第19話 狼藉者はXX蜂 【part1】

 平成という年号もこの四月で終る。そして、現在、平成31年だから、この話は31年以上前のことになる。

 I ) 城下かれい

 私は大分医科大学の心臓外科の教授・S先生とは親友であった。

 丁度私が心臓の人工弁SAM弁(榊原・新井・メラ)を作成したころ、S先生はSAM弁を使用してくださった。

 また、それから暫く後になるが、S先生は重症心疾患の患者が、手術後、強度の末梢循環不全に落ち入った場合、フェノキシベンザミンを使用すると末梢循環不全が改善するという論文を発表した。私の手術した患者さんが末梢循環不全に落ち入った時、S先生の提唱したフェノキシベンザミンを使用したところ、症状が劇的に改善にした。

 その当時、人工心肺装置を用いた開心術中に、手術患者の心臓を良好な状態に保つ目的で心筋保護法という新しい方法が開発され、欧米で使用され始めていた。日本にも導入され多くの病院で使用されたが、まだ高カリウムをベースとした心筋保護液の組成が完成途上であり、さらに使用方法が未熟だったため、末梢循環不全から重症な心不全に落ち入る症例が多くみられた。これらの症例の循環を補助するため補助人工心臓が開発され一定の効果を上げていた。しかし、補助人工心臓は高価で、しかも使用方法がかなり難しく、長期間使用するため患者さんの肉体的苦痛も大きかった。そのため、私は補助人工心臓の使用を躊躇していた。

 そのころ、前述したS先生が開発したフェノキシベンザミン療法の論文を読み、またS先生から直接指導して頂いた。さらに某製薬会社の協力を得て、私はかなり長い年月フェノキシベンザミンを使用し、多くの症例を救命することが出来た。

 SAM弁とフェノキシベンザミンという、この2つのことがきっかけとなって、S先生と私は大変親しくなった。そのため、S先生は東京に出張された度に、会議の後に時間を作り、私の手術を見学に来られた。また、心臓外科学会や外科学会の折など、私たち夫婦は昼食を4人で一緒にすることも多くなり、いわゆる家族ぐるみのお付き合いとなった。そして、年に1度くらい、S先生は医師会での講演や、学生の心臓外科の講義のため、私を大分に招いて下さった。そして、たまに私たち夫婦を大分にお招きいただくこともあった 。

 そのころの海上の交通はホーバークラフトであった。空港からほど近い海辺の砂浜にあるホーバークラフトの乗り場まで歩いて、ホーバークラフトに乗り、楕円状をしている別府湾を一回りせず、別府湾を横切るように、最短距離で大分の船着場に直行した。

 ホーバークラフトは上部から艇底に多量の空気が常に送り込まれ、その空気が外に漏れないように、艇底の全周に消防車に用いる消防ホースの如く、ジャケットにライニング(内張り)を施した厚い長い布をスカート状につけ、スカート内の空気(航行中も空気は常に艇上部からスカート内に送り込まれている)の力で艇全体が海面に浮かび上がる。そのため艇底は海面の抵抗を受けない。また、艇の後部に直径2メートルくらいある大きな扇風機様のプロペラがあり、その推進力を得て飛行機のように、海面上を飛ぶように航行する。私は初め危険な感じがしたが、慣れると飛ぶように走る爽快感を味わった。現在は中断されているとのことで残念な気持ちがする。

 大分の港には、心臓外科の医局員が迎えに出ていて、医大に直通した。

 医師会の講演の時は、講演後、宴席が用意されており、4〜50人の医師会の先生たちと食事をさせて頂いた。城下かれい、関あじ、関さばがメイン料理であった。10人くらいのテーブルに私の席を用意して頂いた。宴会中に私が、城下かれい、関さばなどの名前の由来や生息地などを質問すると、待っていましたとばかりに、同じテーブルの先生たちが各自蘊蓄を傾けて説明をして下さる。その説明は人、人によって多少の違いがあるが、自分の説明が一番正しいと思われているため、ディスカッションのような感じになる時もあった。それは各先生が郷土の魚を如何に愛し、大切にし、また自慢しているかが分かる。そしてまた私を大歓迎して下さっているかが分かり、私は楽しく医師会の先生たちの話を聞き、また質問したりして、食事を楽しませて頂いた。

 医師会の先生方の話を総括すると次の如くである。

 

城下かれい(しろしたかれい)

 

 城下かれいは大分県日出町で漁獲されるマコガレイで、城下カレイとか城下がれいと表記されることがあるが、ブランド名として正確な表記は 「城下かれい」 であると言う。別府湾に面する日出(暘谷)城趾(註)の南の海底の数カ所から真水が湧き出る。このため、この海域では塩水性と淡水性のプランクトンが大量に発生するため餌が豊富で、ここで育ったマコガレイは肉厚で、泥臭さが無く、味は淡白で上品であるという。その姿も、頭が小さく尾ヒレが大きく角ばっていないという形態上の特徴をもち、他の場所で漁獲されるマコガレイとは区別されているという。

 昭和初期、美食家として知られた木下鎌次郎氏の「美食求真」という本で日本の名物料理八選の1つに選ばれ、その後、城下かれいとして有名になった。

 調理法は刺身(梅酢を使ったタレで食す)、寿司、吸い物、天ぷら、唐揚げ、煮付けなどである。

 

 (註)暘谷(ヨウコク)城 (日出城とも言う):豊臣秀吉の妻、ねねの甥にあたる木下延俊が慶長6年(1601)に築城した海に面した城で、天守閣は3層であった。現在は当時の石垣のみを残しているが、この城の南の海底から真水の湧き出るところが数カ所あり、そこで捕獲されたマコガレイを城下かれいと言っている。

 この城趾から高崎山を望む別府湾の眺望は、大分県百景の1つに数えられるほど素晴らしいという。

関あじ・関さば

 瀬戸内海と太平洋の境界に位置している豊予海峡は、九州と四国(佐多岬)の間の海峡で、海流が非常に速く、1年を通じてプランクトンなどの餌が豊富である。この周辺に回遊魚であるアジ・サバが居着いていると言う。水温の変化が少なく、潮流が速いため、アジやサバは肥育がよく、身が引き締まっている。この海域は波が高く海底の起伏が複雑なため魚網による捕獲に適さないので、伝統的に「一本釣り」が行なわれている。

 いずれも美味で、高給ブランド魚と知られている。

 医師会の先生方との宴席は酒が少し入っているせいもあり、ユーモアあり、駄洒落ありで、楽しい1夕を過ごさせて頂いた。上記の魚類の他に、大分の「かぼすも」も自慢の種であった。

 

【part2へ続く】