧帽弁狭窄症の手術をした患者さんであった。

【3例目に大出血】

 

 
 2例目は順調であったが、3例目にアクシデントが起こった。25歳男性の動脈管開存症(ボタロー氏管開存症、PDA)の症例である。動脈管とは胎生期に肺動脈から大動脈への抜け道となっている大切な血管で、普通オギャーと泣いた時にほとんどが自然に閉鎖する。しかし、それが閉鎖しない症例を動脈管開存症といい、先天性心疾患の5%前後にみられる。新生児、乳幼児の時期でも呼吸が荒く呼吸回数が多い症例やミルクは飲むが体重が増加しない症例など心不全症状の現れた症例は乳幼児期に手術する。一般には小学校入学前に手術するが、成人してから心不全症状が現れるようならその時に手術をする。

 この男性の手術は左開胸で入り、動脈管を十分に剥離し、これに2本の太い絹糸を通した。まず肺動脈側の糸を結紮した。ついで大動脈側の糸を結紮した。「これで手術は終わりです。」と私は言って結紮部から指を離した。とたんに烈しい出血が起こった。結紮した糸が動脈管に食い込んで一部が裂けたのだ。

私は心のなかで“ウ−ン”と唸った。PDAに対して私の初めてのアクシデントである。私は幸い同じアクシデントを起こした先輩の手術を見ていたのでその対処方法は知っていた。先ず裂けた部位を左の母指と人差し指でおさえて止血を試みた。私はアクシデントを起こした時の心構えとして, “起きてしまったアクシデントは仕方がない。ここで慌てず、冷静になって、2つ目、3つ目のアクシデントを起こさないようにしよう。”と自分を戒めることにしていた。

 これは、ある若い婦人が冬の東北を旅行した時の話である。道は雪が積もりアイスバーン状になっていた。注意して歩いたが、滑って転んでしまった。“うわー、恥ずかしい”と思って、あわてて立ち上がったとたん、足先が飛び上がるような格好になってお尻をアイスバーンに嫌という程叩き付けた。翌日、余り痛いので病院でレントゲン写真をとってもうと、尾てい骨骨折と言われ、2ヶ月くらいの安静を命じられた。「最初に転んだときに慌てないで気をつけて立ち上がれば尾てい骨骨折は起こさなくてすんだと思います。恥ずかしいと慌てて立ち上がったのがいけませんでした。」2度目の失敗が致命傷になる時がある。これは手術でも同じである。

 私は先ず出血した動脈管より下部の大動脈を剥離して太いテープを通した。だが、左手は出血部を押さえているので右手一本で動脈管の上部の大動脈を剥離するのは大変だった。助手をしていた2人の医師もこんなアクシデントに直面したのは初めてだろう。何しろ2人とも心臓手術にタッチしたのさえ初めての医師である。しかし、2人とも真剣に協力してくれた。苦労をしたが、それでも何とかPDAより上部の大動脈にテープを通すことができた。左の母指と示指は長時間、出血部を押さえていたので“ばか”になっていた。上下の2本のテープを径1cmくらいのゴム管(ターニケット・シース)にそれぞれ通した。上方のゴム管を大動脈に押しつけるようにテープを引っ張ってから、これを鉗子ではさんで止めた。ついで下のテープも同じように引っ張って鉗子で止めた。これは前立ちの医師(第1助手)に行ってもらった。出血部に行く血液が少なくなったので、出血は少量になった。ここで私の左右の手は自由になった。そこで、動脈管と大動脈の間の裂けた部位にテフロン・パッチを用い、それにU字に糸を通し、テフロン・パッチとパッチをサンドイッチのように減張縫合をして止血した。さらに減張縫合を2針加えた。これでほとんど止血できた。テープをゆるめても出血は認められなかった。

 止血に約1時間半を要したが、私も助手をしていた医師たちもホッと胸を撫で下ろした。その後、この患者さんの状態は安定していた。

 それ以後、私は高年齢で肺動脈高血圧のある症例は、PDA結紮あるいは切断は大出血の危険が大きいので、人工心肺装置を用い,体外循環下に肺動脈を切開して、肺動脈側から動脈管を閉鎖する方法を開発し、この方法を用いている。