第10話 長野県S病院への手術応援【part2】

【心臓手術を日曜日に変更】

 初めて手術に行った時から4、5年すると、病院は木造から鉄筋コンクリート造り5階建ての立派な病院に立て替えられた。手術室は2階にあり,天井も高く十分に広い部屋で、ICU(集中治療室)も手術室に近く便利になった。働くスタッフ達も活気に満ちていた。この頃、私は女子医大から母校の慈恵医大に帰った。慈恵医大で心臓外科を新設したので、医局員はまだ少なく、私は病院を1日空けるわけにゆかなくなった。そこで、T部長にお願いして、手術日を日曜日に変えてもらった。S病院のスタッフからは何の不満もなく、日曜日の朝から元気に働いてくれた。私の無理を通していただき、協力してくれるスタッフに私は心から感謝した。

【同郷、中学同窓の先輩A副院長との会食

 そのころから、夕食は病院のそばの小さな食堂に連れて行ってもらうことが多かった。いつも副院長のA先生がおしょうばんをして下さった。副院長は私と同郷の秩父出身の人で、熊谷中学で私の4年先輩であった。そのため、自然に中学時代の教師や軍事教練、共通の友人の消息などに広がり、さらには、熊谷から秩父まで徒歩で競争する剛健行軍、秩父夜祭りや吉田の龍勢祭りなど話はつきなかった。

 副院長は顔全面に火傷の瘢痕があった。話によると、太平洋戦争中、乗っていた輸送船が南洋で米軍の飛行機の爆弾により沈没し、海に放り出された。海面は沈没船から流出する重油で覆われ、それに引火し、火の海のなかを泳いで逃げた。その重油の火によって顔全面を火傷したのだという。“あんな火の海の中を泳いで逃げて、よく助かりました。3分の2以上の戦友が溺死してしまいました。”と感慨深そうに話してくれた。私は年齢の関係で軍隊には招集されなかったが、私より年齢の上の方々は大変な苦労をされたのだ。 

【秩父の夜祭りと芸能など

  秩父出身の私たちは郷土の祭りや芸能、秩父の山の登山などの話をすることが多かった。そのいくつかをご披露しよう。

・まず、“秩父夜祭り”である。12月3日を中心に行なわれるこの夜祭りは日本三大曳山祭りの1つで、豪華な4台の屋台、2台の傘鉾が華やかに曳行(ルビ:えいこう)される。300年以上前の寛文年間から盛大に行なわれるようになったという。クライマックスは3日夜の4台の屋台(1台最大20トン)と2台の傘鉾が、急な団子坂を大勢の曳手によって引き上げられ、お旅所(秩父公園)に到着する。この引き上げられる光景は迫力がある。私はある年、秩父市長から贈られた切符で妻と一緒に坂の上にある桟敷席に座った。まず坂の下から引き上げられる屋台の屋根が見え、次第に全容が見えてくる。

屋台を引く人は100人以上、屋台の左右には10人くらいの屈強な若者が、屋台の両脇や大きな車を押していた。この時、秩父公園の裏手では花火が打ち上げられる。1夜で約7000発だという。私は以前、次々に絶え間なく打ち上げられるこの花火を別の場所から見たが、絢爛豪華であった。しかし、この夜の花火は市庁舎に遮られて桟敷席からは音は聞こえるが、見ることは出来なかった。曳き手の大きな掛け声と急調子の小太鼓と力一杯叩く勇壮な大太鼓の祭囃子によって、屋台がやっと1台が上り切ると、次いで2台目が現れ、次々と屋台が現れた。1台目のときは胸がワクワクしたが、4台目ともなると、同じことの繰り返しなので、この頃、帰ることにした。

この祭りは2016年、ユネスコ無形文化遺産に登録された。

・私の生家は秩父の仲町であった。屋台が曳行されて、ちょうど家の前で止まる。そこで屋台の2階部分で、古色ゆかしい、美しい着物を着た芸子さんの踊りが披露される。ちょうど踊りの高さと私の家の2階が同じ高さだったので、遮るものがなく、1等席であった。それを“曳き踊り”というらしい。私の4、5歳頃の思い出である。

 ・屋台の曳行中に屋台の1階部分の狭いところで演奏される“秩父屋台囃子”は、大太鼓1、小太鼓4、鉦1、笛1で構成される。この演奏は4つの楽器の音が調和し、また、実にリズミカルで、聞いているとワクワクする。屋台を船に見立て、大波と小波を大太鼓と小太鼓で叩き分ける。平坦な道は小太鼓の緩やかなリズム。坂道にさしかかると、笛の高調子、小太鼓の急調子とともに大太鼓が満身の力を込めて打ち続けられる。これは勇壮なリズムである。屋台はこのリズムに合わせて団子坂の急坂を登り、御旅所である秩父公園まで登るのである。 

・白久の串人形芝居

幕末の頃、卵の殻に顔を描いて人形としたのが起源といわれている。体長60cmの人形1体を2人で操り、人形の手の操作に竹串を使い、繊細な動きをする。人形は義太夫の曲にあわせて喜怒哀楽を表現するという。文楽に似ているのではないだろうか。

・歌舞伎

秩父市や小鹿野町では“歌舞伎”が盛んである。子供歌舞伎、若手歌舞伎、女歌舞伎なども常設舞台や掛け舞台などで上演されている。このほか、鉄砲祭りや秩父盆踊りなども有名である。

・龍勢祭り

 
  龍勢祭りは、吉田の椋神社に奉納する“龍勢祭り”(農民ロケットとも言われている)で、江戸時代初期から秋の例大祭の祭礼に近隣の農民たちが、龍勢(手作りロケット式花火)を奉納したのが始まりだという。長い竹と松材の火薬筒からなり、これに硝石10、炭2、硫黄1の割合を標準とする火薬を詰める。20以上ある流派によってその薬の調合は異なる。そして、約15分間隔で1日30発以上の龍勢が打ち上げられる。

 私は道路より3mくらい高い,20人くらい座れる桟敷席で見物した。まず、「東西!東西!」で始まる口上がこの桟敷席の前で始まる。数mの長さの龍勢を10人くらいの人が捧げ持って、各流派の起源や特徴、今年の龍勢に対する意気込みや抱負、1年の熱い思いなどを、謡に近いそれぞれ独特の節回しで、歌うように披露する。どの流派も自己宣伝があり、この独特の口上は聞いているだけで楽しい。そして「椋神社へのご奉納」で口上は終る。

 その後、各流派の人たちによって、芦田山中腹に立てられた20メートルくらいの発射櫓から龍勢(ロケット)が打ち上げられる。打ち上げられた龍勢は白煙とともに数百メートルの高さまで龍の如く舞い上がり、吊るし傘や落下傘を放出して落下する。見事天高くまで舞い上がった時はその流派の人はもとより、観衆も満面の笑みとともに、大きな喚声と拍手がわき起こる。

しかし、成功は3発か5発に1発くらいで、発射櫓の近くや、50メートルくらいの高さで自爆する龍勢がある。あるいは、もう少しで成功という直前に自爆する龍勢もある。全部が全部成功するよりは自爆があるのが面白い。自爆すると観衆からは笑い声に似た喚声と大きな拍手がわき起こる。この自爆があり、成功があるので見ているほうは心底愉快になる。しかし、製作に携わった人たちは、1年の努力と思いが込められているから笑い事ではない。成功と失敗、この悲喜こもごもの人生模様が、ファンの多い理由であろう。観衆は1万から2万人に及ぶという。

・秩父の空は狭い

 秩父は秩父の山々に囲まれた盆地である。秩父に実家のある熊谷生まれで熊谷のデパートの社長をしていた友人が“秩父の実家に帰った時に、秩父の空を見上げると空が狭いなあと感じます”と話していたが、関東平野の真ん中の熊谷で見る空と秩父の空は違うのであろう。私は全く気づかなかった。“空が狭い”という話を聞いた時、高村光太郎の千恵子抄のなかの“千恵子は東京に空が無いという、/ ほんとの空がみたいという。/ 私は驚いて空を見る。……”を私は思い出した。私も驚いて空を見上げた。確かに、秩父の空は周囲の山々に視界を遮られて少し狭くなっている。社長の実家は周囲数百メートルを山々で囲まれているから極端に空が狭い。私は毎日見ていたのに、全く気がつかなかった。少し狭い空が、秩父の本当の空である。

・雲取山、甲武信岳縦走登山計画

 このように山また山の土地だから、登山愛好者も多い。私は中学1年生の夏休みに、

5年生のFさんをリーダーとする登山にクラスの5人とともに参加した。当時、中学校は5年制であった。その登山の計画は、三峰神社を出発し、標高2,017メートルの雲取山から標高2,475メートルの甲武信岳を縦走する5泊6日の登山であった。Fさんは10数回秩父の登山をしたベテランだったが、私たち6人の1年生はみな初めての登山だった。

 三峰神社を出発し雲取山に向かった日は晴天で、下界の暑さを忘れさせる清々しい空気に包まれていた。このころは、皆、元気で足取りも軽く速かった。次第に標高の高い所に登って行くと、周囲の山々は下になり、遠い高い山々が現れる。その山々の下に雲がたなびいている。その美しい光景を眺めながら前進した。誰からともなく“来年もまた来よう”という声が起こった。登山の楽しさが少しずつ分かってきた。

 5、6時間かかって雲取山の山小屋に到着した。夏休みのために山小屋はかなり混んでいた。Fさんは「今日は、山小屋の夕食をご馳走になるが、明日からは飯ごう炊爨(ルビ:すいさん)の飯と缶詰になる。夕食を感謝しておいしくいただきなさい」と私たちに言った。雑魚寝であったが、疲労のためかよく眠れた。

 早朝、雲取り山荘を後にして、甲武信岳に向かった。午前中は晴天で一同元気に行進した。登るに従って周囲の山々は高くなり、濃淡のある緑が美しかった。ところが、午後になると、急に雨が降り出した。次第に本格的な雨になった。各自、リュックサックからレインコートや雨合羽を取り出して、頭からすっぽりかぶった。当時のレインコートなどの雨具の防水は完全でないので、2時間もすると雨水がコートの裏側までしみこんできた。その頃から、1年生の歩行速度は急に遅くなった。Fさんは「この速度では到底甲武信ヶ岳に今日中には到達できない。甲武信への登頂はあきらめて、夕暮れ前に近くの山小屋を見つけよう」と計画を変更した。それから2時間後に番人のいない山小屋が見つかった。全員ずぶ濡れであった。幸い、登山協会の肝いりで薪はうずたかく積まれていた。薪に火をつけ、水を汲んで来て飯ごう炊爨をした。初めてにしては上手に炊け、缶詰を開け、けっこうおいしい夕食だった。翌日も雨、その翌日も雨。霧で100メートルくらいしか前方が見えない。黙々と足下を見て歩くだけである。私たちのなかに、虫に食われたのか、顔が真っ赤に腫れ上がった者、中耳炎のような症状の者もでた。Fさんは、その日その日、山小屋を見つけてくれた。Fさんは「このまま登山を続けるのは無理だから、1日早く下山しよう。」と提案した。皆んな賛成であった。最終日は曇り。下山は順調で、午後2時頃、大滝村栃本の集落が見えた時には,私たちは歓声を上げた。しばらくぶりに見る、人の住んでいる家である。栃本は江戸時代関所のあった所だ。ここから秩父鉄道の三峰口までは数kmだ。急に全員元気が出た。そして、秩父電鉄に乗って各自の家に帰った。

 家に帰った私は大きいスイカの半分を餓鬼のように食べた。父と母は、元気で帰った我が子を見ながら「新鮮な果物のヴィタミンが不足しているのだろう。たくさん食べなさい」と目を細めていた。

 2学期になって、仲間が集まったが、明年また登山に行こうという者は1人もいなかった。3日間続いた雨中の、しかも初めての登山は私たち1年生には、それほど過酷なものだったのである。