第54話 —Francis Fontan教授— 【part3】

第30回日本胸部外科学会の招請講演にフォンタン教授を招く。

1976年のある日、第30回日本胸部外科学会会長の東京医大・早田義博教授から電話が掛かって来た。その要旨は、明年開催する日本胸部外科学会に i )世界でも有名な心臓外科医を招請講演者として招きたい。
ii ) その教授は日本に1度も来訪したことのない人が望ましい。そういう教授を紹介して欲しい、ということであった。

私は直ぐフランス・ボルドー大学のフォンタン教授の名前を挙げた。フォンタン教授は、それまで根治手術の出来なかった三尖弁狭窄症に対しフォンタン手術を開発し、今、世界が注目している50歳前の若手教授で、英語も堪能で、現在まで日本に来訪したことがない、と彼を推薦した。早田会長は2、3の人と相談してみる。若し、フォンタン教授に決まったら、力を貸して欲しい、との電話であった。

2、3日後、再び電話で、フォンタン教授に決定したので、教授に手紙を出して、1977年の9月22日から25日までスケジュールが空いているか、招請講演に来てくれるか聞いて欲しい。フォンタン教授がOKなら、その後の詳細は学会事務局が教授と連絡をとる、とのことであった。私が手紙を出すと直ぐ、OKの返事が来た。その後は学会事務局に任せた。

フォンタン教授来日。その日、私は彼を銀座のミキモト真珠店に案内した。

フォンタン夫妻が来日した1977年9月21日、私は羽田空港(成田国際空港は翌年の1978年5月に開港)に迎えに行った。東京医大の2人のドクターも迎えに来ていた。私はフォンタン夫妻と同じ自動車の助手席に乗った。そして、ボルドーで大変お世話になったお礼として、今日は、これから銀座のミキモト真珠店に寄って、夫人に真珠のネックレスを進呈したいという話をした。4、5分後教授は“私は今、ネックレスを買うだけの金を持って来ていない。そのネックレス代はドクター新井が払ってくれるのか?”と心配そうに念を押した。私は“その金はボルドーに一緒に行った人達から預かっているから、全く心配はない”と答えた。

ミキモト真珠店では、店員が夫人に似合いそうなネックレスを数本選んでくれた。夫人は、その中から気に入ったネックレスを選んだ。私が現金で支払おうとすると店員は“貴金属品には、現在20%の課税がかかっています。しかし、外国の方でパスポートを持っておられる方は、その20%が免税となります。免税分でご主人に真珠のネクタイピンかカフスボタンを差し上げたら如何ですか?”と嬉しいサゼスションをしてくれた。教授に話すとタイピンがいいというのでタイピンを進呈した。

フォンタン教授の招請講演

フォンタン教授の招請講演は学会2日目であった。

題名はAtrio-pulmonary conduit operation in tricuspid atresiaで、心房−肺動脈に弁付き導管を用いた三尖弁閉鎖症の手術であった。まだ開発されて間もないフォンタン手術の講演を聞こうと会場は満席の盛況であった。その盛況をみて私はフォンタン教授を会長に推薦したのを誇らしく思った。講演後の質疑・答弁も活発に行なわれた。

椿山荘でフォンタン夫妻の歓迎晩餐会を開催。

その日の夕刻、ボルドーに行って手術を見学した人達(団員)で、夫妻の歓迎晩餐会を椿山荘で開いた。
椿山荘は、手入れの行き届いた広い日本庭園がある。そこには、滝があり、小高い丘には五重塔もある、。私たちはその庭園をゆっくり散策した。
彼らはいつでも美味しいフランス料理が食べられるので、今回は日本料理と日本酒で歓迎することにした。

歓迎会は、ボルドーでたくさんの手術症例を見せてもらい、自宅で美味しいカモ料理をご馳走になったことのお礼の言葉から会を始めた。団員から集めた金で、真珠のネックレスとタイピンを買ったので、夫妻にはそれを団員に披露してもらった。夫人は背のスラットとした美人なので、ネックレスも大変似合っていた。教授もタイピンを披露し、夫婦で素晴らしい贈り物を頂いたと感謝のお礼が述べられた。団員は一人一人短いスピーチをし、英語の堪能な団員が英語に訳した。

夫妻は日本食、日本酒も合うらしく、“美味しい、美味しい“と食べてくれた。
教授は“団長さんにと”と言って、paris Dupontの万年筆をプレゼントしてくれた。
私は10年以上この万年筆を愛用した。

学会の会期が終ってから、東京医大の担当者は教授夫妻を京都・奈良に案内した。その後、夫妻はフランスに帰られた。

アテネの国際心臓血管外科学会に出席。

1981年の9月、いつもの視察団の人達とアテネの学会に参加した。

ここでギリシャのアテネについて説明しよう。
アテネはギリシャの首都で、古代ギリシャ語ではアテナイと言った。バルカン半島南東部のアテイキ平野に位置し、南西はサロニコス湾に臨む外港ピレエフスに続く。東はエーゲ海,西は地中海である。アテネはギリシャの政治、経済,文化の中心地であるアクロポリスの丘を中心に発展した。
紀元前8世紀ポリス(古代ギリシャの都市国家)として成立し、貴族政治が行なわれた。前6世紀には民主制が確立し、前5世紀初めペルシャ戦争に勝利してギリシャの指導的ポリス(都市国家)となり、古代民主制の最盛期を迎える。古典文化の中心地として数多くの哲学者,科学者,芸術家を輩出した。前5世紀末ペロボネソス戦争でスパルタに敗れてから次第に衰え,有為転変の後,マケドニアに支配され、次いでローマに支配され、小都市に過ぎなくなった。
1833年オスマン帝国の支配からようやく解放され、成立したばかりのギリシャ王国の首都になってから再び発展し始め,工業化が進んだ。現在、市内にはパルテノン神殿を始め、ローマ時代、ビザンチン時代の遺跡や建築物が数多く保存され、観光業が重要な産業となっている。

エーゲ海1日クルーズに参加

観光業が盛んな國だけあって、学会場には旅行やクルーズの観光案内のブースが用意されていた。

私たちは学会の合間にエーゲ海1日クルーズと洒落込んだ。400人くらい乗れる大きな船で、各自に指定された座席はなく、船内、1階、2階を上り下りして適当な場所に座り、綺麗な海とたくさんある美しい島々を眺めて楽しんだ。そして3つの島に上陸した。

まず、白壁と橙色の屋根が印象的な、家家が並ぶ“ポロス島”に上陸し、狭い路地を登り頂上からエーゲ海の絶景を眺めたときは、その美しさに感動した。
“イドラ島”は別名「芸術家の島」と言われ、島在住のアーチストの絵が売られている。石畳の情緒あふれる路地とエーゲ海らしい色合いの家々が美しかった。
アテネのリゾート地として知られる“エギナ島”にはギリシャの神殿の中でも保存状態がいいといわれるアフェア神殿を見ることが出来る。また、観光地らしい賑わいを見せる港には、多数の野菜や果物を売る小舟が停泊していた。
2泊3日のクルーズに参加した友人がいたが、私は1日クルーズで充分満足した。本当に楽しいエーゲ海クルーズであった。

パルテノン神殿を見学

往復2〜3時間で行けると言うので、友人と2人でパルテノン神殿を見学した。パルテノン神殿はアクロポリス(「丘の上の都市」を意味する)の中心に立ち、古代ギリシャ文明の栄光の象徴と言われている。パルテノン神殿はオリンポスの神々を祀った神域であると同時に、敵の侵入を防ぐ要塞としての役割をはたしていた。

数十本の美しい太い柱で立てられているパルテノン神殿は、ギリシャの世界遺産「アテネのアクロポリス神殿群」の中でも圧倒的な存在感を放っている。紀元前438年に完成し、創建当時、内陣にはアテネの守護神である女神アテナ像が祀られていた。

神殿はアテネの衰退とともに、幾多の運命を辿った。キリスト教の聖堂となったり、モスクに改修されたりした。1687年、火薬の保管庫として使用されていた神殿は、ヴェネチア軍の攻撃によって炎上し、一瞬のうちに崩れ落ちた。現在の神殿は1834年に始まった修復工事により再建された建物である。

パルテノン神殿はバチカンの世界遺産「サンピエトロ大聖堂」、日本の世界遺産「法隆寺」と合わせて、世界三大宗教空間に数えられている。
高さ三百メートルくらいの丘の上に立つパルテノン神殿は、麓からもその偉容を見ることが出来、私たちはゆっくりと丘を登って神殿に到達した。何十本かの美しい柱によって立てられた神殿は圧倒的な存在感があった。この丘から美しいアテネの全市街地が眺められ、昔、敵の侵入を防ぐ要塞としての機能を持っていたことがうなずけた。

丘の麓にはたくさんのお土産屋が並んでおり、私たちは、小銭入れの財布に付けられるような2センチメートルくらいの金属製の動物の飾り物を半値に値切って数個賈ってきた。